No.105『御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美-』
於・東京国立博物館
会期=2019/10/14~11/24
入館料=1700円(一般)
カタログ=2700円
さて、東洋館でゆっくり『ザ・アール・サーニ・コレクション』を見てから平成館に正倉院展を見に行ったのだが、列は短くなっていたがまだ三十分待ちでありました。恐るべし正倉院展。今回の展覧会は浩宮殿下が天皇に御即位なさったのを記念して東京国立博物館で開催された特別展なのだから、混むのも致し方ない。
正倉院展は正倉院に近い奈良国立博物館で開催されるのが通例になっていて、まとまった数の宝物が東京に運ばれて展覧会が開催されることはめったにない。加えて正倉院は開封期間が定められている。今回の展覧会は会場内に高床式の正倉院建物の実物大レプリカを展示するなど力の入ったものだったが、会期は一ヶ月ちょっとだった。この規模の展覧会としては異例の短さである。一ヶ月は長いようで短いので、忙しい時はつい見逃してしまうこともありますな。まずは正倉院宝物の概要をザックリおさらいしておきましょう。
正倉院は高床式校倉造りの倉だが、北倉、中倉、南倉の三つの倉に約九千点(数え方にもよるが)の宝物が納められている。宝物には三つの系統がある。一つ目は聖武天皇遺愛品、二つ目は法隆寺献納宝物、三つ目はその他である。正倉院の中核は奈良時代の聖武天皇遺愛品だが、長い年月の間に様々な品物が収蔵されることになったのだった。法隆寺献納宝物は別として、そのほかの宝物は東大寺や法隆寺などの大寺で使われた仏具が多い。が、鎌倉から江戸時代にかけて天皇家に献上された貴重な宝物も混じっているようだ。収蔵されることになった経緯がわかる文書資料がない場合がほとんどで、現在でも様々な議論を呼んでいる。
聖武天皇遺愛品だが、天皇は天平勝宝八歳(七五六年)五月二日に崩御された。その七七忌(四十九日)に当り、光明皇后が東大寺大仏に遺愛品を献納されたのが始まりである(第一回)。同時に光明皇后は薬物も献納された(第二回)。献納はその後も続き、同年七月二十六日(第三回)、翌々年の天平宝字二年(七五八年)六月十日(第四回)、同年十一月一日(第五回)に計五回献納が行われ、正倉院北棟に収納された。
この五回の献納に際しては目録『東大寺献物帳』五巻が作られた。この目録によってわたしたちは、奈良時代から現代まで何が伝わったのかを知ることができる。目録には六百数十点が記載されているが現存は百数十点である。長い間に宝物が流出したり破損したりしたのだった。ただし中倉、南倉に移された宝物などもあり現在も研究が続いている。なお聖武天皇遺愛品を収蔵していることから、特に北倉が厳重に管理されてきた。後の時代に北倉にまぎれこんだ宝物もあるが、北倉にあった宝物となると研究者も色めき立つことが多い。
法隆寺献納宝物は聖徳太子創建の法隆寺の宝物が明治十一年(一八七六年)に皇室に献納されたものである。正倉院に収蔵されたあと帝室博物館(東京国立博物館)に移管された。現在三百点ほどの宝物が東博敷地内の法隆寺宝物館に収蔵・展示されている。法隆寺は明治初期の廃仏毀釈によって荒廃し、寺宝を売却しなければ寺を維持できないほどになった。売却すれば海外流出してしまう可能性が高かったので、宝物を皇室に献上して下賜金をいただくことで危機をしのいだのだった。長らく相国寺に所蔵されていたが、廃仏毀釈の時期に海外流出しそうになったので皇室に献上された伊藤若冲『動植綵絵』と同じ経緯である。もちろん法隆寺献納宝物は聖武天皇と縁が深い。
