岩田正さんが平成二十九年(二〇一七年)十一月三日にお亡くなりになりました。大正十三年(一九二四年)生まれなので享年九十三歳。数々の優れた歌人を輩出した早稲田大学短歌会に入会し窪田空穂・章一郎の「まひる野」に創刊同人として参加して本格的な歌業を開始されました。昭和五十八年(一九八三年)にまひる野を離れ妻の馬場あき子さんと歌誌「かりん」を創刊。言うまでもなく今では歌壇を代表する結社歌誌の一つです。処女歌集『靴音』を刊行したのは三十二歳の時ですが平成四年(一九九二年)六十八歳の『郷心譜』まで短歌実作者としては長いブランクがあります。『郷心譜』以降はコンスタントに歌集を刊行なさいましたが長らく短歌批評家として活躍しました。
岩田のもう一つの画期的な立論は、いうまでもなく土俗論。(中略)
それは主として、前衛短歌以降といわれた時期に、わたしの回復、私性の復権という形で短歌が無定見無放任な状況にされようとしたとき、また現在もされつつあるのだが、そうした風潮に対し、歌うべき内的モチーフを、視座をしっかり定めて、短歌がおちいりがちな嘱目的即物的瑣末主義から、現代短歌を救いあげた、そういう役割を土俗・民族・風俗・血縁にかかわる作品群の系列が、もっとも尖端的にしかも果たしつつあると言ってもいいすぎにならぬであろう。
(岩田正「現代短歌の軌跡――遡行短歌論」)
岩田には近代が培ってきた強い現実認識によって、かつての自然主義的な浅薄な表現を払拭しようとする祈念があった。前衛短歌から得た方法を否定するものではなかった。ひとえに多用される詩的イメージの醸成、喩的表現の効用、身体感覚の拡充、長い長い時間帯を包含しうる技法などによって、むしろ自己固有の存在における主題の追求を促していた。
(篠弘「人間愛と短歌愛と」)
追悼特集で篠弘さんが主に岩田さんの評論についての総括論を書いておられます。岩田さんの短歌批評の功績はおおむね二つ。一つはいわゆる「人民短歌運動批判」で六〇年安保前後に短歌が政治の道具として使われることを激しく批判したものです。この時期俳句でも自由詩でも詩が政治目的に使われたわけですが俳句より七七長い短歌は政治信条を表現するのに最も使い勝手がよかったのです。
もう一つの批評的功績は土俗論です。前衛短歌によって短歌で表現できる修辞と思想の幅は広がったわけですが一方で現代詩的な現実遊離した表現に傾きがちになりました。岩田さんは土俗性を取り入れることで前衛短歌の成果を損なうことなく新たな短歌的私性を表現することを提唱なさったわけです。最初期の前衛短歌超克の試みです。
この土俗論は残念ながら歌壇ではムーブメントになりませんでした。しかし民族学を含む土俗を足がかりに日本文化の深層に降りてゆく方法はいまだ有効です。短歌のような伝統文学の場合欧米的新奇さを目指す前衛が行き詰まれば日本文学の基層に遡って新たな表現方法を模索するしかないのです。
空穂論書きて空穂になんだいなこれ俺かよと言われし夜あり
在りし日もかなしと思ひ死してなほかなしかりける母といふもの
(『郷心譜』平成四年[一九九二年])
魘されし理由はをとめ救はむとして斬られしと妻には言へず
イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十九年
(『レクエルド』平成七年[一九九五年])
見送るは背なをみることひとの背はさびしく愛しまして妻の背
(『視野よぎる』平成十四年[二〇〇二年])
不安にて足縮め寝る足伸せば不安は開放感もちてひろがる
ふるき箪笥ありて時折鐶にぎり立つなりむかしに縋りたつなり
(『背後の川』平成二十二年[二〇一〇年])
わが心奮ひたたすに理由なし奮ひたたねばわれはあやうし
息とまればわれはあらざりそのわれの焉り知りたし息なきわれを
病んで来ぬ老いを案ずれどケアセンターおのづから「死」とふ語は禁句なり
しんけんにごはんごはんといふ老あり五欲のひとつ醜からざり
なんとしたことクロール得手のわれ夢に流れに逆らひ平で浜さす
(「角川短歌」平成三十年[二〇一八年]一月号)
軽いユーモアを交えて気負いなく淡々と日常を読むのが岩田短歌の特徴です。ただ発表作品として絶筆となったという感慨だけでなく「角川短歌」平成三十年一月号に発表された歌は魅力的です。現代人の晩年について考えさせられます。九十歳を越える長寿は少し前までは想像しにくかった。それが可能になったわけですが肉体を支えているのは高度な医療です。遺作連作は十分に長生きし肉体ほどには精神の衰えていない作家が確実に迫り来る死を意識しながら詠んだ歌です。
