『六本木開館10周年記念 天下を治めた絵師 狩野元信』展
於・サントリー美術館
会期=2017/09/16~11/05
入館料=1300円(一般)
カタログ=2600円
狩野元信? あー狩野派の始祖だよね。いや始祖は正信か。代表作は、そうそう京都大仙院方丈障壁画。といった、ずいぶん昔に狩野派の本でお勉強した記憶が頭に浮かんだが、その後が続かない。それに元信単独の展覧会は記憶にない。狩野派はなんと言っても永徳、探幽が二代スターなのだ。ただ狩野派は厄介だ。お家芸の伝承画風なので、代表作と言えば目に浮かぶ作品はあるのだが、小品の山水などになるとたいてい誰の作品かわからない。じっくり見ても、美術館のパネルを確認しなければまずわからない。
そんな次第で元信作品の特徴を理解できるんかいなと思いながら、珍しい展覧会なのでとりあえず出かけてみた。で、結論から言うと、十分元信の素晴らしさを堪能できる展覧会でした。もちろん狩野派の画家たちの個性は微細な違いに表れているから、展覧会を見たくらいで元信作品だと判別できるようになるわけではない。しかしまとめて見ると元信が室町の画家だということがはっきりわかる。骨格が中国なのだ。元信に比べれば永徳探幽の絵は水っぽく感じられる。和様化しているのである。
『四季花鳥図』(旧大仙院方丈障壁画) 狩野元信
紙本墨画淡彩 八幅 室町時代 十六世紀 京都・大仙院蔵
同部分
大徳寺塔頭・大仙院は永正十年(一五一三年)に古岳宗亘によって創建された。今は軸に改装されているが、元信の『四季花鳥図』は檀那の間の障壁画(襖絵)として描かれた。狩野派はこういった大作を集団制作することが多いのだが、『四季花鳥図』は元信真筆、つまり彼一人で描いた代表作と考えられている。元信三十七歳の作である。
部分図を見ればわかるが、まったく迷いのない明晰な筆遣いである。牡丹の横に綬鶏が描かれ、松の枝の上に鶲がとまっている。いずれも日本には生息していない鳥なので、中国渡来の本歌の絵を写している。
画面構成も完璧だ。綬鶏の雌雄が顔を見合わせる線と、松の枝の下降線がX字型に交差して中央の二面を構成している。典型的な日本画の構図だが一分の隙もない。この作品が力強いのは鳥と草花以外に色を使っていないからである。確かな水墨画の腕が色を際立たせている。色は少ないのに、墨にまで色が見えるような作品である。
『禅宗祖師図』(旧大仙院方丈障壁画) 狩野元信
紙本墨画淡彩 六幅 室町時代 十六世紀 東京国立博物館蔵
同部分
『四季花鳥図』は檀那の間の襖に描かれたが、その奥に衣鉢の間があり『禅宗祖師図』はその襖を飾った。『四季花鳥図』の裏に『禅宗祖師図』が描かれていたわけである。これも元信真筆で、その人物画の代表作の一つである。
大徳寺は臨済宗なので当たり前だが、描かれているのは『臨済録』などの禅書にある高名な祖師にまつわる故事である。元信は教養として禅の故事に通じていたわけだ。部分図は「香巖撃竹」の場面で、香巖禅師が竹に瓦礫が当たった音を聞いて悟りを開いた場面である。夏目漱石の『行人』で、主人公の一郎が「なんとかして香巖になりたい」と言うシーンがある。禅は徹底して反語的な宗教であり、いくら書物を読み座禅を組んで精神修養に努めても悟りを得られるとは限らない。香巖禅師は修行に励んだが悟りを得られず、苦悩の底で竹に瓦礫が当たった音で悟りを得たのだという。古来有名な故事である。
『禅宗祖師図』も基本は水墨で、人物や樹木、四阿などの建築物にのみ色を使っている。雲(水蒸気)などで遠近感を演出しているが、少し固いと言えるほど明快な描き方だ。元信作品は人も動植物も風景もその輪郭がクッキリしている。それでいて深遠だ。
『瀟湘八景図』 狩野元信
紙本墨画 四幅 室町時代 十六世紀 京都・東海庵蔵