聖徳太子は日本で仏教を広めた始祖であり、仏教に深く帰依していた聖武天皇は太子をこよなく敬愛していた。そのため光明皇后は『細字法華経』などを天平九歳(七三七年)に法隆寺に納められた。この時の献納物は法隆寺の宝物帳である『東院資材帳』に記載されている。また聖武天皇の娘で古代最後の女帝である孝謙天皇が、天平勝宝八歳(七五六年)に聖武天皇遺愛品を法隆寺に献納なさった。これについては『法隆寺献物帳』の目録がある。法隆寺献納宝物には正倉院宝物と同様に聖武天皇遺愛品が含まれている。
その他の宝物は、天平勝宝四歳(七五二年)の東大寺大仏開眼会で使われた儀式具や、聖武天皇の葬儀や一周忌法要などで使われた法具が代表的である。ただし正倉院は東大寺の倉でもあり、寺で使った様々な道具類なども収蔵されている。格式高いトランクルームのような使われ方をしていたわけだ。
なお正倉院は東大寺が管理する天皇家の倉なので東大寺関係者といえどもみだりに開けることはできない。普段は大きな鍵が掛けられその上から和紙の勅封などで鍵を固定した。一定期間(初秋に設定されるようになった)だけ維持管理のために開けられたのだが、その際には勅使の立ち会いが必要だった。ただし宝物は今では皇室の所有物ではなく、明治になって政府の直接管理になり第二次世界大戦後に国有財産となった。宝物も空調設備を整えた鉄筋コンクリート造りの新宝庫に移されている。
しかし現在でも正倉院開封に際しては勅使が立ち会う慣例が守られている。国有財産とはいえ開封するには天皇家の許可がいるわけだ。なお勅使様は奈良のNホテルに宿泊されるようで、もうずいぶん前にNホテルに泊まったときに、仲居さんが四方山話に「勅使様は、なんだかなよなよしてはりますなぁ」と言っていた。勅使様は品行方正でなければならないのでそう写ったのだろう。天皇家の勅使というのも気の張る大変なお仕事である。
正倉院宝物 北倉一五八 『東大寺献物帳(国家珍宝帳)』 巻頭
一巻 紙本墨書 縦二五・九×全長一四七四センチ 奈良時代 天平勝宝八歳(七五六年) 正倉院
同 巻末
国宝 『法隆寺献物帳』
一巻 紙本墨書 縦二七・八×横七〇・六センチ 奈良時代 天平勝宝八歳(七五六年) 正倉院
今回の展覧会では『東大寺献物帳(国家珍宝帳)』と『法隆寺献物帳』が並んで展示されていた。長い正倉院展でも初めてのことなのだという。光明皇后が東大寺に聖武天皇遺愛品を献納したのが天平勝宝八歳(七五六年)六月二十一日、皇女で聖武天皇を継いで即位された孝謙天皇が法隆寺に聖武天皇遺愛品を献納したのはその約半月後の七月八日である。冒頭に献納の趣旨を述べた願文があり、その後が献納品の目録である。願文の文言には重なる部分が多いので、皇后と皇女が時期をずらして仏様に遺愛品を献納したことがわかる。
いずれも紙の上から天皇御璽がびっしりと捺され内容が書き換えられないようになっている。書体はこれぞ天平時代といった堂々としたものだ。平安に入ると書体はもっと細くなよやかになる。
もちろん文書は中身が読めなければ意味がない。それは各種研究資料をあたればすぐにわかるが、読みやすい楷書だから誰でもポツポツ漢字を拾って読むことができる。『東大寺献物帳』の冒頭は「奉爲 太上天皇捨国家珍宝等入東大寺願文 皇太后御製」で、読み下しは「太上天皇の奏為に国家の珍宝等を捨てて東大寺に入るる願文 皇太后御製」である。現在とは表記が違う漢字もあるが、なんとなく意味は伝わるはずである。このあたりが漢字のすごいところだ。楷書・草書などの書体は別として、日本語表記では漢字を並べただけでおおまかな意味はわかる。たとえば芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池蛙飛水音」と漢字だけにしても意味は伝わる。古代からずっと漢文体が日本語の骨格を作っているわけだ。
