「・・・・・・やってよかった。ほんとうに。この子に会えて、本当によかったです。怖がらずにやってよかった。この子に会えたこと。わたしの人生に、もう、これ以上のことはないです」
その声には、心の底から幸せを感じている人から滲みでる――それをなんと呼べばいいのかわからないけれど、その眩しさにこちらが思わず目を細めてしまうようなものが、溢れていた。わたしは目を閉じて、何度も彼女の仕草や言葉を反芻した。(中略)わたしの人生に、もうこれ以上のことはないですわ――するとつぎの瞬間、手で胸を押さえて話しているのはわたしで、あのとき勇気をだして本当によかった、この子に会えて、本当によかったです――ひとりきりの部屋でそれらを想像しているこのわたしの姿などみえないような満ち足りた顔で、腕には柔らかくて小さな赤ん坊をしっかりと抱いているのだった。
(川上未映子「夏物語」)
わたしはたまたまテレビで見たAID(精子提供)のドキュメンタリー番組に惹き付けられた。YouTubeにアップされたその番組を繰り返し見た。AIDは無精子症などの男性不妊カップルが、それでも子供が欲しい場合に第三者の精子を使って行われる不妊治療である。日本では単に子供が欲しいだけの独身女性や同性愛のカップルには認められない。「番組を見たあの夜は、たしかに興奮して眠れなかった。一年以上もうろうと考えていたことや不安にたいする、答えとかチャンスというのじゃないけれど、何かそんなようなものにふれられた気がした」とある。
「夏物語」ではプロットはそれほど重要ではないので書いてしまうと、わたしは実際にAIDで妊娠して子供を産むことになる。ただしその理由をわたしは最後まで「もうろう」としか把握できない。なぜならわたしは〝変わりたい女〟であり、かつ絶対に〝変わりたくない女〟だからである。
もちろんサブ的な、あるいは現実的な理由はある。わたしは十七歳から二十三歳まで高校時代の同級生・成瀬と付き合っていた。付き合った男は成瀬だけで、セックスした相手も今に至るまで成瀬だけだ。心から理解し合える恋人だったが成瀬の浮気が原因で別れてしまった。浮気を責めたわたしに成瀬は「どうしても女の子と寝たかったんだ」と言った。浮気している女の子を愛しているわけではないとも言った。
わたしはセックスに強い抵抗感がある。「裸になって成瀬くんを受け入れるたびに、気持ちはどんどん暗くなり、何をやっているんだろうと涙が出るようになった」。わたしには性の欲求が「まるでない」。それは三十代後半になっても変わらない。わたしは自分の性器を指で触って「そういうこと(男とのセックス)のために使うものではない」と考える。
わたしの中には胸が膨らむことに悩んでいた姪の緑子がいる。女子大生になった緑子が普通にボーイフレンドと付き合い始めたのに対しわたしは思春期の緑子のままだ。図式的に言えばわたしの性器は男とセックスするためでなく子供を産むためにある。また子供を生むことは男の影ナシで変わりたい女である姉の巻子に繋がる。わたしの中で巻子と緑子が統合されなければならない。
もちろんAIDで妊娠出産することが、変わらないまま変わるという主題とストレートに繋がるわけではない。子供ができることは男にとっても女にとっても一大事だが、その感動は一瞬のものでありすぐに相も変わらぬ日常が戻ってくることをわたしは知っている。子供を持って変わった、あるいはそれを契機に変わりたかったという親の気持ちを子供が完全に共有することはない。しかしわたしがAIDでの妊娠出産に踏み出してから小説は一気に複雑になる。
「女にとって大事なことって何なの」わたしは訊いてみた
「女でいることが、どれくらい痛いかだよ」遊佐は言った。
「こう言うとさ、はいはいお疲れさまでした、男だってじゅうぶん痛いんだよとか言うやついるけどさ、男が痛くないなんて誰が言ったよ。そりゃ痛いだろうよ、生きてんだから。でも問題は、誰がその痛みを与えているかだろ。どうやったらその痛みが取り除けるかだろ。男が痛いのは誰のせいなの?」(中略)
わたしは笑った。
