今号は第49回九州芸術祭文学賞の発表号でもある。以前、同賞を受賞された尾形牛馬さんの「酒のかなたへ」を取り上げた。アルコール依存症の男を題材にした小説で秀作だった。当たり前だが文学賞は毎回受賞者が違うわけで、ちょいと言いにくいが常に高いレベルの作品が受賞、というわけにはいかない。出たとこ勝負なわけだが、過去によい作品が受賞していればまた読んでみようかという気になる。これはどの文学賞でも同じですな。優れた作品が賞の権威を作ってゆくのである。
『響庵』に兎がやってきたのは、二年前のことである。ある日施設長の野村が知人のペットショップからつがいの兎をもらってきた。(中略)施設のロビーで女子職員たちがケージを囲んで「可愛いーー」を連呼し、何か久々に心和む贈り物が宅配で届いたような明るい雰囲気だった。(中略)「高江洲君、どうかね可愛いものだろう。利用者の皆さんの癒やしになればと思ってね、それにアニマルセラピーは、我が響庵のウリにもなる。君は大学で老人福祉を専攻しているし、その辺は君の方が専門だと思うがどうかね」と野村はケージの兎に目を細めながら言った。(中略)ぼくはどう応えていいのかわからずに、とりあえず曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
(平田健太郎「兎」)
「兎」の主人公は有料老人ホーム響庵で介護福祉士の仕事をしている高江洲=「ぼく」である。ぼくは大学の福祉学科を卒業したが、二年間銀行に勤務した後で介護福祉士に転職した。転職の理由は「銀行の仕事が嫌いだったわけではなかった。なんとなく自分が世界の端っこに追いやられていくような感じがして、時々、寂しくて堪らなくな」ったからである。
ただぼくは銀行マン時代より介護福祉士の仕事に生きがいを感じているわけではない。響庵で仕事をしていても「世界の端っこにいる心もとなさは変わらない」。つまり「兎」は〝世界の端っこ〟の物語であり、ぼくの〝心もとなさ〟=不安を表現した作品である。
兎が増え出した頃から、逆に『兎の庭』を訪れる老人たちが少なくなっていった。(中略)兎の話題で賑やかだった時間が嘘のようだった。それどころか中にはフェンス越しに群がる兎の背中を杖で突いたり、ホースで水を掛けたり、これまで考えも及ばなかった虐待をする老人もいた。(後略)
「あのねぇ、この畜生は子を産み放題、魔物だよ。見ていると気持ちが悪くて、イライラするさぁ」と杖をついた老人が怒りを露わにして声を荒げた。
フェンスの中を見ると、白や茶褐色、グレーにツートンカラーと色とりどりの兎たちが得体の知れない塊となってモゾモゾと蠢いている。(中略)愛くるしい目をして縫いぐるみみたいに可愛かった兎たちが、ぶくぶく太ったネズミに変身して、今にも襲いかかってくるような恐怖に襲われる。
(同)
ペットショップのオーナーに兎の繁殖力は強いから気をつけるよう言われていたのに、ぼくが雌雄を分けるのを怠ったために兎たちはたちまち二十羽を超えてしまった。あわててフェンスを作って雌雄を分けたが効果は薄かった。兎は軽々と飛び跳ねてフェンスを越え、フェンスを高くしても下の土を掘ってトンネルを作って交尾した。いつのまにか兎たちは数え切れないほどの数に増えていた。
癒やしを得るために飼い始めたのに、兎が増えると老人たちは激しい憎悪を抱くようになった。それだけなら人生の終わりにさしかかった人間が、不気味なほどの生命力(繁殖力)を示す兎に対して自らの存在意義を脅かされるような恐れを感じたためということになる。また繁殖というはっきりとした目的を持ちそれを実現した兎たちに、確たる生きがいも居場所もつかみかねているぼくが不安定な内面を揺さぶられたのだとも言える。では物語は〝兎始末〟の方に進むのだろうか。もちろんそうはならない。
「早く逃げないと、大変になるよ。学校にアメリカの飛行機が落ちてみんな殺されるよ。モーイーもチルーも逃げるんだよぉ」
知恵さんの声ははっきりそう言っていた。それから知恵さんは黄色のエコバッグを広げて、その中に一羽ずつ兎を入れた。ぼくはフェンスの扉を開けて知恵さんに駆け寄った。(中略)
「知恵さん、一緒に逃げましょう。でも、もう今日は遅いし、夜だとかえって危ないですよ。明日の朝、兎たちも一緒に逃げましょう」とぼくは言った。知恵さんの言動は以前にも増して唐突になっていて、記憶の隙間が揺らぐ時間が少しずつ長くなっているような気がする。
