特集「出会いと別れ 短歌人間模様」の巻頭に置かれた俵万智さんのエッセイを読んでやっぱりうまいエッセイの書き手なんだなぁと改めて感心してしまいました。
何かが上達するために、一番欠かせないのは努力だ。ただ、努力にも足し算と掛け算と、二種類あるように思う。上達したい「何か」が、本人と相性がよかったり、才能があったりする場合、その努力は掛け算となる。そうでもない場合は、残念ながら足し算だ。でも足し算だって、積み上げれば結果は大きくなる。才能というのも案外落とし穴で、人間国宝の陶芸家・井上萬二先生は「器用すぎる弟子は、成長しないことが多い。やればできると自分でもわかった時、慢心が始まる。そこそこ器用で粘り強くやる弟子が、結局一番伸びる」とおっしゃっていた。
(俵万智「エネルギーの源」)
確かにそうですね。短歌に限りませんが俳人でも詩人でも小説家でも物書きになろうなんて浮世離れしています。当人は大真面目でも親なら「バカなこと言ってないでちゃんと就職しなさい」と言いたくなりますよね。自分の子供が物書きや画家や音楽家になりたいと言い出したらわたしだってそう言います。普通はなれるわけがない。
それでも物書きを目指そうとすれば紆余曲折あります。表現は一人っきりでは上達しなのでどうしても同世代で同じくらいのレベルの物書きの卵たちが気になったりする。けっこう一生懸命読んだりするわけですが上手いなぁと感じた作品を書いていた人が案外あっさり書かなくなるのはよくあることです。「器用すぎる弟子は、成長しないことが多い」のは本当のことですね。初発の才能はあるのですが「なんだこんなものか」と思ってしまうと成長が止まる。なぜうまく書けないんだろうとうんうん悩む人の方が後々伸びることがあります。
上達のために努力するといってもその方法は様々です。俵さんはエッセイ冒頭で努力を足し算と掛け算に大別しておられます。この二種類の努力に沿って特集のテーマである短歌での出会いと別れが綴られてゆくわけです。歌誌に書くとどうしても歌壇内に視線が向きがちですが間口の設定が大きいですね。対象読者を歌壇以外の人にまで広げています。これもテクニックのうちですが歌人にはアウエーのメディアで実際に仕事しなければなかなか身につかないでしょうね。
高校二年生のとき、失恋をした。つきあっていた先輩から「一番好きな人じゃなくなった」と言われて、ふられた。要は、他に好きな人ができたということを婉曲に告げられたわけだが「なに? 一番じゃなくなった? 今二番? いや三番? よし、がんばってもう一度一番に返り咲こう」と努力した。勉強じゃないんだから、そんな発想でうまくいくはずがない。今思うと、頭を抱えたくなるほど、それは頓珍漢で間違った方向への努力だった。けれど、その失恋のおかげで早稲田大学への進学を決め(中略)佐佐木(幸綱)先生に出会えたのだから、風が吹いて桶屋が儲かったのだと考えることもできるだろう。
(同)
「先生というのは立場上、努力してくる生徒をむげにはできない」と俵さんは書いておられます。また早稲田大学時代に佐佐木幸綱さんに心酔して「片っ端から先生の書いたものを読み、先生の短歌を愛読するなかで、見よう見まねで(短歌を)作り始めた」と回想しておられます。
俵さんが佐佐木幸綱さんという豪放磊落で包容力があると言えばありますがいい加減と言えばいい加減なところのある大歌人のお弟子さんなのは言うまでもありません。ただほかのエッセイを読むと幸綱さんが後に俵万智短歌の代表作となる作品をいち早く評価していたことがわかります。若い作家は自信がないですから師と仰ぐ人からの評価は勇気の源になります。またそれが創作の努力における掛け算です。
俵さんは幸綱さんのいいお弟子さんだったでしょうね。おもねったという意味ではなく師を絶対的に信頼していた。伝統文学である短歌や俳句では現代の欧米的個人主義思想では説明しにくい歌や句の血脈があります。誰を師と選ぶかによって作家の資質の正しさがまず試されます。そして師を選んだのなら一定期間は師を絶対として学ぶ必要があります。そうでなければ創作上の掛け算は起こらない。師であることにも弟子であることにも才能が必要なのです。中途半端な弟子は中途半端な師の愛情と秘伝しか受け継げないということでもあります。