『瀟湘八景図』は中国の伝統的な山水画の画題である。八つの名所を描くが、元信版は一幅に二景が描かれている。墨画の画題であり、『遠浦帰帆』『漁村夕照』など八景の一つだけを描くこともある。これも元々は障壁画だが軸に改装されている。旧大仙院方丈障壁画が元信真体の代表作と呼ばれるのに対し、『瀟湘八景図』は行体の代表作である。真体(楷体)、行体、草体は元々中国の書の様式だが、画にもそれが適用されるようになった。その名の通り、真体から行体、草体になるにつれ画が柔らかくなってゆく。日本で真・行・草の筆様が定まったのも室町時代である。後代の『瀟湘八景図』はもっと茫漠とした感じになるが、元信作は行体とはいえやはりかっちりしている。
元信は大仙院方丈の檀那の間と衣鉢の間に『四季花鳥図』と『禅宗祖師図』を描いたわけだが、方丈(禅宗の本堂に当たる)ではこの二間はいわゆる控えの間に当たる。仏像が安置されたメインの室中(の間)の三面の襖に瀟湘八景を描いたのは相阿弥だった。言わずと知れた足利将軍家同朋衆である。絵師、唐物鑑定家、連歌師として知られるが、祖父能阿弥とともに『君台観左右帳記』を著したことでも名高い。
足利将軍家蒐集の宝物は東山御物と総称されるが、能阿弥・相阿弥の『君台観左右帳記』がその内容を知るための基本資料になっている。東山御物は応仁の乱頃からじょじょに民間に流出し、信長や秀吉の戦国時代になると足利将軍家正統後継者を称するために名物狩りが行われたりもした。茶道具番付のように思われているところがあるが、それは桃山時代以降の日本で茶道が重視されたためで、当時の意識としては中国に倣って書画骨董、つまり書画が宝物の最高位だった。『君台観左右帳記』は上中下の三部構成だが、最初の上部が六朝から元までの中国絵画(絵師)の評価番付に当たる。
狩野家は元々関東武者だが、狩野派初代となった正信の代に京都に出て工房を構えた。この時代の学問・芸術センターは大寺であり、最高知識人である僧侶の紹介で絵師などの職工がパトロンである朝廷や将軍家の知遇を得ていた。正信は相国寺などの仕事を通して実績を上げ、足利将軍家の御用絵師にまで出世した。そして将軍家東山御物の管理と展示を一手に引き受けていたのが同朋衆の相阿弥だった。今と違って美術館などないわけだから、絵師が当時の絶対規範である中国絵画の名作に接して模写などを行うためには、権力者に随従する知識人に接近する必要があった。
足利将軍家の絵画の宝物は、室町時代より二百年ほど前の南宋絵画が多い。李公麟、牧谿、馬遠、夏珪、玉澗といった、東山御物と言うとイヤというほど目にする画家たちだ。選りすぐりの絵画であり数も少なかったことから、宋時代を中心とする中国絵画は徹底して研究された。牧谿様、夏珪様などの筆様が生まれたのだった。またそこから画家たちの特徴を総合して、真(馬遠、夏珪)、行(牧谿)、草(玉澗)の画体も生み出されていった。その基礎を作ったのが『君台観左右帳記』の相阿弥であり、狩野派初代の正信だった。正信の息子元信はその成果を受け継いでいる。元信の絵の骨格が中国だというのはそういうことだ。
大仙院方丈に隣り合わせで障壁画を描いたことは、元信が父正信を通して相阿弥の知遇を得たことを示している。『等伯画説』には常観なる人物が元信に「我を折って墨を相阿弥に問え」と命じ、元信が「もっとも」と答えたという記述がある。相阿弥は元信より二十歳ほど年長だったと思われるが、若い頃の元信はちょっと生意気で意気軒昂だったようだ。また元信が相阿弥から学んだのは画法だけではないだろう。為政者たちとの接し方も重要だった。