『東大寺献物帳』『法隆寺献物帳』の巻末には当時の重臣の直筆署名があり、藤原仲麻呂の名前が見える。光明皇后の信任深く橘諸兄を廃して太政大臣にまで位人臣を極めた人だが、孝謙上皇と寵臣の僧侶・道鏡の勢力と対立し、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こし敗れて斬首された奈良時代の貴族である。聖武天皇の崩御の際は高位高官だったのに、十年も経たないうちに逆賊として殺されてしまった。頭のいい人だったと伝えられる。わずか三文字だが仲麻呂はこんな字を書いたのかと遠い目になってしまう。
なお『法隆寺献物帳』には、孝謙天皇が帯一条、刀口三口、青木香二十節を献納されたと記されている。青木香は残っていないが、宝物に香木が含まれているのは古代的心性を考える上で重要である。
正倉院宝物 中倉一三五 『黄熟香』
一材 沈香材 長一五六センチ 東南アジア 正倉院
同 貼札
黄熟香は別名かの有名な香木蘭奢待である。足利義政、織田信長、明治天皇が切り取った貼札がある。蘭奢待が有名になったのは、茶道の基礎を作った東山文化の足利義政時代からである。以来香道はもちろん茶道の世界では、正倉院秘蔵の蘭奢待が最高の香木とみなされるようになった。ただ香木の歴史は古い。それを珍重する日本人の心性も古く根源的なものである。
小原眞紀子さんは『文学とセクシュアリティ―現代に読む『源氏物語』』の中で、「どれほど豪華な綾、錦も所詮、庶民が日常で使う布の高級バージョンに過ぎません。しかし香は衣食住に欠かせない実用品ではなく、したがって庶民には縁のない、より観念的なものです。すなわち重要なのは薫物という物体ではなく、それが生み出す香の空間=極楽浄土のメタファーという抽象的なもの、観念そのものです。つまり薫物とは、貴族の優雅なお道具の中でも「メタお道具」です。メタレベルで指し示される観念とは当然、仏教的な価値観に基づいた美意識です」と書いている。また「香りはテキスト化を求める。一方で文学(テキスト)の価値の本体は香気であるとも言われます。文体とか思想とか、ようするに文学という人の為すことのエッセンスという意味で、人の本性が香るものなら価値のある文学もまた香るはずです」とも述べている。
わたしたちは現代人として論理で考えることに慣れている。いわゆる左脳人間が知的とみなされているわけだ。しかし古代から近世にかけては香、あるいは香気に表象される右脳的直観も重視されていた。正倉院や法隆寺に聖武天皇遺愛の香木が献納されたということは、天皇の人品が香るものだったことを示唆している。それは仏教的観念にもつながる。
もちろん誤った直観は重大な過失につながることがある。しかし一方で、知的に武装した人の本姓を見抜けない直観の鈍さもまた人や社会を誤った方向に導くことがある。現代人に欠けているのは後者の方だろう。論理で武装すればするほど直観的真理は曖昧になってゆく。
明治天皇は西南戦争の戦勝祈願もかねて明治十年(一八七七年)二月に伊勢・熱田神宮に参拝され、奈良にも行幸された。西南戦争が明治新政府の基礎を固める上で不可欠の内乱だったのは言うまでもない。以後大きな内乱は起こっていない。行幸の際天皇は正倉院を特別開封なさって蘭奢待を切り取った。確認されている限り、蘭奢待が切り取られたのはこの時が最後である。天皇が蘭奢待を切り取り香をお聞きになったことには意味がある。直観的真理を欲していたと言っていいかもしれない。蘭奢待を焚くと馥郁とした香りが漂ったと伝えられる。
正倉院宝物 北倉四二―一九 『平螺鈿背円鏡』
一面 青銅製鋳造 螺鈿、琥珀、トルコ石、青金石 径二七・三×縁厚〇・八センチ 中国・唐時代 八世紀 正倉院
今回出品されていた宝物の中から、古代的心性を感じられるものを三点あげてゆく。『平螺鈿背円鏡』は背面に螺鈿が施された豪奢な鏡である。中国は唐時代の将来品だと考えられている。正倉院宝物には中国だけでなく、遠く中東ペルシャからもたらされた品物も含まれている。今のように人と物の交流が盛んだったわけではないが、世界は確実につながっていた。また珍宝であるからこそその衝撃は大きかった。