エッセイとして言えば〝上げて下げる〟テクニックがお手本のように示されています。恋愛は相手のあることですからどんなに好きでも努力が無駄になることがあります。こっぴどくフラれた体験は現世の努力は足し算だけでは報われないことの例です。また日常生活での自分の弱さや滑稽さを書くことは読者の興味を掻き立てます。短歌に関するエッセイだということを忘れさせる。つまりエッセイの対象読者層が広がります。本題の掛け算の努力の呼び水にもなります。
たいして辛くない失恋だったら、しょせんその程度の好きさ加減だったということなのだ。傷は浅いかもしれないが、得るものも小さい。辛い失恋なんて、誰も望まないことではあるけれど、失ってこんなに辛いと感じる人と、この人生で出会えたことは、やはり僥倖というべきだろう。出会ったことは、さかのぼってゼロにはならないのだから。その辛さをエネルギーにして一首でもいい歌ができれば、マイナスがプラスに転じる。
(同)
大げさに言えば足し算の努力で報われるとは限らない現世的恋愛と掛け算となって報われることのある短歌的努力が弁証法的に統合されています。俵さんが書いておられるのは〝恋する力〟の重要性です。恋愛でも物欲でも目的はあるわけですが目的が達成されて情熱が失われればそれは足し算に過ぎません。目的が達成されなくても足し算が報われなかったことにしかならない。しかし気がつくと自分は目的を通り越すような恋する力を求めているのだと認識すればその努力は掛け算に変わります。俵さんは二十世紀の歌壇で最も有名なラッキーガールと言えないことはないですが彼女のラッキーは偶然ではない。短歌に恋する力が強いのです。
こういった恋する力は創作者に必須でしょうね。誰だって自分の作品を評価されたい。できれば賞をもらい世間で有名になって好きな文筆で食べてゆけるようになりたい。しかし創作意欲を支える本源的な力は歌壇文壇詩壇小説文壇にも必ずある一歩ずつ評価を得て実績を積んでゆく現世的足し算の努力ではありません。恋する力に導かれた掛け算の努力です。その本道を見失わなければ世間から評価されなくてもどんなに足し算の努力を重ねても思うような結果が得られなくても耐えられます。
とびこえるほどにもあらぬみづたまりきれぎれにそらをうつしてひかる
申しわけないがなにゆゑいきどおりゐるかわからず目を伏せて聞く
はさみかみいしならいしがさいごまでのこるとおもひにぎりしめたり
(真中朋久「みづたまり」連作より)
詩といっても俳句や自由詩は抽象的表現が多いので作家が今現在どんなことを考えどんな生活をしているのか作品を読んでもなかなかわかりません。その点短歌は年を取ってからの年賀状での互いの生存確認のようなところがあります。生活や思想が直截に表現されているのでああこの方は今こんなことをしておられるのかと確認できる。そういった知友の今を知ることができるのも短歌の楽しみの一つですが写生短歌よりも作家の精神が内向している短歌の方が独立性が高いですね。
真中朋久さんの「みづたまり」連作は日常での他者とのささやかな諍いを描いています。しかしその表現の矛先は他者への怒りへは向かわない。「目を伏せて聞く」のように内向します。「はさみかみ」の歌は鋏と紙でジャンケンを読んだ歌ですが「いしならいしがさいごまでのこるとおもひにぎりしめたり」の「いし」は「石」であり「意志」でしょうね。勝ち負けは関係ないのです。
われをしも悪鬼のやうに言ふひとよ言ひつのるひとのうしろ背の闇よ
てのひらに包むわたしのてのひらで包む力はなけれども包む
ゆるびたる寒の数日いしみちの湿りのうへに影を歩ましむ
(同)
自分を激しく罵り非難する人への強い憤りが表現されているわけですがその怒りは結局は他者批判には向かいません。現世的日常生活ではさまざまな人間的軋轢が起こります。それを歌や詩論で表現するのはいっときは必要でしょうがいつまでもそんなことをやっていたのではダメです。創作は個の内面の問題です。真中さんの連作は「湿りのうへに影を歩ましむ」で終わっていますが孤独である必要があります。創作者の敵はいつだって外部ではなく自己の内部に潜んでいるのです。
高嶋秋穂
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