「でもまあ、ううんと長い目でみてさ」遊佐も笑って言った。「女がもう子どもを産まなくなって、あるいはそういうのが女の体と切り離される技術ができたらさ、男と女がくっついて家だのなんだのやってたのって、人類のある期間における単なる流行だったってことになるんじゃないの、いずれ」
(同)
遊佐リカは仙川が紹介した小説家で直木賞作家だ。シングルマザーで娘がいる。姉の巻子と同様に元夫とは「むこうもこっちにまったく興味ない。連絡もしてこないし、連絡しない」という状態だ。遊佐が語るのはいささか杓子定規なフェミニズム論である。遊佐は「少なく見積もって女の痛みの半分以上を作ってんのは、どこの誰だよ」と男性批判を口にする。遊佐だけでない。わたしのかつてのアルバイト仲間の紺野は、家庭における女は「まんこつき労働力」だと吐き捨てた。
わたしがAIDでの妊娠出産を相談すると、遊佐は「ぜったい子ども、産むべき」だと言った。遊佐は「子どもを産まなかったらと思うと心の底からぞっとする。こんなふうな存在があることを知らないままだった可能性があると思うと、それだけで恐ろしい気持ちになる」とわたしを後押しした。「子どもを作るのに男の性欲にかかわる必要なんかない」というのが遊佐の考えだ。
遊佐の思考方法はある意味直木賞作家のものである。エンタメ小説を量産するには様々な時事的社会問題を取り上げ、迷うのではなく一方向から明確な答えを与えてやる必要がある。しかしわたしは純文学作家であり物事を白と黒で割り切ることができない。
「どうして子どもなんて、そのへんの女が言うようなことにこだわるの。ねえ、しっかりしてくださいよ。(中略)リカさんはしょせんエンタメ作家ですよ。あの人にも、あの人の書くものにも文学的価値なんかないですよ。(中略)でも夏子さんは違う――ねえ、いまお書きになってるものがどうにも動かないようならね、それはそこに、その小説の心臓があるんです、それこそが大事なんです。すらすら書ける小説に何の意味が? ねえ、最初から原稿を挟んで、ふたりでやってみましょうよ。大丈夫、わたしがいるから。わたしがついてる。きっとすごい作品になるもの。わたし信じてるのよ。誰にも書けないものが、あなたには書けるって」
(同)
仙川は子どもを産むべきだという遊佐の言葉だけでなく、その小説まで全否定する。「文学とは無縁の、あんなのは言葉を使った質の悪いただのサービス業です」と罵倒した。では仙川が言う「誰にも書けない」「すごい作品」とはどんなものなのか。
わたしは仙川と遊佐の間で板挟みになり、どちらの言葉に従うか決めかねたまま仙川の前から逃げるように立ち去る。そして仙川は唐突に死ぬ。検査した時にはすでに末期癌で、ほんの少数の親族にだけ病状を伝えてひっそりと亡くなったのだ。
仙川の死は言うまでもなくわたしがAIDでの妊娠出産に踏み切るシグナルである。ただ小説を書くことに憑かれたわたしにとって、仙川はほとんど唯一の「社会との窓口」だった。不特定多数の読者に小説が読まれるためには、作家は絶対に社会との窓口を残しておかなければならない。
わたしと巻子の父親は蒸発したが、姉妹に父への執着はない。わたしも巻子も緑子も父親を探そうとしない。巻子も遊佐もシングルマザーだが元夫との縁は切れている。また巻子は豊胸手術を受けようとするが男のためではない。わたしも同じだ。わたしは成瀬以外のボーイフレンドを持ったことがないし、これからも男と性的関係を持つつもりがない。女たちにとって男は基本的に異和だ。
つまり「夏物語」では可能な限り男が排除されている。しかしAIDでの妊娠出産には精子だけの提供とはいえ、必ず男が必要になる。それが編集者・仙川とは別の社会的窓口になる。
小説にとって――特に女性作家の小説では男は激しく女を苦しめ抑圧し、ほんの少しだけ幸せを与えてくれる存在である。「夏物語」でもその構図は同じだ。ただ「夏物語」第二部に登場する重要な男の登場人物が男と言えるのかどうか。
「夏目さんに会って気づいたことがあります」逢沢さんは言った。「僕はこれまで自分の本当の父親を探していたけれど、会わなければいけないと、自分自身の半身がどこからきたものなのか、それを知らなければならないと思っていたけれど」(中略)
