市ノ瀬高麗神窯茶碗(恐らく古作)
桃山時代末から江戸初期
口径11.6×高さ7.3×底径4.9センチ(いずれも最大値) 著者蔵
同高台
中世以降、朝鮮交易の窓口となったのは対馬の宗氏である。島国でその上耕作地が少ない対馬藩は、財政を朝鮮交易に依存していた。宗氏が朝鮮交易のエキスパートだったことは、関ヶ原の戦いで西軍に味方したにも関わらず徳川家によって領地を安堵され、幕末に至るまで一度も改易されなかったことからもわかる。秀吉の文禄・慶長の役では当然先陣をきって戦うよう命じられた。道案内役である。ただ徳川の世になると、いち早く朝鮮との国交回復工作を始めたところに宗氏の置かれた苦しい立場がある。
李氏朝鮮は文禄・慶長の役後に日本と断交していたが、宗氏は李王朝から徳川幕府が先に国書を送れば国交回復を検討するという内示を得た。要するに先に謝れということである。しかし幕府の回答は秀吉の起こした戦争である、というつれないものだった。そのため宗氏は国書を偽造して国交回復を求めた。朝鮮王朝は回答使を派遣したが、幕府は国書を送っていないので宗氏は通信使だと偽って駿府城で大御所家康、二代将軍秀忠と朝鮮使節を面会させた。家康・秀忠と面会する控えの間で国書をすり替えたのだという。朝鮮側国書は今でいう「拝復」になっており、それを幕府側に見せるわけにはいかなかったのだ。なおこの時の会見を元に森鷗外が歴史小説『佐橋甚五郎』を書いている。
この国書偽造は三代将軍家光の時代になって露見する。柳川一件である。対馬藩でお家騒動が起こり、藩主宗義成と家老柳川調興が対立し、柳川が宗家の不正を幕府に訴え出たのだった。家光臨席の上、大名・旗本の前で双方が直接相論するという異例の展開になった。家光の下した判決は義成無罪、柳川は津軽に流罪。封建社会で家老が藩主に謀反する事態は許されないにせよ、事の経緯から言って宗氏の処分は軽い。幕府は宗氏の工作を知っていた可能性もある。また対馬は宗氏でなければ治められないという判断があったのだろう。
宗氏が朝鮮交易で果たした役割は多岐に渡るが、茶道具では江戸初期の寛永十六年(一六三九年)から享保三年(一七一八年)まで、実に八十年近くも朝鮮の釜山で運営した釜山窯がある。釜山窯で作られた茶碗を御本茶碗という。文禄・慶長の役で国土が荒廃し、主な窯も秀吉軍に破壊されて朝鮮ではより先進的な磁器窯への移行が進んでいた。しかく釜山窯はそれに逆行して陶器を焼く窯だった。朝鮮側は釜山窯を厳しく隔離して日本人が朝鮮内部に侵入できないようにしていた。そのため日本が必要とする土をわざわざ運び入れ、陶工も派遣して焼物を作っていた。朝鮮の経済的負担は大きく何度も釜山窯の中止を申し出ている。対馬藩側も経済的には赤字だったと言われる。しかし釜山窯の経営は長く続いた。
その理由は中国陶器の優品はもちろんのこと、朝鮮産の優品陶器ももはや入手できなくなっていたからである。中国・朝鮮の焼物は磁器に移行し、陶器を好むのは特殊な茶の湯文化を持つ日本だけになっていたのだった。そのため初期の釜山窯作品は、ほんの五十年から百年前に日本に将来(輸入)された茶碗類の写しである。お手本を写しているから御本茶碗なのだ。そういった日本人好みの茶碗を朝鮮人が作れるはずもなく、御本茶碗には玄悦、茂三、弥平太といった作陶指導した茶道の名前がついた茶碗が数多く残っている。作品のレベルの高さから言って対馬藩が派遣した茶道だったとは思えない。ただ彼らの詳細はわかっていない。
