『生誕140年記念特別展 木島櫻谷 近代動物画の冒険』展
於・泉屋博古館(京都)
会期=2017/10/28~12/3
於・泉屋博古館分館(東京)
会期=2018/2/24~4/6
入館料=800円(一般)
カタログ=2000円
木島櫻谷さんね、どこかの美術館の常設展で見たような気がするのだが、どーも焦点を結ばない。いい機会だから東京の泉屋博古館分館に展覧会を見に行った。京都の本館は行ったことがある。旧住友財閥のコレクションで、今では絶対に集まらない中国美術の優品が揃っている。殷周時代の青銅器はつとに有名だ。東京分館は六本木のアークヒルズの裏手にある。ああ美術館だなと分かるような奇抜な建物ではなく、豪邸がそのまま美術館になったような落ち着いた佇まいである。
櫻谷は明治十年(一八八七年)に京都三条室町で生まれた。父元常は狩野派吉田元陳の弟子で、寛政時代の内裏造営障壁画制作に従事したのだという。祖父が内裏に高級調度を納める有識舎を興して元常が継承したが、櫻谷が生まれる頃には手仕舞いして隠居生活を送っていたらしい。裕福で教養ある家の子弟だったわけだ。三条室町は染物商が多いことで知られるが、京都の中でも文化的な雰囲気に満ちた町だった。
商人の子らしく商業学校に通ったが、幼い頃から画が好きだった櫻谷は、父の死去(明治二十五年[一八九二年])を機に画家の道を歩むことを決意した。実家近くに今尾景年の画塾がありそこで学んだ。またほぼ同時期に儒者(本草学者)山本渓愚の門を叩き、漢籍も学び始めた。御維新とともに新奇なヨーロッパ文化に目を奪われる青少年も多かったが、櫻谷は昔ながらの漢学を基礎とした日本画家として出発したのだった。
今尾塾で修行を終えると、櫻谷は龍池町に転居して龍池画塾を開いた。今尾塾では熱心で腕のいい筆頭塾生だったのである。明治四十年(一九〇七年)には明治美術界をリードした文部省美術展覧会(文展)が始まった。櫻谷も出品し、第一回文展では二等首席に選ばれた(一等は空席)。その後も受賞を続け、第六回文展に出品した『寒月』で一等を受賞した。順風満帆な画家生活だった。
大正二年(一九一三年)には龍池町の借家を出て、京都近郊の衣笠にアトリエ兼住居を構えた。二階建ての相当に瀟洒な家である。大正八年(一九年)から文展に代わって帝国美術院展覧会(帝展)が始まるが、櫻谷は出品の傍ら審査員も務めた。昭和になる頃には画壇の要職から退いたが、相変わらず衣笠で旺盛な創作を続けた。昭和十三年(三八年)没、享年六十二歳。櫻谷邸と遺品は昭和十五年(四〇年)に財団法人櫻谷文庫の所有・管理となり、平成二十五年(二〇一三年)に公益法人櫻谷文庫所管に変わったが、現在でも往事の姿のまま保存されている。
『野猪図』 明治三十三年(一九〇〇年)
絹本着色 一幅 縦九九×横一四二センチ
『野猪図』は制作年がわかる櫻谷の一番古い作品である。二十四歳の作で、都路華香、上村松園とともに京都美術協会主催の第六回新古美術品展で二等一席を受賞した。櫻谷は日本画華やかなりし時代の人で、重鎮として西の竹内栖鳳、東の横山大観が君臨していたが、松園、菱田春草、速水御舟、今村紫紅、安田靫彦、前田青邨ら綺羅星のような画家たちが活躍した。美学校騒動で表舞台から消えつつあったが岡倉天心も元気だった。靫彦と青邨は歴史画の大家として知られるようになるが、櫻谷も若い頃に歴史人物画を描いている。ただ彼の真骨頂は自然の動植物を描くことにあった。
櫻谷文庫所蔵の資料を見ても、今尾塾在籍の頃から櫻谷が写生に熱心だったことがわかる。二十世紀以降の洋画は動植物を含む事物の本質を、画家が捉えた色と線と形で表現する芸術である。リアリズムに傾くにせよ、まずザックリとある本質を捉えるのが基本になる。これに対して日本画は的確な写生で描いた事物を自在に画面に配置することで、現実に即しながら現実を越えた画家の理想世界を表現する芸術である。櫻谷は正統日本画家の道を歩んだわけだ。問題は写生(リアリズム)からどこまで理想(抽象世界)に抜けられるかである。
『寒月』 大正元年(一九一二年)
絹本着色 六曲二双 各縦一六七×横三七二センチ 京都市美術館蔵
同 右双
同 左双