日本の鏡は青銅製で、『平螺鈿背円鏡』のような装飾鏡は作られなかった。ただ古代において鏡が呪術や信仰を支える重要な媒介品であったのは確かである。それは非公開だが天皇家の三種の神器に鏡が含まれていることからもわかる。黄金や宝石ではなく鏡と剣と玉が三種の神器なのだ。それぞれに意味があり、鏡は真理を映すと考えられていた。
なお『平螺鈿背円鏡』は鎌倉時代に「頭の黒い鼠」、つまり盗賊が盗み出し、逃げる時に落としたので五つに割れてしまった。古い青銅は落としただけで割れるようである。それを明治時代になって修復されて現在のような煌びやかさを取り戻した。
正倉院宝物 北倉二九 『螺鈿紫檀五絃琵琶』 表
木製(紫檀、沢栗等) 玳瑁 螺鈿 全長一〇八・一×最大幅三〇・九センチ 中国・唐時代 八世紀 正倉院
同 裏
『螺鈿紫檀五絃琵琶』も表と裏に螺鈿が施された豪奢なものである。五弦の琵琶はインド起源で中国に伝わったと考えられているが、現存品はこの一点のみである。この作品もバラバラになってしまっていたものを、明治時代に往事の姿に復元された。音楽も香と同様に虚空に消えてゆく観念的なものである。再び小原さんを引用すると、「形のない、抽象的な芸道ということで、香はもちろん音楽との関連が深い」ことになる。
正倉院宝物 北倉四四 『鳥毛篆書屏風』
紙本着色 羽毛貼 長一四九×幅五六・六センチ 奈良時代 八世紀 正倉院
『鳥毛篆書屏風』は『東大寺献物帳(国家珍宝帳)』に記載された六扇一畳の屏風の一つである。二行各八字で篆書体と楷書体を配している。内容は君主の座右の銘である。この屏風の篆書には鳥毛が張り合わされている。日本産の鳥毛なので日本で作られたものだ。元禄・天保年間に修理を受けているが、古代の、特に紙や布といった失われやすいものが残っているのが正倉院宝物のすごいところである。
前回の『人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションが語る古代世界』展で今から三二〇〇年から二七〇〇年前の青銅器時代に作られた中央アジアバクトリア・マルギアナ複合の鳥型の指と足を持つ精霊像を取り上げたが、鳥を天――東アジアでは神ではなく大いなる天意――の言葉をもたらす使者として捉える文化は世界中で確認できる。
『鳥毛篆書屏風』に鳥毛が使われているということは、そこに書かれた文字が神聖文字であり、天の言葉であることを示している。また平安時代から国産の鏡(和鏡)がたくさん作られるようになるが、最も好まれたのは鳥の図だった。鳥は天意を伝え魂魄を運ぶ使者であり、古代的心性の名残が図になっている。
正倉院宝物 北倉三 『雑集』巻頭
一巻 紙本墨書 縦二七・一×全長二一四二センチ 奈良時代 天平三年(七三一年) 正倉院
同 巻末
正倉院宝物は奥が深く考えるポイントがいくらでもあるのだが、最後は聖武天皇直筆の文書『雑集』で締めましょう。『雑集』は天平三年(七三一年)に聖武天皇が自ら筆写された文書集で、全長二十メートルを超える。しかし書は緩んでおらず、天皇の高い集中力をうかがい知ることができる。
内容は仏教関係の詩文の抜粋で、現存部分だけで一四五篇ある。聖徳太子もそうだが、聖武天皇は当時入手できる限りの仏教経典をお読みになっていた。天皇の時代、仏教経典は宗教経典であり哲学であり文学でもあった。
巻末には「諦思忍 慎口言 止内悪 息外縁」の文字があり、読み下しは「思い忍ぶを諦(まこと)にし、口に言うを慎み、内なる悪を止め、外なる縁を息(やすら)えん」である。図録の三田覚之さんの解説では「正しく考えて言葉を慎み、自分の内側に対しては悪い思いをなくし、外側に対しては人びとの関係を穏やかにする」という意味である。
