オール様は3-4月号、9-10月号を合併号になさったようね。両方とも直木賞発表号でござーますわ。文学金魚編集人の石川良策さんが編集後記で書いたり文学金魚チャンネルで話したりしていますし、大篠夏彦さんは文學界時評でさらに詳しく書いておられますけど、アテクシのような素人が見ていても、文學界が実質的な芥川賞主宰誌でオール様が直木賞主宰誌だってことはすぐわかりますわ。今号にも表紙に「第161回直木賞発表」って印刷してござーますもの。主宰誌でなければできないわよね。勝手に〝発表号!〟なんてやったら怒られちゃう。
で、文学業界の斜陽ぶりはアテクシだってひしひしと感じてますから、文芸誌も規模が縮小されていく可能性が高いわよね~と漠然と考えておりました。でもオール様が年10冊になるとは正直予想していませんでしたわ。文藝春秋社様の文芸誌なら、まず文學界様がリストラ対象よねと思っておりましたの。だってちゅまんないんですもの、ええそうよ、もんのすごくちゅまんないのよっ!
でも蓋を開けてみればオール様の方が先。これは考えてしまいましたわねぇ。アテクシ、エンタメ小説の質以上にビジネスにうるさいの。すぐ収支を考えちゃうよぉ。雑誌の売り上げが下がっているのは文學界様もオール様も同じだとして、なぜオール様の方が先にリストラなのかが気になっちゃうのよね。だってオール様の方がお金持ち媒体よ。ページ数を見たってオール様は通常400ページを超えるのに、文學界様は200ページくらいでしょ。予算はオール様の方がたくさんもっていらっしゃるわけですわ。
当たり前ですけどリストラは、固定費が売上高を大きく上回り続けると必然的に検討対象になりますわ。雑誌刊行数を減らしたということはそれによって固定費が削減されるってことよね。編集者の人員削減も進んでいるのかもしれませんけど、雑誌を出さなくても毎月人件費はかかるわね。それから印刷費と配本関係費用も固定費ですが、あれだけたくさんの雑誌や書籍を出している大出版社ですからスケールメリットがあって、たいした額ではないはずよ。とすると2号間引きしてどの固定費が減るのかしらね・・・。
恐らく原稿料が一番大きなパイね。純文学系の作家様よりエンタメ系の作家様の方が稿料は高いのよ。若手には以前より安く稿料を設定できても、今まで1枚5千円払ってた先生に来月から2千円ですとは言えないわよね。作家様のキャリアに応じて稿料は違うでしょうが、先生方にお支払いする原稿料は1号間引きすると300万円から500万円くらい減るんじゃないかしら。もしかすると年間1,000万円くらいのコストダウンかもしれませんわ。4桁に乗るとリストラ担当としてもそれなりの成果よねー。少なくとも経営陣に見せる数字の上ではまあまあインパクトがござーますわ。
もしオール様の2号減の目的が稿料削減目的だとすると、それは雑誌と単行本売り上げのバランスが取れなくなったということでもあるわね。文學界様のような純文学誌と違って、オール様のようなエンタメ誌では連載が終わったり単発原稿が溜まったりすると、その多くが本になります。雑誌は売れっ子作家様たちのペースメーカーの役割もになっていたわけですわ。でも思ったほど本が売れなくなると、ペースメーカーのペースも維持できなくなるのは当然ね。雑誌とそこから出た本の売り上げを連結させるのはどの編集部でもやってることでしょうから、本の売り上げで雑誌赤字分を埋められない状態が続けばリストラになるわ。稿料下げれば人気作家様はほかのメディアに逃げちゃうでしょうから難しいところよね。
長い間出版界は原稿料と印税という作家様に対する二重払いをしてきました。これはほかの業界から見ればうらやましいことよね。でもそんなにたいそうなことでもなくて、元値がお安いですからそうでなければカツカツでも作家様は文筆業で食べていけなかったのですわ。すんごいお高い稿料や印税を手にする作家様なんて一握りですからね。でもいよいよこれも変わってゆくかもしれませんわねぇ。稿料&印税というシステムは維持されても、作家ごとの〝実績〟が反映されるようになるかもしれませんわ。少なくとも今まで通りとはいかなくなる怪しい雲行きよ。
もちリストラの影はぜーんぜんオール様の誌面からはうかがい知れませんわ。でもねー、どんな組織でも同じなのよー。経済を気にするのはその部門のトップだけ。雑誌で言うと編集長だけってことになるわね。ヒラのスタッフは「なんで~」と不平こぼしながらいつも通り仕事してることが多いわね。アテクシ、イヤイヤながら不採算部門の立て直しを命じられたことがありますの。難しいわよ。部下を怒鳴り散らすだけじゃ解決にならなくて、その部門が抱えている構造的問題を一つずつ解消して新たに利益を生む仕組みを考えなきゃならないの。切って終わりのリストラ担当者とは比べものにならないほど大変なお仕事よ。
オール様は時代小説をたくさん掲載しておられますが、滝沢馬琴ら江戸の小説家の原稿は買い取りでござーました。馬琴のような売れっ子作家なら原稿買い取り料はそれなりに高かったのですが、千部売れても10万部売れても作家には最初の買い取り料しか入りませんでした。さすがに現代では馴染まないでしょうが、雑誌や本の売上高に応じた作家様の出来高制にすれば雑誌は楽ね。先が見えない時代ですからフリーライターが書く浮いては消えてゆく記事にますます多くの稿料を割かなければならないでしょうから、不要不急の小説稿料は今後もっと不利だわ。
