チーム練習を終えた後、ひとりグラウンドで芝の感触をたしかめながら、ゆっくりとボールを前に蹴り出した。転がってゆく球に向かって走り、足の裏で止める。むずかしいことは考えず、単純な運動を繰り返す。(中略)かたむき始めた陽の光がピッチに射しこんだ。水気を残した芝が橙色に輝いている。何に気を遣うこともなくボールと戯れていると、ほほの筋肉はゆるむ。心臓の鼓動が速くなり、呼吸は荒いものへと変わっていく。
(坂上秋成「おぼれる心臓」)
坂上秋成さんの「おぼれる心臓」は、文學界のような純文学小説誌には珍しいサッカーモノである。主人公はイングランドの三部リーグに所属するシンゴでポジションはフォワード。二十七歳で一度は日本代表に招集されたがその後伸び悩んでもがいている。Jリーグからイングランドのチームに移籍する際にコハルと結婚したが彼女は元アイドルである。当人は超一流選手になれない自分に不満だが、元芸能人の美人の奥さんがいて海外チームでプレイしているわけだから華やかな方だろう。プロになれないサッカー選手の方が圧倒的に多いのだ。これは面白そうだなと思って読みはじめた。
小説は基本的に現実世界を写している。つまりパブリックイメージを有効に活用しなければ魅力を発揮できない。作家には作家の、大学教授、医者、サラリーマン、スポーツ選手にもそれぞれ一定のパブリックイメージがある。それをうまく活用してスムーズに読者の興味を惹きつけ、最終的にパブリックイメージを少しだけ破るような展開が理想である。
スポーツ選手のパブリックイメージはなにをおいても爽やかさである。いわゆるスポーツマンシップだ。それがなければスポーツモノの小説は魅力を放たない。知的要素は必要だが作家や大学教授のそれとは違う。肉体に根ざした知性である。もちろんスポーツ界の実態を知る者は、スポーツマンが必ずしも爽やかでないことも知っている。激しい妬みそねみが渦巻きあからさまに足を引っ張られる世界でもある。しかしそうであっても弱肉強食のスポーツの割り切りがどこかで表現されていないと面白くない。しかし、である。
コハル、少し痩せたんじゃないか。
ちょっとダイエットしてたから。
もともと細いんだから、気にすることないのに。
あなたは少しぽっちゃりした女の子の方が好きなの?
どちらでも構わないよ。僕はただコハルを愛してるんだ。それだけだよ。
きざったらしい台詞ね。
でも、君はこういうのが好きだろう?
ウェインの言葉に対してコハルは返事をしなかった。代わりに彼女は自分の顔をウェインの顔へと近づけ、動物と動物が互いにグルーミングするように頬と頬、首筋と首筋を何度もこすりつけ、それからくちびるを合わせた。天井に付けた監視カメラの映像からでも、彼らが舌を長く伸ばしからませていることが見て取れた。
(同)
シンゴはある事がきっかけで妻のコハルが浮気していると確信し、彼女の部屋に盗聴器と隠しカメラを取り付けた。浮気相手はシンゴのチームメートで親友のウェインだった。イギリスのチームに移籍してきて一番仲良くしてくれたのがウェインだった。妻帯者で子供もいる。親友が妻と浮気していたのである。
コハルの浮気の原因はいくつもある。前々からあわらになっていた夫婦の感情の齟齬、異国で友達も少ない妻の孤独、一時的なものかもしれないがシンゴのインポテンツなどなどである。シンゴとコハルはすでに寝室を別にしていた。
で、シンゴはスマホに送信されてきた妻のコハルとウェインのセックスをじっくり見る。たわいもないピロートークも全部聞く。自分の恋人や夫や妻の浮気現場など不愉快極まりないはずだが全部見聞きするのである。で、怒るのか。夫婦や恋人を最も逆上させるのはパートナーの浮気である。どちらかに愛があればなおさらだ。これが事件にならなければ世の中に事件は起こらないと言っていい。しかしシンゴは怒らない。野球のピッチャーやサッカーのフォワードは俺様のパブリックイメージだが、それをあっさり捨ててしまっている。
おまえは俺のことを友だちだと思っているのか、と私は訊いた。
答えられるわけがないだろう、とウェインはかすれた声で言った。おまえにはおれを罵る権利がある、もしここで殴られたとしてもおれは警察に駆けこんだりしない、それくらいしかできることがないんだ。
その台詞は少なからず私を安心させた。人が人に向ける好意は、ひとつの裏切りによってすべてが無に帰すようなものではない。私はウェインの言葉の中に誠実さを見た。彼は私を嘲笑したりはしていない。罪と情のはざまでもがいているのだと、沈鬱な顔が語っている。
(同)
ん~、ここでスポーツマンシップですかぁと思わず呻いてしまった。シンゴは妻を罵倒し責めたりしない。浮気現場を隠しカメラでつぶさに見たことも言わない。親友だと思っていた浮気相手のウェインを呼び出してコトの経緯を聞き、ウェインもコハルも実質的に許してしまうわけだ。これじゃ小説にならんわなぁ。