(同)
響庵には知恵という七十一歳の初期の痴呆をわずらう女性が入居していて、誰よりも兎を可愛がっていた。兎が増えても知恵の愛情は変わらなかった。ただほかの入居者たちが兎に対していわれなき敵意と憎悪を抱くようになると、知恵の態度が変わっていった。「早く逃げないと、大変になるよ」と言って兎をエコバッグの中に入れ、フェンスの外に連れ出そうとし始めたのだった。
作者の平田健太郎さんは、沖縄出身で沖縄在住と略歴紹介にある。沖縄の作家が太平洋戦争中の凄惨な沖縄戦や、今も続く米軍基地への複雑な思いを作品で表現するのは半ば当然である。知恵が言った「学校にアメリカの飛行機が落ちてみんな殺されるよ」というのは五十九年前の米軍ジェット機墜落事件を指す。ジェット機は住宅地に墜落して小学校に突っ込み児童を含む十八人が死亡した。知恵は元保育士なのでこの事故になんらかの形で関わったのかもしれない。
この設定によって小説は一気に複雑さを増したことになる。兎の強烈な繁殖力は、もはや日の沈みかかった老人たちとストレートに対比されることがない。では響庵のほかの入居者たちが米軍機墜落事故で起こったような理不尽な虐殺を行うのだろうか。増えすぎた兎に困り果てたぼくが密かに兎を処分するのだろうか。そうはならない。善意からとはいえ兎を殺してしまうのは知恵である。
ぼくと施設長の野村は市役所の自然環境保護課の職員の訪問を受けた。高齢の女性がエコバックから兎を出して自然保護エリアの雑木林に捨てているというのだ。捨てられた兎はマングースに食い殺されて無残な姿になっていた。職員は「場合によっては動物虐待事件としてしかるべき捜査が入るかもしれない」と言った。知恵は未必の故意の兎の虐殺者になっていた。物語の落とし所がさらに難しくなった。
フェンス沿いの長椅子に腰を下ろして、風に揺れるコスモスの花の波をただぼんやり見つめながら、ぼくはあの五十九年前の出来事を想像する。硬く閉ざした扉の隙間から零れる細い光のように、ぼくの記憶は時空をたゆたいながら遠い過去と遭遇する。それはぼくが生まれるずっと前の時間だ。気の遠くなりそうなほど長い年月を耐えてきた硬い扉の向こうに知恵さんの姿が浮かぶ。
そこには知恵さんの苦悩がとぐろを巻いている。おそらくうんざりするほどの歳月を重ねても知恵さんの記憶は、あの日を忘れないのだ。ぼくにはそう思えてならなかった。
夕暮れにはまだ時間があり、冬の太陽が穏やかにすじ雲を映している。いつしか辺りは茫洋とした光景に包まれて、青い風がぼくの肺を満たす。清涼感のある空気が呼吸を整え、日常の時間がぼくの中に戻ってくる。
(同)
この箇所が「兎」という小説のクライマックスだと言っていいだろう。世界の片隅にいて漠然とした不安を抱えたぼくは、深くハッキリとした不安と苦悩を抱えた知恵の内面を垣間見る。不気味なほどの兎の繁殖も五十九年前の米軍ジェット機墜落事件も物語を彩る挿話に過ぎない。日常の底に不安が潜んでいる。誰もが不安を抱えて生きている。それを確認して「日常の時間がぼくの中に戻ってくる」。
こういった落とし所は純文学小説ならではのものである。繊細な人間の感情を表現するのが純文学だ。ただ読者がそういった繊細さを感受してくれない時代になっている。高度情報化社会の到来で人々の生活も感性も大きく変わった。日本だけではない。世界的に見ても第二次世界大戦後のレジームが音を立てて崩れつつある時代である。誰もが不安を抱えているわけだが小説に求められるのはその〝核〟だろう。不安を不安として表現したのでは読者はなかなか納得してくれない。
以前同賞を受賞した尾形牛馬さんの「酒のかなたへ」の主人公は、アル中の友達に「僕はアル中が酒をやめるとは神のようなものへ対する変節じゃなかかと思うとだよ。異常な飲酒をすることによって何か命より大切なもの、命より価値あるものを主張し訴えている積極的な行為のように思えてならんのだ。そうは思わんか?」と詰め寄られ、「そういうことを思う時もある」と答えた。
繊細な人間感情を表現するのが純文学だが、一方で純文学は人間精神の極点を描く文学でもある。不安であれ喜びであれ極点は〝神〟に近い位相にまで人間存在と精神を追い詰めなければ得られないだろう。今の純文学にはハッキリとした極の表現が求められているのではないかと思う。
大篠夏彦
■ 金魚屋の本 ■