芥川賞受賞作などで話題になる小説は別として、純文学作家様の単行本は今どのくらい売れてるのかしらね。アテクシが見てる感じでは千から2千ね。大衆小説でもその倍くらいが初版でそこで様子見なんじゃないかしら。でもこれはもっと減りますわよぉ。純文学小説だと500部くらいが初版ってことになるんじゃないかしら。大衆文学なら固定ファンがいない限り千部初版で様子見ね。有名版元の話題作りマジックがあっても、もしそんな数字が普通ってことになると厳しいわよねー。まずは作家様が頑張るしかないですが、小ロットの刷り部数が当然になれば出版社の構造改革が必要ね。1時間10万円のコンサルが必要かしらん。
と言われてもやな、と以貫は髭をさすりさすり困惑する。あれは病とおんなじでどうにもできないものなのだと以貫はようく知っている。あそこはなにしろ面白い。この世のようでこの世でない。目の眩むような不可思議な世界が広がっているのである。(中略)おまけにこの頃、人形が年々派手派手しくなっていた。三人の人形遣いの手によって、人形らが人智を超えた動きをする。見ようによっては生身の人間よりも人間らしい。いや、生身の人間からでは見えぬものまで見えてしまう。虜になる。(中略)なるほど人形浄瑠璃とはまっこと、恐ろしいものだ。分別のつく年頃になってから出会ってなお狂わされた我が身に鑑みれば、分別どころか物心さえろくにつかぬ幼子のうちからどっぷりと浄瑠璃に浸けてびたびたにしてしまったのだから、成章がああなるのも自明の理。
(大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』より「硯」)
大島真寿美先生の『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』は直木賞受賞作でございます。オール様は直木賞発表誌ですが、直木賞のほとんどは長編エンタメ小説なので、お作品が掲載されることは少ないですわ。作家様のインタビューなどが祝賀特集内容になります。中編小説の芥川賞のように文藝春秋誌に一挙掲載して一粒で二度おいしいっていうシステムは難しいのよね。でも今回の受賞作品は短編集ですから、9作のうち4作が掲載されております。
「硯」は冒頭作で、大坂の儒者・穂積以貫の次男で成章が、近松半二と名乗って人形浄瑠璃作者になる経緯が描かれています。半二は実在の人物で江戸後期に竹本座の座付作者として活躍しました。元々はお父さんの以貫が人形浄瑠璃狂いで、幼い頃から半二を小屋に連れ回したことから浄瑠璃の魅力に取り憑かれたのでした。以貫は未必の故意で半二を浄瑠璃作家にしたいと思っていた気配もありますわ。以貫は人形浄瑠璃の立役者、近松門左衛門に私淑して生前に硯をもらっていたのですが、それを半二に与えていますから。
「人形らが人智を超えた動きをする。見ようによっては生身の人間よりも人間らしい。いや、生身の人間からでは見えぬものまで見えてしまう。虜になる」というのは人形浄瑠璃の魅力がよく表現された文章ですわ。ホントにそうなのよ。人形劇だと思ってふーんという感じて見ていると、いつの間にか魔術のように惹きつけられてしまうのが人形浄瑠璃の魅力ですわ。
じゃあ物語が人形浄瑠璃の魅力そのものに進むのかというと、そうではありません。短編は半二の人生を時系列的に捉えながら、その活躍を描いてゆきます。
役行者大峯桜は、反故にされてもかまわないから、と半二が覚悟して、というか、半ばやけくそで、もうどうにでもなれ、とこれまでで最も好き勝手に書いたものだった。(中略)
ぶつぶつと絶えず独り語りをしながら筆を動かしておったしな、染太爺いが静かにせんかとよう怒鳴ってたしな。夜半に癇癪を起こした爺いに、ええ加減にせえ、といきなり殴られたことさえあった。それでも、ああいう書き方しかできひんかったんは、つまり、あれがわしのやり方やからや。ふうん、そういうことかいな。それでええ、ちゅうことかいな。だとしたら、あれや。ひょっとして、わしは、浄瑠璃書きにあんがい向いてるんかもしれへんで、と、そんな気さえ、してくる半二。
(大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』より「廻り舞台」)
小説家と違って劇作家が「ぶつぶつと絶えず独り語りをしながら筆を動かして」作品を書くのはよくあることのようですわ。舞台は台詞で進むからでしょうね。また舞台の場景が見えていないといい戯曲にはなりませんわよね。
『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』は盛りだくさんの短編集ですわ。近松半二という劇作家の伝記を丹念に調べ、それに沿って物語をお書きになっています。浄瑠璃の魔力も、劇作家の戯曲の書き方も説得力があります。また舞台は劇作家一人では作れません。興行主の座本はもちろん、人形遣いやその他の裏方の協力があって初めて作品ができあがります。たいていの劇作家は座付きで自分の座(劇団)を頭に思い浮かべて劇を書いているのです。そういった人間模様も物語に織り込まれています。
ただ盛りだくさんなので、ちょっと深みが足りないような読後感になっているような気もしますわ。基本は半二の人生を追っているので、浄瑠璃の魅力自体や劇作家の内面などが追い切れないうらみがございます。うんと面白い脇道に入りこんでゆきそうな強い力を端折って、強引に連作短編に仕上げているような気配もございます。ただこれは大衆小説作家様には必要な能力でしょうね。『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』で示唆された面白そうな脇道は、いずれ作家様が別の物語としてお書きになると思います。
佐藤知恵子
■ 大島真寿美さんの本 ■
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