この文言は近年の研究で、敦煌遺文スタイン二一五六号にある「思大和上坐禅銘」の一部だということがわかっている。聖武天皇はこの文言をとりわけ重視され、座右の銘となさったようだ。仏教に深く帰依された天皇の人柄が伝わってくる。
ちょっとわたくしごとを書いておくと、僕は学生の頃は天皇制に懐疑的だった。理由は単純で、大学一年生の時に履修した社会学の先生が反天皇論者で、教科書指定された先生の本を読んですっかり感化されてしまったのだった。当時は知恵熱真っ盛りだから、あっちゃこっちゃに思考が迷走していたんですね。
今でも反天皇論者の皆さんの考え方には一理あると思う。日本人は愛国心が薄いと言われるが、そんなことはない。大陸の国々のように逃げる場所のない島国日本では、いったん事が起こると愛国心がどうしようもないほど燃えあがるのは確実である。その意味で日本という国は愛国心が薄い状態の方が平和なのだ。ただ愛国心が熱狂に近いほど盛り上がれば、天皇が国をまとめあげる象徴として大きな役割を持つだろうことは想像に難くない。今は象徴天皇制で天皇の役割は限定されているが、それが政治と結びつく可能性は残っている。天皇制は日本が内包している危険な装置でもあるわけで、天皇制廃止論者は将来の危機を先取りした提言を行っているわけである。
ただ日本で天皇制が廃止されたらどうなるのか。第二次世界大戦の敗戦で現実に天皇制廃止の可能性があったわけだが、そうなったら日本人は今よりも天皇家を愛していただろう。フランスはいまだにルイ王朝へのノスタルジーを抱え、ベルサイユ宮殿を始めとするルイ王朝の遺産が大好きなだけでなく、つい先頃まで大統領は七年の任期で二期十四年務めることが多かった。ドゴール空港やポンピドゥー・センターなど大統領の名前が付いた施設も多く、ほとんど一つの王朝である。近代に至るまで一度も合議政体を採ったことのない絶対王権の中国やロシアは、今はほとんど皇帝化した総書記や大統領の国である。天皇制が廃止されていたら日本は天皇制へのノスタルジーに苦しむことになっただろう。NHKの大河ドラマは三回に二回は天皇が主人公になっているかもしれない。新たな僭主が生まれていた可能性だってある。
加えて日本文化の成り立ちである。日本文化の骨格は間違いなく天皇制を中心に作られている。日本文化の根源を考えればなにをやっても天皇制に行き着く。文字はもちろん文学や劇、歌謡などは宮廷から生まれており、日本文化の哲学的基礎になった仏教を広めたのも天皇家である。民族・文化共同体の歴史はそう簡単には変えられない。
ありきたりかもしれないが、僕はいつの頃からか天皇制は「そこにどうしようもなくある」と考えるのが妥当だと思うようになった。天皇制が危険な装置の可能性を包含しているのは事実だが、帝室博物館館長兼図所頭を務め正倉院の開封に立ち会った森鷗外は、プロレタリア独裁を唱え天皇制廃止も視野に入れた大正時代の社会主義運動について、「今の社会に不満を抱えた社会主義者が政権を取れば今と同じ政体ができる。いや、今よりもっと厳しい政体になるかもしれない」という意味のことを書いた。問題の本質は必ずしも制度にはない。どんな独裁政権でも法や官僚制度を持っている。重要なのは制度をどう動かすのかであり、そこには直観的真理に繋がるような良識がなくてはならない。
今回の展覧会では聖武天皇直筆の「諦思忍 慎口言 止内悪 息外縁」十二文字を実際に見られたのが一番嬉しかった。今上天皇もこのお言葉通り努力なさっていると思う。量はもちろん厳選された質でも素晴らしい正倉院展でありました。
鶴山裕司
(2019 / 12 / 04 20枚)
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