室町後期には長谷川等伯や海北友松、雲谷等願など優れた画家たちが現れた。その中で狩野派が御用絵師として確固たる地位を築いたのは、正信・元信父子の政治的センスが優れていたからである。また父子二代に渡って腕のいい絵師であり、しかも長命だった。正信の生年は不明だが九十代まで長命を保ったようだ。元信も八十歳を越えている。人生五十年のこの時代、長生きも芸のうちですな。
『酒伝童子絵巻』巻三 画 狩野元信 詞書 近衛尚通(巻一)、定法寺公助(巻二)、青蓮院尊鎮(巻三)
紙本着色 三巻 室町時代 大永二年(一五二二年) サントリー美術館蔵
『酒伝童子絵巻』は『今昔物語』で有名な、源頼光による鬼神・酒伝(呑)童子退治を描いた絵巻である。詞書を太政大臣近衛尚通、左大臣三条家の定法寺公助、親王青蓮院尊鎮がしたため、奥書は内大臣三条西実隆である。当代一流の文人たちだ。クライアントは関東の北条氏綱で、徳川の世になってから池田輝政(池田家)が所蔵するようになった。制作年も作者も伝来もはっきりしている名品である。これだけの絵巻を元信一人で描けるはずもなく、第二巻と三巻は工房作だと考えられている。ただし構図などは元信の下絵に基づいているだろう。
障壁画と比べるとずいぶんくだけたマンガチックな画である。パッと見るとにわかには元信作とは信じられない。ただ明治時代以前の絵師は画工であり、クライアントの要請に従って様々な画を描いた。そのような変幻自在な絵師の端緒に元信がいる。マンガチックなのは当然で、絵巻はいわゆる女子どもが楽しむ作品だから、流れるような画面構成でダイナミックに描かれた作品が上作なのである。
元信より五代下った京都狩野派の狩野永納は『本朝画伝』を著し、その中で元信は「漢にして倭を兼ねる」ことで「天下画工の長」になったと記している。漢は水墨画を指す。雪舟に代表されるように水墨画は本来、描くのも見るのも禅の修養の一貫であり、その意味で当時最先端の知識を持つ貴人たちの専有物だった。これに対して富貴な庶民から貴人まで折々に楽しむ着色画の系譜が綿々とあり、それを担ったのが土佐派と呼ばれる絵師集団だった。大和絵とも呼ばれ、古くは『源氏物語絵巻』などが代表作である。元信はそれまで分離していた和漢の画法を統合して大きく画風を拡げたのだった。
『四季花鳥図屏風』狩野元信
紙本金地着色 六曲一双 天文十九年(一五五〇年) 白鶴美術館蔵
同部分
展覧会では複製が展示されていたが、『四季花鳥図屏風』は元信の和漢折衷様式の代表作である。天文十九年(一五五〇年)作なので元信七十四歳である。孔雀や鷺、鶉などの描き方は端正な南宋絵画を思わせるが、桜や松などの草花、それに岩などの描き方は当たり前だが和様の大和絵である。ただいかにも狩野派らしい豪華な作品だ。こういった作品を先鞭として、永徳、探幽の桃山江戸初期の大胆な障壁画が生まれていったことがよくわかる。ただ元信の金箔屏風はこじんまりしている。彼は室町の禅的調和世界を理想とする絵師だった。永徳、探幽の時代になると為政者の強い自我意識と覇気を反映して、木の幹は太くなり鳥は大きく翼を拡げて飛ぶようになる。
室町時代は南北朝の争乱が治まったのもつかの間、すぐに応仁の乱が続いた。裏切り寝返り下克上が日常茶飯事の世の人々の精神に、世界を無(情)の一如で捉える色のない水墨画の世界は親しいものだった。しかし桃山から江戸時代になると――当時も騒乱の時代ではあったが――閉塞した室町の空気に倦んだ人々の心は出口を求めて蠢き始める。それが極彩色で大胆な桃山絵画となり、江戸の平和で華やかな浮世へと繋がってゆく。そういった時代精神の変化が、正信・元信を起点とした狩野派絵画の変遷を見てゆくとよくわかる。
鶴山裕司
(2018/03/07)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
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