今号で巻末に掲載されていた漫画連載「文豪春秋」が最終回になった。文藝春秋社社主で芥川賞・直木賞に代表される今の文壇システムを作り上げた菊池寛の銅像が、編集者とおぼしき若者に文藝春秋社の成り立ちや作家たちとの交流を語るマンガだった。
西村賢太さんはその私小説で「文學界」のことを「文豪界」と書いているが、日本の純文学文壇は文學界=芥川賞中心なのである。ただこれは公然の秘密だった。池上彰さんがテレビ東京の選挙速報で公明党代表に、「公明党の支持母体は創価学会ですが、今回の集票はいかがでしたか」という意味のことを聞くまで、テレビで公明党と創価学会の関係を口にするのはタブーだった。それに似ている。
漫画「文豪春秋」の連載が始まった時あまりいい感じはしなかった。紀尾井町の文藝春秋ビルの中にありスタッフは文藝春秋絡みだとはいえ、芥川・直木賞の母体は公益財団法人である。文藝春秋社や文學界、オール讀物とは別ですよという体を取っているわけだ。しかし漫画「文豪春秋」はあからさまに芥川・直木賞は文藝春秋社の独占的コンテンツですと主張しているように見えた。純文学小説が売れなくなっている状況の中で、しびれを切らすように文學界自身が芥川・直木賞の独占的コンテンツ所有権を主張し始めたように見えたのである。
もちろん実態としてはその通りなのでまったく異論はない。池上さんに創価学会との関係を指摘された公明党党首はその場では不快感をあらわにしたが、後に池上さんを創価学会本部に招待している。公明党が学会に大変お世話になっているのは事実なわけだから全面否定などもってのほかである。それと同じことが文藝春秋社と芥川・直木賞の関係に言える。基本的に両賞は文藝春秋社が苦労して作り上げた権威ある賞である。
ただ戦後の長い間芥川・直木賞はいわば文壇の〝公器〟だという暗黙の了解があった。文藝春秋が文壇システムの頂点にいるのはまあいいとして、芥川・直木賞は公平に文壇を見回して賞を授与するのだろうという共通了解があった。しかし文學界が芥川・直木賞のコンテンツ所有を主張し始めれば事態はちょっと変わってくる。ある種の神話崩壊である。
もちろんこのような神話崩壊は社会全体の大きな変化と連動している。戦後が完全に終わったということだ。昭和二十年(一九四五年)の太平洋戦争終戦は日本人の精神に甚大な影響を与えた。その影響が陰に日向に半世紀ほど続いたのだった。戦後文学的なテーマというものがあり、戦後文学的な書き方が確実にあった。若手作家たちはそれをなぞり、そこに作家固有のテーマを乗せることでデビューするのが常だった。しかし一九九〇年頃からの高度情報化社会の到来で戦後文学的テーマも書き方もあっさり霧散してしまった。
それは自由詩の凋落にはっきり現れている。自由詩は戦後一貫して「現代詩」と呼ばれ、戦前までの詩を「近代詩」と呼ぶことでその独自性を主張した。現代詩は戦後文学の前衛だった。しかし現代詩=戦後前衛文学は完全に消滅しその先のヴィジョンを見失っている。
文學界は長い間巻頭に現代詩を掲載していたが、そこには文學界が現代詩と同様に小説界の前衛だという意図があっただろう。しかし文學界は巻頭に現代詩を掲載するのをやめてしまった。今は「巻頭表現」に変わり歌人、俳人、写真家、俳優など文學界が時代を代表すると考える表現者のページになっている。ただし巻頭表現の意図は今ひとつピリッとしない。現代詩を前衛の座から追いやっても、そのほかの表現者が新たな前衛だとはとても言えない。
もちろん文學界が芥川賞の主催者だと主張し始めたとしても、芥川賞が文學界文藝春秋関連作家にのみ授与されているわけではない。しかしわたしたちはとても難しい時代にいる。
芥川賞に代表される日本の純文学文壇は、明らかに私小説を高く評価してきた。原理として神の視点から現世を描く欧米小説と違い、まったくの無神論世界で世界調和を描き出す私小説が日本独自の小説形態であるのは間違いない。また狂信的皇国主義から自由主義世界に移行した日本で、政治などのイデオロギーに左右されない私性を描くことは大変重要なテーマでもあった。
この日本文学の特徴を端的に表す私小説の伝統は継承された方がいい。文学の過去コンテンツとしてなくてはならない伝統だとも言える。しかしそれを新たに訪れ圧倒的変化をもたらしている情報化社会に接続することができないでいる。今の純文学は過去の私小説をなぞり、テーマも文体もなにがなんだかわからない小説になっている。私小説モドキの小説が純文学になっていると言えるほどだ。
もちろん伝統を継承する文化がある時期から突然大きく変化するのは難しい。伝統の否定になりひいてはその文化の消滅にも繋がりかねないからだ。当面は私小説モドキの純文学で時間を稼ぎ伝統を守る苦しい時期が続くだろう。しかしさらに情報化社会が進むわけだから誰もが「王様は裸だ」と気づく時が近づいている。優れた作家が出なければ現代を明確な〝YES〟という肯定で捉える文学は成立しない。作家だけでなくメディアも現代文学の進むべき方向をはっきり示さなければならない時期に差しかかっている。