「父が生きているあいだに本当のことを知って、そのうえで、それでも僕は父に、僕の父はあなたなんだと――僕は父に、そう言いたかったんです」(中略)
大通りの信号を渡り、うどん屋の灯りを右手に見て、どこからか来て帰ってゆく人たちにまぎれて歩いていった。駅の階段が見えたとき、逢沢さんが小さい声で、けれどもわたしにまっすぐ届く声で言った。もし、いまも夏目さんが子どものことを考えているなら、僕の子どもを産んでもらえないだろうか。(中略)逢沢さんはもう一度、静かな声で言った。夏目さんがもしいまでも子どもを望んでいるなら、会いたいと思っているのなら、僕と子どもを――わたしは体がゆれるくらいに大きく波打つ心臓の音を聞きながら、一歩ずつ階段を昇っていった。
(同)
わたしは『AIDを当事者から考える会』のシンポジウムに出席し、スタッフの一人で同い年の逢沢潤と知り合った。逢沢には医大時代から付き合って結婚を約束した恋人がいた。しかしAIDの出自が問題になり、婚約を解消されて自殺未遂した過去がある。父親が無精子症だったので母がAIDを受けたのだが、出生の秘密を問い質すと母親は「何が問題なのかわからない」という顔をした。「おまえはわたしの腹の中で大きくなって、わたしが産んで、おまえが産まれた。それしかないじゃないか、それだけだよ、ほんとに」と言いつのった。
わたしと逢沢は急速に惹かれ合う。逢沢はわずかな手がかりを元に実の父親を探していたが、わたしに出会って自分の本当の欲求が、心から可愛がってくれた父が生きている間に「僕の父はあなたなんだ」と言いたかったことだと気づいたと言ぅた。逢沢はまた「僕の子どもを産んでもらえないだろうか」とわたしに申し出た。
逢沢が生物学的な父ではなく育ての父親への感謝を口にしたのは、わたしが父のいない家庭で母と祖母に育てられ、幼い頃から姉といっしょに働きづめで育ったと話したからかもしれない。愛し守ってくれたのは不在の、あるいは去って行った親ではないということである。ただ逢沢がわたしに自分の子を産んでくれと言った理由は、わたしと知り合ったことで逢沢が別れてしまった元恋人の善百合子の口から語られる。
逢沢と、子どもをつくるのね、としばらくして善百合子が小さな声で言った。わたしは肯いた。
「逢沢は」
善百合子は指先でまぶたをそっと押さえて、消え入りそうな声で言った。
「生まれてきたことを、よかったと思っているから」
わたしは黙って善百合子を見つめていた。
「わたしは、あなたとも、逢沢とも違うから」
わたしは肯いた。
「ただ、弱いだけなのかもしれないけれど」善百合子は頼りない笑みを浮かべて、そして小さな声で言った。「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」
(同)
善百合子もAIDで産まれた子だが、育ての父親にレイプされその上売春までさせられた辛い過去を持っていた。AIDで産まれた共通点で逢沢と恋人になったが、わたしの出現で逢沢との違いが露わになる。近親者のレイプと売春強要で百合子が抱えることになった絶望はAIDとストレートには繋がらない。AIDは百合子が経験した不幸な過去の一因に過ぎず、彼女はこの世に産まれてきたことを呪いながらAIDの啓蒙活動――それも否定的な――を行っていた。しかし逢沢は裕福な旧家でなに不自由なく育った。
逢沢がわたしに自分の子供を生んで欲しいと言ったのは、彼が「生まれてきたことを、よかったと思っているから」である。逢沢は出生の秘密に悩み百合子に導かれてAID啓蒙活動に関わるようになった。できるだけリベラルでいようとしたがAIDに否定的だった。しかしわたしと知り合ったことで百合子の影響から抜け出し、彼本来の生の肯定に進み始めた。産まれてきたことを全的に肯定するなら出生の経緯は問われない。
わたしは百合子に「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」と言った。