御本茶碗は対馬藩から各大名への贈答品として使われ、また貴人からの注文を受けて作られる為政者のための御道具だった。そのため中央の茶道の流行に敏感に反応した。御本茶碗は室町将軍が好んだ大ぶりの高麗茶碗、あるいは織部時代の装飾性豊かな茶碗から、じょじょに簡素で小ぶりな茶碗に変化してゆく。江戸中期にかけて一世を風靡した小堀遠州(遠州流)の綺麗寂びの影響が色濃くなるのである。御本茶碗は古い箱に入ったまま市場に出ることが多い。作られた当初から大事にされてきたわけだ。釜山窯は幕府のお墨付きを得て、室町以来交易船で入手してきた舶来茶碗を、より効率的に入手するための正規ルート製品だった。
ただ歴代対馬藩主で茶人として聞こえた殿様はいない。また対馬藩は藩内に朝鮮人陶工を迎え入れていない。良質の陶土がなかったからだが、あまりにも朝鮮半島に近い対馬では、本土より半島・大陸への警戒心が強かったのも大きな理由だろう。対馬藩が陶工の移住に積極的に関与した形跡はないのだ。対馬藩にとって釜山窯はあくまで交易の一貫であり、島国の小大名が幕府や大藩に対して存在価値をアピールするための高級工芸品だった。
もちろん茶道具の歴史で釜山窯の果たした役割は大きい。中国朝鮮はもちろん日本でも焼物が磁器に移り変わる時期に、対馬藩は限界まで陶器を作り続けた。唐物高麗物といった舶来陶器の歴史は釜山窯の閉窯と共に終わる。これ以降茶人は江戸初期までに輸入された舶来品を以前にも増して珍重するようになり、本来茶器として作られたわけではない舶来陶器を細々と茶道具に見立てるようになる。江戸初期にはオランダデルフト陶器なども茶道具に組み入れられた。京都を中心に国産茶碗も盛んに作られるようになるが、日本の伝統工芸の多くがそうであるように、外国からの刺激を失った和物茶碗はじょじょにその創造性を失っていった。優れた陶工が出なければ優品が生まれない作家物の時代になったのである。
釜山窯が室町以来の舶来品珍重の焼物流入ルートだとすれば、唐津焼は小規模な地場産業から始まった。慶長の役後に日本に移住した朝鮮人陶工たちが、すべて唐津地方に居住したわけではない。各地の大名のお預けとなり、毛利家の萩藩で荻焼を、島津家の薩摩藩で薩摩焼を始めるなどした。新たな地場産業育成のために朝鮮人陶工を庇護して開窯させたわけだ。しかしその作風は唐津焼と大きく異なる。初期の荻焼も薩摩焼も端正で丁寧な作りだが、唐津焼は最初期から衰退期まで一貫して粗野で粗い。つまり唐津焼は為政者に管理された大名茶道具ではなく、庶民が使う雑器窯から始まって茶道具をも焼くようになったのである。窯業に適した土地なので新たに大量の陶工が移住してますます唐津焼は栄えたが、最初の定住は当然慶長の役より早い。
古唐津草文小皿(茶陶)
桃山時代末から江戸初期
口径13.9×高さ4.8×底径4.5センチ(いずれも最大値) 著者蔵
同高台
戦国時代の九州では、有馬、毛利、黒田、鍋島、大友、大内、大村、小西、島津、波多、龍造寺氏などが入れ替わりながら激しく覇権を競った。しかし唐津地方中心に見れば、このエリアに根を張っていたのは松浦一族である。松浦一族は嵯峨源氏で源融より出たと称する。検非違使として下松浦に下向・土着した源久が松浦一族の始まりだという。融の大臣を始祖とし、源久が九州に定住した最初の人というのは史実としては確認しようがないが、『小右記』などに松浦氏の名前が見えることから平安時代末から松浦地方一帯を支配していた武士であるのは間違いない。当主は源姓で一字名を名乗るのが慣例だった。
この松浦一族が江戸時代になって平戸藩として領地を安堵される。宗氏と同様、幕末に至るまで一度も改易されていない。実に九百年近くに渡って松浦地方を支配した一族である。松浦一族が松浦地方を支配できたのは、皮肉にも彼らが長らくまとまりのない武士団だったからである。強大な力を持つ方が時の天下人と対立しやすい。松浦一族は鎌倉時代から室町中世に至って実に四十八党に分かれて相争い、利害に応じて手を結んだ。松浦の武士たちは自らは「松浦一族」と称したが、外部からは「松浦党」と呼ばれることが多かった。
