寅間心閑(とらま しんかん)さんの連載小説『助平(すけべい)ども』『十七、ささやかな夢』をアップしましたぁ。ナオのバックグラウンド続編です。『助平ども』は一回分ずつ原稿をいただいている連載小説なのですが、今回はマジ長編作品になりそうです。長編の場合、糸が複雑に絡み合っていなければ魅力的な最終部にはなりません。
コンテンツには基本的にオチが必要です。文学に限らずテレビ、映画、演劇でも同じですね。人間は限られた時間の中でコンテンツを楽しみます。純文学的な言い方をすると受容させていただく、かな(笑)。せっかく読んだ、見たんだから、感動や不快感、新たな知識といったなんらかの収穫を得たい。そんな収穫を総称して〝オチ〟と呼んでいるわけです。
このオチがどこから生じているかといえば、人間の持ち時間が限られているということでしょうね。近い将来人間の平均余命は100年くらいまで伸びて、臓器交換等が容易になれば200年、300年と伸びるかもしれません。しかし人間は必ず死にます。つまり人間には始まりと終わりがあるわけで、そんな人間存在の縮図としてオチがある。いつまでも生きていられないわけですから小さな問題はさっさと片付けて、大きな問題のヒントを得たい。いずれにせよオチ=結論が必要になってきます。
ただ叙事詩・演劇・物語(小説の祖型)の古代から創作者が考えることはあまり変わっていません。キチッとしたオチのあるコンテンツが成立した時点から、それを崩そうという志向が始まっています。なぜそんな志向が生じるのかと言えば、人間が本当に知りたいと思っている問題はなかなかオチ=結論が得られない質のものだからです。だから創作者は表向きはわかりやすいオチを設定した上で、本質的には永遠を表現しようと志向する。これはギリシャ悲劇でも日本の『源氏物語』でも同じです。
乱暴な言い方をすれば〝純文学〟と呼ばれる作品は最初から永遠を志向しています。ただ永遠志向の文学=純文学はかなり敷居が高い。思想的にも技術的にも高いレベルの知性が必要です。現実問題として言えば、思想・技術が未熟な作家が純文学で秀作を書くのはほぼ不可能です。やろうとすれば過去の純文学作品をなぞることになる。詩では一昔前の現代詩が純文学に当るでしょうが、それが形骸化しているのは過去作品をなぞり始めたからですね。
優れた純文学を読めばすぐわかりますが、読んでいてもの凄く苦痛を感じる作品は少ない。きちんと表向きのオチ=結論=エンタメ要素を踏まえていて、その上で純文学的な永遠をなんとか表現しようとしている作品が多い。文学金魚が今の文学に必要だと言っているのもこの点なんだなぁ。
21世紀初頭の状況的弊害かもしれませんが、今書かれている純文学作品の大半が過去作品をなぞった焼き直しで衰弱しています。誰もが「こりゃ新しい」と認めてくれる前衛ではないですね。加えて文学は昔のようなエンタメ主力コンテンツではなくなっています。ゲームを始めとするエンタメコンテンツは無数にあり、かつそのレベルは非常に高い。そういった状況を踏まえて、純文学作品を実現していかなければなりません。つまり、現代では良質の文学は、オチ=結論=エンタメ要素がきちんとあり、その上で永遠を志向している必要があると思うわけです。
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『十七、ささやかな夢』縦書版 ■
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『十七、ささやかな夢』横書版 ■
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