逢沢をパートナーにして出産すると決意はしたが、わたしは子供を産むことが何を意味するのか、その先に何が待っているのかわからないままだ。またわたしは当然逢沢とセックスしない。逢沢の精液を使ったAIDで妊娠する。逢沢は病弱な母親のために実家に帰って働くことになり、連絡は取り合っているが出産に立ち会うわけでも子育てするわけでもない。わたしは自分一人で産んで一人で育ててゆくと決め、逢沢も了承している。
比喩的に言えば、逢沢は精液は提供できるがペニスを持った男ではない。逢沢は「僕の子どもを産んでもらえないだろうか」と言ったが、それは肉体的にも精神的にもわたしを揺るがし貫いて、そこに幸福であれ不幸であれ新たな世界を作り出すためではない。逢沢はわたしが属していて、これからも属し続ける女の世界に一滴の精液を提供しただけだ。逢沢は精液を提供して物語から消える。
わたしの変わらないまま変わるという主題はAIDで妊娠出産することでまがりなりにも成就される。ただしわたしの本質はまったく変わっていない。永遠に初潮前の少女のままである。
額から垂れてくる汗をぬぐい、目をこすりながら、ノブをにぎり、わたしはがちゃがちゃと前後に動かしつづけた。開かなかった。叩いてもみた。でもドアは乾いた音を立て軋むだけだった。わたしはもっと強くドアを叩いた。急かされるように、追われるように、わたしはドアを叩きつづけた。このドアがひらけば、もう一度会えるのかもしれないとわたしは思った。もう一度、会えるのかもしれない。ランドセルを背負ったわたしが階段を上がってきて、そしてなかからドアがひらいて、赤いエプロンをつけた母がおかえりと言うのかもしれない。いまもしこのドアがひらけば、あの白いトレーナーも、あの人形もランドセルも、みえるのかもしれない、笑ったこと、眠ったこと、みんなで囲んだ小さなこたつも、柱に刻んだ身長も、みずやのなかのプラスティックの赤いコップも、いまなら塞がれていた窓をあけて、もう一度、見られるのかもしれない、会えるのかもしれない、起きない、そんなことはもう起きないことはわかっていたけれど、それでもわたしはドアを叩きつづけた。わたしたちが暮らした家の、部屋の、小さなドアを叩きつづけた。父は、とわたしは思った。父は、覚えているだろうか、ドアを叩きながわたしは思った。父は、ある日どこかへ消えてしまった父は、父はどこかで、覚えているだろうか。わたしたちと暮らしたことを、そしてわたしたちのことを、思い出すことはあったのだろうか。
(同)
わたしは数年ぶりに大阪の巻子と緑子の元に里帰りすることにした。ささいなことで巻子と電話で喧嘩して気まずかったこともあり、わたしは昼頃には大阪に着いたが待ち合わせ時間を夕方にしてもらった。ふと思い立って、夜逃げする前に父母と姉妹四人で住んでいた小さな港町を訪ねることにした。住んでいた家はまだあった。記憶の中よりも小さくて細いビルだった。ビルは無人になっていたがわたしは元の家のドアを激しく叩いた。
「夏物語」という長い長い小説は、わたしが生家の家のドアを叩き続けるシーンで本質的に終わっている。わたしは子供を産みたい理由を何度も自問し、人からもなぜと訊ねられたが、「会いたいから」としか答えられなかった。その〝会いたい〟の本質的理由がこのシーンで表現されている。
「夏物語」は貧乏の定義から始まるがわたしが貧乏を恨んだ記述はない。むしろ巻子と貧乏だった少女時代を楽しそうに回想している。またわたしが貧乏とは窓がないことだと言った理由ははっきりしている。わたしは親子四人で住んだ家に閉じ込められている。父親が蒸発し夜逃げせざるを得なかったが、わたしにとって生家が家族のアルケーであり幸福の原像だ。わたしは苦しくもあり幸福でもあった少女時代に戻りたい。「塞がれていた窓」のある生家の部屋のドアをもう一度開けたい。
芥川賞作家にこんなことを言うのは失礼だが、川上未映子は決して上手い作家ではない。「夏物語」でもAIDに関する記述になると、取材して書いた箇所がはっきりわかる。引用や剽窃の問題を指摘したいわけではない。そんなことは太古の昔から多かれ少なかれ作家たちがやっていた。情報化時代になって揚げ足を取るように他者の引用や取材箇所を剽窃だと騒ぎ立てる人が現れただけのことである。世界は昔から引用の織物であり、その目地が作家以外の人たちにも見えるようになっただけのことである。