ようやく息子の不在に気がついた母が葵を連れ戻しにくると、みどりはほっと胸を撫で下ろした。けれどもそれも束の間、弟を抱き上げて部屋を出ていく母の背中を見送っていると、途端に胸がざわざわと騒ぎ出すのだった。葵の世話に振り回されるようになってからというもの、母はいたく忘れっぽくなってしまった。娘にかける何気ないことばを、さりげない心づかいを、母はうっかり忘れてしまっている。「みどり、からだの具合はどう?」とひと言聞いてくれさえすれば、答えはもうすでに用意してあるのに。(中略)
ところがどれだけ待ってもいっこうに母はやって来ず、そわそわとした時間だけが知らんぷりで過ぎてゆくのだった。するとどうしたことかみどりの腹の奥の方からひょっこり顔を出した不安が、まるでお風呂のスポンジにこすりつけた石けんの泡のようにみるみると嵩を増していくのだった。自分がどうして不安を感じているか、彼女にはさっぱり分からなかった。ただ、このまま母が来なければ自分は一生ひとりぼっちなのかもしれない、などという飛躍した滑稽な考えが頭のなかをぐるぐると巡り続けた。
(南水梨絵「まつりの夜」)
今号には「二〇一九年下半期同人雑誌優秀作」が掲載されていて、南水梨絵さんの「まつりの夜」が選ばれた。みどりという少女が主人公の小説で十五枚ほどの短編である。みどりが小学生になったばかりの頃に弟の葵が生まれた。ただ葵は未熟児で産院から退院するまでに時間がかかった。歩くのも言葉を話すのも同世代の子たちよりも遅く病弱でもあった。そのため母親は葵の世話にかかりっきりで、お姉ちゃんのみどりへの気遣いを忘れがちになった。意図してのことではないとわかっていてもみどりの心はざわついた。
楽しみにしていたお祭りの日にみどりは風邪で寝込んでしまった。そんなみどりの枕元に母親の心を一人占めしているような弟がちょろちょろと遊びにくる。みどりは苛つくが母はやはり葵にかかりっきりだ。ふと気がつくと身体が軽くなっている。いつの間にか風邪が治っていたのだ。みどりはこれからお祭りに行こうと思う。弟がまとわりついてきたので、母へのちょっとしたあてつけもあって葵を連れてお祭りに出かけた。
「すみません、こっちを下さい」
自分の声が思った以上にかすれていることに驚きながらも、みどりは右端の上方に飾られた女の能面を、懸命に背伸びをしながら人差し指で示した。
「こっちじゃなくて、こっちってこと?」
主人は薄い表情のまま、仮面ライダーの面を、それから能面を順に指差して確認した。みどりは大きく何度もうなずいた。主人は、およそみどりのような女の子が欲しがりそうにもない面を選んだことを訝しがりながらも、弟の方がダダをこねることなくみどりの真似をしてこくりこくりと嬉しそうにうなずいているからか、とりたてて異を唱えることもなく、手を伸ばして能面を取り外し、みどりに手渡してくれた。
(同)
みどりがお祭りに行きたいと強く思った理由は、去年のお祭りで見たオモチャの能面がどうしても欲しかったからだ。無表情な女の能面である。なぜみどりが能面が欲しいのか、説明すれば小説ではなくなる。もちろん「まつりの夜」でもそんな説明はない。ただみどりが能面を欲しがる理由は「なぜだか分からないけど、あの面の裏側を見なくては、という思いに駆られた」からだと書かれている。これ以上の解説は不要だろう。
文學界に掲載される同人誌優秀作は必ず読むようにしているが、それは多くの作品に作家がどうしても表現したいテーマがあるからである。南水さんの「まつりの夜」も超短編だがハッキリとしたテーマがある。それゆえ秀作になっている。
ただこれがプロ、つまりは作品を量産するようになると薄れてくる。テーマがないのに小説を書く姿勢が目立ってくる。中身がないのに外側だけ純文学の体裁を取り始めるのである。しかしそれは本当の意味でのプロではない。私小説モドキを書いている小説家モドキに過ぎない。
多くの作家は一つの作品には一つのテーマで、同じテーマは二回使えないと思い込んでいる節がある。しかし私小説という純文学形態では必ずしもそうとは言えない。作家を捉えて放さないテーマは基本的に一つであり、それは無限に違う形で表現できる。
なぜ同じテーマを違う形で何度も表現できないのかと言えば、私小説という表現形態をとことん考え抜いていないからである。そのためテーマで小説を成立させるのではなく、外側の純文学らしい体裁で小説を書いてしまうことになる。しかしいくら純文学らしい体裁を整えてもテーマがなければ小説は弱い。むしろ外側を強固にしてゆく技術が増すにつれ中身の希薄さが目立つようになる。何度書いても同じになってしまうほど強いテーマなら、そこから物語的なバリエーションも小説文体も自ずと生まれて来るはずである。
大篠夏彦
■ 金魚屋の本 ■