「なんとしたことか」は連作最後に置かれた歌ですが現実世界では泳ぐところか立つこともままならない作家は夢で平泳ぎして浜を目指したことに驚いています。彼の精神はまだクロールですいすい泳げるけど肉体はもはや平泳ぎしかできない。それでも浜を目指すのです。また岩田さんには妻を詠んだ作品がかなりあります。岩田さんの奥さんは馬場あき子さんですがその関係については忌憚なく書いた方がいいでしょうね。
角川短歌は三十ページほどの岩田正追悼特集を組んだのですが妻が馬場あき子さんでなかったらこのページ数になったかのかどうか。ならなかったでしょうね。馬場さんは現存で最も重要な短歌作家のお一人です。それが岩田正追悼特集を充実したものにした面があるのは否めません。ただ短歌俳句は師弟と結社の長い長い系譜です。そこに納得できる道筋があればそれで良い。
俳句や自由詩では男女性差はあまり目立ちませんが短歌の世界では与謝野鉄幹・晶子の時代から男女が相互的に影響を与え合っています。永田和宏・河野裕子さんご夫妻がそうですし岩田正・馬場あき子ご夫妻もそうです。この系譜は平安時代まで遡れます。江戸期までの俳句がほとんど女流作家を生んでいないのに対し平安和歌は男性歌人と女性歌人の混交です。源氏を頂点とすればむしろ女流の系譜。岩田さんが生んだ優れた作品の一つに馬場あき子さんの仕事が含まれると言っていい面があると思います。
ふたりゐてその一人ふと死にたれば検死の現場となるわが部屋は
一瞬にひとは死ぬもの浴室に倒れゐし裸形思へば泣かゆ
腰抜けるほどに重たき死を抱へ引きずりしこのわが手うたがふ
大下一真に葬りの導師頼みたるのち安らぎて眠りに入りぬ
月桃餅すこし残るをあたためて分かち食うべぬ最後の昼餉
夫のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて夫婦たりにし
深き皺ひとつ増えたり夫の死後三日の朝の鏡に見たり
夫のなき女の貌になりゆくかさびれゆく顔を朝々に見る
きみの死のみづみづとわれの手に甦るまだ温かき胸や肩や手
通夜の席を棺に近く座しくれし幸綱さんありがたう遺影ほほゑむ
三七日のひとりの夜を訪れて経読みましき福島泰樹
亡き人はまこと無きなり新しき年は来るともまこと亡きなり
(馬場あき子「追悼二十首 別れ」より)
見事な追悼歌です。作家は業としてこういった時にでも作品を書かなければなりません。しかし近親者の死などの決定的な出来事が起こった時には作家の力量が厳しく問われます。作品意識がなければ作品になりませんが作品という意識が先行すると嫌味になる。思想と形式が肉体感覚で密に結びついた書き方を持っていなければ心に響く悼歌は書けないのです。
エクストリームな口語短歌作家には現代詩の密輸入者の面が確実にありますが七〇年代頃には綺羅星のようだった高度に抽象的作品を書いた現代詩人が現実を描く書き方を持っておらず肉体が老いても近親者が亡くなってもそれらを表現するすべがなかったことをよく考えるべきでしょうね。短歌は私性を表現する際に最も力を発揮しますが方向性を見失うと大事な人をまともに追悼することすらできません。前衛がすべてではありません。前衛を含む多様な書き方を体得している作家が真の前衛作家なのです。
【四十歳・女性】仕事をこのまま続けていると、惰性で一生が終わってしまいそうです。このままでいいのか底知れぬ不安が、毎日襲ってきます。
馬場 これは困るわね。そんなに詰まらない仕事してるの? 惰性で終わらないように「かりん」に入って歌を作りなさいって言おうかしら(笑)。(中略)
私凄いなぁと思うのは、お能の免状には「御執心により何々を許す」と書かれているの。執心によりそれを習得したから許すという。執心がなかったら何もない。「御執心」っていい言葉ですよね。
(「馬場あき子の作歌・人生相談(後編)」聞き手=金原瑞人)
角川短歌一月二月号には金原瑞人さんを聞き手とした特別企画「馬場あき子の作歌・人生相談」が掲載されています。馬場さは角川短歌巻頭にエッセイ「戦争と少女」を連載しておられますから短歌誌が馬場さんを重用していることがよくわかります。ただそれには理由があります。この作家には思う存分書いて発言していただかなければなりません。短歌という型のある伝統文学の中で自由に表現できる数少ない作家のお一人なのですから。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■