テクニカルに言えばそれほど上手いわけではない千枚の小説を読み通せるのは、生家のドアを叩き続けるシーンのような溢れる抒情が「夏物語」に繰り返し現れるからである。夢枕獏や浅田次郎のような小説テクニシャンならここぞという時に使うだろう抒情の奔流を、川上未映子は愚かしくも何度も繰り返す。「ほれ笑いな、だいじょうぶや、ばあちゃん死んでも絶対合図送るから。ほんま?(中略)どんな合図? それはいまはわからんけど、ぜったい会いにくるでえ。(中略)コミばあ、(中略)何があっても会いにきてな。(中略)わかったわかった、わかったよ、ほんまやで、約束やぶったらあかんねんで、わたしずっと――コミばあのこと、わたしずっとずっと、待ってるからな」と繰り返す。それが川上未映子が純文学作家である理由である。川上未映子は詩人の資質があると感じることもある。
しばらくして、赤ん坊が胸のうえにやってきた。黄色い小さな帽子をかぶせられ、信じられないほど小さな体をした赤ん坊が、胸のうえにやってきた。肩も腕も指も頬も赤く縮まらせ、すべてを真っ赤に充血させながら、赤ん坊は大声で泣きつづけていた。三千二百です、元気な女の子ですよと声がした。わたしの両目からは涙が流れつづけていたけれど、それが何の涙なのかはわからなかった。わたしが知っている感情のすべてを足してもまだ足りない、名づけることのできないものが胸の底からこみあげて、それがまた涙を流させた。わたしは赤ん坊の顔を見た。顎をしっかりとひいて、赤ん坊のぜんぶを目に入れた。
(同)
「夏物語」はわたしの出産シーンで終わる。産まれたのは女の子。仙川や逢沢というわたしにとっての社会の窓を本質的に拒否し、少女時代に閉じることを選択したのだから当然だ。わたしが子供を産みたい、会いたいという欲求は、わたしが封印され閉じ込められている部屋から出ることを示唆している。しかしそこから出られる保証は何もない。わたしは赤ん坊を抱いて泣き続けるが「それが何の涙なのかはわからな」い。物語は振り出しに戻る。赤ん坊はわたしと似たような少女の道を辿り、やがてわたしとはまったく違う大人の人生を歩む。わたしは再び子供なしで自分の主題に戻ってくるだろう。
情報化時代の作家として川上未映子は迷い続けている。ジェンダー、男権社会、フェミニズム、AIDと社会的主題について考え、それを取材して書けば書くほど判断は留保される。批判する立場もあれば肯定する立場もある。調べれば調べるほどどちらにも言い分はある。ただ一歩踏み出さなければならない。善百合子に「わたしは忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」と言ったように出産は間違いなのかもしれない。
「夏物語」末尾の出産シーンは、正直に言えば作家による〝渾身の嘘〟という気がする。それではこの作品のテーマには届かない。仙川涼子が言った「誰にも書けない」「すごい作品」にはなっていない。ただこの嘘は美しい。ギリギリまで追いつめられた人が口にする嘘は非情なまでに美しい。渾身の嘘をつかなければ作家は「夏物語」を書き終えることができなかっただろう。
もちろんそれは純文学に許された嘘でもある。苛烈な私小説を書いた葛西善蔵ですら、「親愛なる椎の若葉よ、君の光の幾部分かを僕に恵め」と逃げを打った。絶えることのない地獄の業火のような自我意識の苦悩を春夏秋冬の季節の巡りにサラリと流した。新たな生命の誕生は、日本の私小説ではなじみ深い落とし所である循環的世界観と同じである。生があれば死があり死があれば生がある。
ただ作家はすべからく自分が書いた作品に復讐される生き物だ。川上未映子が「夏物語」の主題をジェンダーやフェミニズムにあると自ら誤解するのなら、それは不幸なことだ。金井美恵子や笙野頼子、荻野アンナ、松浦理恵子らと同じ女流作家の道を辿ることになる。かつては輝きを放っていた女性作家の衰微は見たくない。殻はなんとしても破らなければならない。(了)
大篠夏彦
■ 川上未映子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■