『寒月』は櫻谷の代表作で、第六回文展で一席を受賞した。狐以外は水墨画のようだが、よく見ると着色されている。キラキラ光る漆黒の感じがある。画面左から右に流れるなだらかな傾斜につれて、わずかに右に傾く竹、その流れをせき止めるような天空の月の配置など、描写も構成も見事な傑作だ。櫻谷は『寒月』一作だけでも記憶に残る画家である。ところがこの作品を、あの夏目漱石大先生が口を極めて貶したのである。
木島桜谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取つた人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於ては決してあの鹿に劣るまいと思ふ。屏風に月と竹と夫から狐だか何だか動物が一匹ゐる。其月は寒いでせうと云つてゐる。竹は夜でせうと云つてゐる。所が動物はいへ昼間ですと答へてゐる。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。
(夏目漱石「文展と芸術」大正元年[一九一二年])
文展は当時大きな話題を呼んだ公募美術展だから、漱石だけでなく森鷗外などたくさんの美術を愛する文学者が批評を書いている。ただ文学者の美術評は外野だが、美術界の内野もザワザワしていた。当時は西と東の画壇が分裂状態で、弟子や縁故の深い画家たちを抱えた栖鳳と大観が鎬を削っていた。美術展で賞を受賞すれば画家としての道筋――つまり経済的恩恵を得られるのだから当然である。こういったことは今でも多少ありますな。この画壇内のすったもんだに、櫻谷さんもだいぶまいったようだ。
しかし『寒月』のような傑作に対して、「屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」という漱石先生の評は、いくらなんでもあんまりだ。ただ漱石は前年も櫻谷の鹿の絵を見ており、「あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても気持ちの悪くなる鹿である」と書いている。前年に見た画を目がまだ記憶していて、それが元になった酷評ということだ。それを踏まえれば、まあ言い過ぎだとは思うが、漱石先生が何を言わんとしたのかわからんことはない。
『若葉の山』左双 明治四十五年(一九一一年)
六曲二双 第五回文展出品作品
漱石が「気持ちの悪くなる鹿」といった、前年明治四十五年(一九一一年)の作品である。今回の展覧会には出品されておらず図版で確認できるだけである。六曲二双だが、左双の方が鹿の顔がわかりやすい。眼をつむって休んでいる鹿が描かれているがどこか人間染みている。この動物の擬人的表現は櫻谷作品にしばしば見られる。そこに親しみを感じる人もいれば、漱石のように激しい嫌悪を抱く人もいる。
日本画は基本写実だが、写実技術を習得した上でどこに転じるかが画家の評価に直結する。櫻谷の技術は申し分ないが、彼は動物に彼自身の心性を重ねた節がある。それが芸術に対する漱石の考えと相容れなかったということだ。
芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終るものである。(中略)
自分の冒頭に述べた信条を、外の言葉で云ひ易へると、芸術の最初最終の大目的は他人とは没交渉であるといふ意味である。親子兄弟は無論の事、広い社会や世間とも独立した、全く個人的のめいめい丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗つたりするのではなくつて、書いたり塗つたりしたいわが気分が、表現の行為で満足を得るのである。其所に芸術が存在してゐると主張するのである。従つて、純粋の意味からいふと、わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、芸術家は顧慮し得ない筈なのである。夫を顧慮する時、彼等はたとひ一面に於て芸術家以外の資格を得るにせよ、芸術家としては既に不純の地位に堕在して仕舞つたと自覚しなければならないのである。
(夏目漱石「文展と芸術」)