どれだけ髪を撫でてもコハルは目をさまさまない。一度眠ってしまうと、よほどのことがなければ彼女が起きることはない。(中略)彼女はまたウェインと会うのかもしれない。私と夫婦でいることをやめたいと考えているかもしれない。私は髪を撫でる。髪の奥にひそんでいるはずの熱を探り当てようとする。背中を向けてしまっているため表情は見えない。いつか、そう遠くないうちに、彼女が不自然ではない笑顔を浮かべるようになってくれればそれでいい。かぼそい糸をよりあわせていった時間の先で、私の愛が彼女のものと重なればいいと思う。
(同)
ん~ん~とまた何度も唸ってしまった。まず初歩的な小説的整合性が取れていない。ウェインを問い詰めた時、彼は浮気がシンゴにバレた以上、当然だがもうコハルとは会わないと約束した。それがシンゴとウェインのスポーツマン的な友情だとすれば、すぐにコハルはシンゴが自分の浮気を知ったことに気づく。そうなれば自分には何も言わずウェインだけを問い質した夫に対して彼女は夫婦関係を修復したいとは思わないだろう。浮気を知っても優しいままの夫は怒り狂うより不気味だからだ。普通の女ならとっとと逃げる。
この小説にテーマがあるとすれば「かぼそい糸をよりあわせていった時間の先で、私の愛が彼女のものと重なればいいと思う」という箇所だろう。シンゴは浮気されてもコハルを愛している。というより彼女に強烈に執着しているのであり、それが露わにならなければ小説にならない。
しかし最初から寝取られ趣味の男の話だったのならともかく、パンドラの箱を開けてしまえば粘着質にならざるを得ない男の執着を、一流に近いサッカー選手で表現するのは無理がある。もっと普通の男で設定しなければ説得力がない。だいたいこんな気の弱いスポーツ選手はいない。なんであれ負けるのが大嫌いというのがプロスポーツ選手というものだ。
小説の末尾ではシンゴが尊敬していたチームの監督が、長年のセクハラで監督をクビになるという挿話もスリップされている。浮気していてもいつもと変わらないコハルと同様に、人間には二面性があることを表現したかったのかもしれない。しかし人格者だと思っていた監督の裏の顔が露わになったことは、シンゴにさらに逃げ道がなくなったことを意味する。この手の小説は本来、逃げ道がなくなった所から始まらなければ物語にならない。
あまりこんなことは言いたくないが、この小説、設定も展開も明らかに失敗だと思う。「テメェ浮気しやがって」「それがどうしたのよ、あんたなんてもう愛してないんだよっ。だいたいあんたはね・・・」から始まらなければシンゴという男が抱える粘着質な妻への愛情は表現できない。浮気癖のある女ならともかく、コハルの描写を読む限り彼女はそれなりに本気でウェインを愛している。つまりどうやってもコハルはシンゴの元に戻ってはこない。そこをなんとかするのか、なんともならない絶望の中で主人公が何かを見出すのが小説というものである。
慌てて手元の灯りで後を追うと、ズンズン舞上がって甲斐駒ヶ岳を背に大きく旋回している。大きな翅をを持て余し、バッサバッサと空気をかき混ぜるような飛び方だ。
グルリと回ってまた戻ってくるのかと思ったが、灯りの外へ消えてそれっきり暗闇の中をいくら照らしてももう見当たらなかった。
あっという間に喪った小さな重みがまだ指先に残っていた。
生まれ育った室蘭の線路わきに、艦砲射撃の砲弾跡に水が流れ込んで大小の黒い沼になった湿地帯があった。みんな「カンポウ」と呼んでいた。ひとり火遊びのマッチも尽きて、オレは有刺鉄線を潜り抜けカンポウに忍び込んだ。目の前で黒い水がゆったり動く渦の中に大きな魚を見つけた。咄嗟に手を伸ばし魚の尻尾を摑んだ。必死に摑んだが、得体の知れない魚はヌルリとすり抜けてまた黒い沼の水にあっさりと消えた。
「あっ・・・・・・」
とっくに忘れていた、あの時のおいていかれた感覚が蘇っていた。
(篠原勝之「蚕をひらう」)
篠原勝之さんはゲージツ家として知られる。鉄のオブジェ作品で有名だが陶芸作品も作り小説などもお書きになる。「蚕をひらう」は山梨のアトリエでひょんなことで山繭の繭玉を拾い、そこから蛾が生まれて来るまでの話しを綴った実体験私小説である。
「目の前で黒い水がゆったり動く渦の中に大きな魚を見つけた。(中略)必死に摑んだが、得体の知れない魚はヌルリとすり抜けてまた黒い沼の水にあっさりと消えた」という箇所を読んで漱石の『道草』を思い出した。ゲージツ家篠原さんはまだまだ何かを追い求め戦っている。
篠原さんに限らず赤瀬川源平や草間彌生、池田満寿夫らも小説を書く(書いた)がもちろんプロの文筆家の訓練は受けていない。しかし篠原さんの「蚕をひらう」はちゃんと小説に、私小説になっている。小説はなんらかの形で「ズンズン舞上がって」読者を高みに連れていってくれなければ困る。もちろん聖なる高みでも穢の中の高みでもかまいはしない。
大篠夏彦
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