古代から近世にかけて、「党」はあまりいい意味の言葉ではなかった。特に武士団はそうで、要するに悪党の「党」である。一族は頭領に統率された明確なヒエラルキーを持つ秩序集団だが、党は家々の都合と思惑で相争う利害集団というニュアンスである。現代の政党にも当てはまりますな。実際松浦党は見事なまでの日和見である。源平合戦では水軍として平氏に味方したが、敗戦後鎌倉府に恭順した。南北朝時代には南朝と足利家の間をうろうろし、足利が有利とみると足利側についた。文禄・慶長の役では秀吉の命で参戦したが、関ヶ原では石田三成の誘いを断った。ただし東軍として参戦したわけではない。しかし戦後、徳川幕府に領土を安堵された。
まとまりを欠く松浦一族は本土に近いエリアを大友、大内氏らに押さえられ、松浦から平戸地方に押し込められていたわけだが、それがこの一族ならではの特長を形作ることになった。松浦地方からは古墳時代の鏡などの数多くの青銅器が出土する。大陸や半島からの文化の流入口は九州で、平戸が古来船が停泊しやすい良港だったから当然のことだ。山がちで耕作地の少ない松浦半島を根城とした松浦一族は貿易に活路を見出した。その点は対馬宗氏と同じである。しかし松浦氏の貿易の大半は私貿易(密貿易)だった。
いつ頃から松浦一族が交易に手を染めていたのかはわからない。しかし平家時代には高麗や宋とを交易している。時には略奪も行った。当時小値島を松浦直が知行していたが、彼は日本人妻を離縁して宋船の船頭の後家と再婚した。中国人との結婚は珍しくなかったようだ。室町時代には中国の海賊王直と手を結び盛んに明との密貿易を行った。松浦海賊は倭寇の中心的存在でもあった。この貿易ノウハウは受け継がれ、最初に日本にやってきたポルトガル船は平戸港に入港している(天文十九年[一五五〇年])。フランシスコ・ザビエルも平戸を訪れた。松浦氏の目的はあくまで交易だったが、ポルトガルはキリスト教の布教を強硬に求めたので平戸領主松浦隆信は布教を黙認した。生月、度島などで隠れキリシタンが生まれたのはそのためである。平戸から島嶼部にかけては中央の目が及びにくい僻地だった証左でもある。
江戸に入るとオランダ船、次いでイギリス船も平戸に入港するようになり、松浦氏は幕府の朱印状を得て平戸にオランダ・イギリス商館を設置した。しかし島原の乱(寛永十四年[一六三七年])後に幕府の外国貿易締め付けが強化され、対日本貿易国として唯一生き残っていたオランダ商館が本土に近い長崎の出島に移されることになった。これをもって国際港としての平戸の役割は終わる。ただ江戸初期までの平戸が中国朝鮮人も居住する国際都市だったことは、鄭成功(一六二四~一六六二年)が中国人の父と日本人の母の間に生まれ、平戸で育った混血児だったことからもわかる。明王朝復活のために清朝と戦い、戦い敗れて台湾に移り、台湾を占拠していたオランダを一掃した中国・台湾の英雄である。日本では近松門左衛門の浄瑠璃『国姓爺合戦』で名高い。こちらはまあ日本人好みの判官贔屓である。
戦国時代にはポルトガル人との交流(交易)を通して九州で多くのキリシタン大名が生まれた。高山右近、小西行長、大友宗麟、有馬晴信らが有名だ。しかし領地を含めて彼らの盛衰は激しい。また彼らは外国との交易の歴史を持っておらず、新鮮な異文化の魅力に免疫がなかったのでキリシタンに改宗した面がある。だが松浦一族は違う。小豪族で小大名だった彼らは元々日和見的で、交易でも外国の力を巧みに利用することで利を得てきた。朝鮮人陶工を移住させて新たな産業を興すアイディアとルートを持ち、窯業に適しているが木を切り出すのも難しい山深い土地を与えて長期間庇護できたのは、松浦地方一帯に網の目のように広がっていた松浦一族の可能性が最も高い。