典型的な漱石節というか、漱石先生の思想がもろに表現された文章である。ほかならぬ漱石が文豪と評価されその考えが流布したので、今ではたいていの芸術家が「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終るものである」といった意味のことを口にする。ただ現実に「わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、芸術家は顧慮し得ない」と心根を定めるのは難しい。漱石は強い信念を持つ芸術家ならば、他者の評価は気にせずそれを貫き通せと言っている。他者であれ権威であれ、何かに、誰かにおもねるのは芸術家にとって堕落であると漱石は書いている。
もちろんこれは直接的に櫻谷を論じた文章ではない。漱石は原理主義者であり、たいていの場合、まず自分の根本的な考えを冒頭で示した上で各論に進んでゆく。つまり漱石は櫻谷に、「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終るものである」という思想と相容れないものを感じたということだ。櫻谷は権威におもねったわけではないが、その動物の擬人的表現に漱石が突き抜けないものを感じたのは確かだろう。それが『寒月』のような傑作を目にしても漱石の評価を動かさなかったと見える。
『菜園に猫』左双 大正~昭和時代
紙本着色 一幅 縦一三四・一×横四〇・七センチ 櫻谷文庫蔵
『黒猫』菱田春草
絹本着色 一幅 明治四十三年(一九一〇年) 縦一〇五・五×横四〇・六センチ 播磨屋本店蔵
櫻谷と菱田春草の猫図である。櫻谷が描く動物たちは優しい表情をしている。特に猫や鹿などはそうだ。春草は好んで猫を描いたが、どれもこれも可愛くない。明らかに野良である。ただ春草の猫は目に残る。厳しく孤独なのだ。同じ猫を描いても画家の思想によってその表現方法は変わる。その違いは紙一重であり、かつ絶対である。
櫻谷は技術的には優れていたが、その自我意識表現においてどこか甘いところのある画家だったのは確かなように思われる。こんなことを言うとちょっと失礼だが、実にいい所まで来ていたのだ。櫻谷にはライオン図があり、ちょうど京都の動物園にライオンがやってきた時期だから、竹内栖鳳も有名なライオン図を描いている。写生だからパッと見るとどちらも同じようなライオンだが、ほんのわずかな所が決定的に違う。
明治維新以降の画家たち、特に日本画の画家たちにとっては、新たに流入した自我意識をどう作品に取り込むのかは大きな問題だった。江戸までの日本画家は画工であり、クライアントの要望に従って様々な絵を描き分けるのが基本だった。その上での個性である。しかし御維新以降にはまず何よりも個性が評価された。しかも日本画の場合、伝統技法を踏まえていなければならなかった。
櫻谷はこの自我意識表現を、多くの場合動物への感情移入、つまりは擬人化で表現したと思う。それが江戸期までの日本人にとっては違和であり、かつ御維新以降の社会基盤になった強烈な自我意識に悩まされ続けた漱石のような人にとっては中途半端に写ったのだろう。自我意識表現としては厳しさが足りないということである。
栖鳳は櫻谷よりも古い感性を持った画家だったが、明治三十三年(一九〇〇年)に渡欧している。櫻谷は渡欧経験がない。栖鳳ライオン図は帰国後の作品だ。欧化した日本画は自我意識表現を突き抜けた冷たさに達している。日本画における自我意識表現は、必ずしもオリジナリティに満ちた個性ではないのである。欧米的自我意識を相対化するような厳しい視線になる。漱石の言葉で言えば則天去私、つまり自我意識を去って天から冷たく私を含む世界を見下ろすということである。
『竹林老狸』 大正時代
絹本墨画 一幅 縦一三六×横五一センチ
恐らく晩年に近い作品だろうが『竹林老狸』は櫻谷代表作の一つと言っていい。墨画だが夜の色が見えるような作品だ。ただ竹林から半身を表した狸には物語があるかのようだ。大きな自然の流れの一部を捉えた画だとは言えるが、一方で画として完全に完結していないという捉え方もできる。どちらの画として見るかによって、評価が分かれるでしょうな。
櫻谷さんは温和な方だったようだが、芸術の世界では悪魔のような人が傑作を残したりもする。じーっとこの画を眺めていれば櫻谷という画家の真価は自ずから腑に落ちる。何枚も画を掛け替えて、ああこれでいい、掛け続けておこうと思う作品が秀作なのだ。
鶴山裕司
(2018/03/11)
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