芸術でも学問でもそうだが、最初にあるジャンルの基礎を作った人は偉大だ。唐津研究では水町和三郎氏がその一人で、著書『古唐津』(上下巻、昭和四十八年[一九七三年]出光美術館刊)で松浦一族が唐津窯を開窯したのではないかと書いておられる。また水町氏は北鮮会寧窯の構造や焼物の作り方が唐津で一番古い窯である岸岳系作品と酷似していることなどから、唐津窯は室町初期の南北朝時代に開窯し、室町中期にさらに陶工が移住してきたのではないか、という説を唱えておられる。だけどこれについてはどうなんでしょうね。室町初期にはまだ施釉陶の技術が普及していなかった。食器類は木器で漆製品は貴人しか使用できなかった時代である。当時唐津が登場していればもっと珍重されたはずだ。しかし唐津は明らかに雑器の扱いである。
残されている骨董からわかることは、慶長の役後に唐津窯で茶陶が作られるようになったことである。古田織部は秀吉茶道として出兵拠点である名護屋城に随行したが、朝鮮には出兵しなかった。文書資料は残っていないが、この時織部は唐津窯で作陶指導して茶陶を焼かせている。人が移動しなければ文化が生まれない時代だから、文禄の役で唐津窯とその支配者の存在を知り、慶長の役の際に彼らに命じて作陶を始めたのだろう。瀬戸唐津など、織部所領の瀬戸美濃地方の焼物そっくりの唐津がある。陶工も随伴したのかもしれない。これは大坂城出土調査結果とも合う。慶長の役後に唐津焼が増えるのは織部が作陶・流通を世話したからだろう。
それを考えると慶長二年(一五九七年)には確実に、唐津窯は松浦氏の庇護下で安定的に地元で操業していたことになる。問題は操業時をどこまで遡れるのかだが、せいぜい二十年くらい、つまり天正時代初め頃までではなかろうか。唐津窯全盛期は慶長初期から寛永時代頃までの約五十年ほどである。わたしたちは昔は物事がゆっくり進んだと考えがちだが、五十年は十分長い。
また唐津は新物陶器として売買されたわけで、今と同じように売れる時に売り尽くす勢いで大量生産された。そうでなければ今現在、大量の唐津焼が残っているはずがない。伊万里が市場シェアを奪うようになると、桃山末から江戸初期の唐津はガラリとその姿を変えてしまう。また唐津に限らず伊万里やデルフトでも、新しい陶磁器の生産が始まって技術的なピークに達するのに五十年もかかっていない。
唐津は元々は松浦氏の地元で細々と雑器を焼く地場産業であり、天正時代末頃にその存在を知った利休らの茶人が物好きにも奥高麗と呼ばれる茶碗類を作らせたのだろう。神経質なほど入念に作り上げられており、当時の唐津焼の中では例外中の例外作だったはずである。また慶長時代に入って茶陶を焼くようになったが、唐津の中で茶陶は圧倒的に少ない。相変わらず主力は雑器であり、それが販路を得て大坂中心の西日本一帯に広がったと言っていいだろう。
ただそうなると唐津の最古作は雑器ということになる。この雑器というのが厄介で、明らかに時代が若いと判断できる物もあれば、これは古そうだなーと感じるものもある。伝世品と比較してある程度の判断はできるが決定打はない。しかし骨董好きにとっては「もしかしてコイツは古い唐津かも」と思える瞬間が増えるわけで、これはこれで楽しい。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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