古唐津水指
桃山時代末から江戸初期
口径21.6×高さ9.5×底径15センチ(いずれも最大値) 著者蔵
漱石論の校正などで忙しく、すっかり言葉と骨董からご無沙汰してしまった。でも相変わらず骨董は買っているわけで、中には書くネタになる物もある。今回は古唐津の水指。水指は茶道具の一つで沸騰した茶釜に水を差したり、茶碗や茶筅を洗うための水を溜めておく御道具である。茶碗や皿はかなりはっきりとした特長がないと、茶道具用に作られたのか、後代の人が茶道具に見立てたのかわかりにくい。しかし水指は最初から茶道具として作られた物である。花入れには転用できるが、飯櫃にしたり汁物を入れたりはできない。骨董好きといってもオールラウンドの人などおらず、エッセイを書く際には調べなければならないことも多いが古唐津なら気楽である。だいたいは頭の中に入っているからリスタートのネタとしてはうってつけだ。
この水指、正確に言えば残闕である。塗り蓋を乗せるために上の方が平らに成形してあるので、壺じゃなく水指なのは間違いない。だけどだいぶ壊れている。口のあたりに二辺ほど呼続(同じ窯の陶片を継ぐこと)してある。昔は今のように、電気やガスを使って安定した温度で焼物を焼くことができなかったから大量の失敗作が出た。失敗作を捨てるゴミ捨て場を物原というが、そこから拾ってきたものだろう。ただ唐津窯は研究のための発掘調査だけでなく盗掘も盛んだから、最近拾われた物ではない。遅くとも戦後の早い時期に物原から見出されたのだろう。
骨董好きは買う前に、あるいは買ったあとにも物をいじくり回して情報を〝読む〟わけだが、それには何段階かある。最初の読みは言うまでもなく真贋の判定である。んー、んーと唸って結局真贋がわからない物もあるが、この水指に関しては簡単だった。というか笑ってしまうほどお約束通りである。骨董には時代や生産地ならではの作り方がある。それを骨董業界では「お約束」と呼び、真贋判定の一助としている。
初期の唐津焼は半島から渡ってきた朝鮮人陶工によって作られた。だからほかの窯とは焼物の作り方が違う。この水指は円盤形に成形した陶土を土台に作られている。裏側を見ると、はっきり円盤形の陶土の形が浮き出ている。これを「板起こし」と言う。この板の上に紐状にした陶土をぐるぐると巻いて積み上げ、胴の部分を作ってゆく。巻き上げ成形である。それから外側と内側に篦のような道具をあてて叩いて伸ばす。陶土の中の空気を出して割れないようにし、器を薄く頑丈にするためである。巻き上げ成形は縄文時代からある原始的な製陶方法で、常滑や信楽焼も巻き上げ作りだ。篦状の道具で陶土を叩いて伸ばすのも同じだが、日本人陶工はそのあと表面を手で均し、叩いた跡が残らないようにする。しかし朝鮮人陶工は叩きっぱなしだ。深い意図があるわけではない。外から見えない部分は手を抜くのが朝鮮人陶工の方法である。朝鮮工芸には全般的に繊細ないい加減さがあるが、器の内側に「叩き目」が残るのもその一つである。そのかわり作業が早い。ただそんな蕪雑さを日本の茶人は雅味として愛した。最後に釉薬を掛けて窯に入れて焼くが、初期の唐津焼では窯の土台とくっつかないように、器の下に貝殻を置いて浮かせた。唐津初期窯で、朝鮮唐津を焼いたことで知られる藤ノ川内窯などに多い。焼き上がると貝殻は壊して捨てるが底部分に貝の跡が残る。これを「貝高台」という。
板起こし(底部)
叩き目(内側)
貝高台(底部)
側面線刻(胴部)
つまり初期唐津焼の壺や水指、徳利など(袋物と総称される)のお約束(特長)は、「板起こし」「叩き目」「貝高台」の三点になる。時代が下ると袋物も轆轤で挽くようになる。この水指は初期唐津の特長を完璧に備えているわけで、名品じゃないので骨董教室で気楽な教材にしてもいいくらいだ。ただし約束が守られているから真作だとするのは甘い。贋作師は当然きっちり約束を踏まえたニセモノを作る。そういった贋作は掃いて捨てるほどある。約束通り過ぎる物は贋作を疑ってかかれというのも骨董の常識の一つなのだ。最終的には全体の雰囲気などを読んで真贋を判断するしかない。部分が合っているから真作と考えるのは危うい。
余談になるが、この手の水指が傷のない完品であれば、ソッポ(そっぽを向いてつけても確実な値段という骨董用語)でも最低百万円はする。仕覆や茶道宗匠の箱書きなど、茶道具用の御支度が整っていれば二、三百万でなければ売らないと言う骨董屋もいるだろう。古唐津の水指は数が少ないのだ。
茶道具を必要としたのはほんの一握りの大名や貴人である。それに茶道具はたいてい注文品だ。貴人の茶道(お茶の指南役)や茶道具商(室町時代からいた)が、クライアントの好みに合った道具を窯元に発注したのである。となるとこの水指がいつくらいの時代に作られたのかおおよその見当がつく。骨董の二つ目の読みである。唐津焼は四、五十年は盛んに稼働した窯だから、初期といっても意外と範囲が広い。
唐津焼の研究では大坂城の発掘調査が一つの指針になっている。今は骨董になったから産地は制作年代はとうるさいことを言うが、当時は実用のための新品である。大量に作られたということは、当然だが大量に消費した場所があったということだ。地理的条件から言っても当時の文化状況から見ても、大坂を中心とするエリアが唐津焼の一大消費地だった。室町第八代将軍足利義政が蒐集した茶道具類は東山御物と呼ばれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は室町将軍を継承する正統天下人として自らを荘厳するために盛んに東山御物を集めた。名物狩りである。織豊政権に仕えた千利休が茶道を大成したのは言うまでもないが、当時の大坂でかつてない規模で茶道文化が華開いた。
大坂城発掘調査は四期に分けるのが通例である。
①豊臣前期(天正八年[一五八〇年]~慶長二年[一五九七年])
②豊臣後期(慶長三年[一五九八年]~慶長十九年[一六一四年])
③徳川初期Ⅰ(慶長二十年[一六一五年]~元和七年[一六二一年])
④徳川初期Ⅱ(元和八年[一六二二年]~寛永十七年[一六四〇年]頃)
である。
おおむねだが①の豊臣前期は浄土真宗石山本願寺の顕如が城を明け渡し、秀吉が大坂城を築城して文禄・慶長の役が終わるまでの期間である。②の豊臣後期は慶長の役終結から大坂夏の陣まで。③の徳川初期Ⅰは大坂冬の陣で豊家が滅び、松平忠明が大坂城を治めた時期。④の徳川初期Ⅱは大坂が幕府天領となって大規模な大坂城改修工事が行われ、伊万里焼が登場して唐津焼が衰退し始めるまでの期間である。
①の豊臣前期の地層からはまったく唐津焼が出土していない。一番多いのは中国で焼かれた青花(染め付け)で全体の約四十三パーセントを占める。まだ唐物時代である。国産陶器は瀬戸美濃焼のみで三十パーセントほどだ。九州ではすでに唐津が焼かれていたが、この時期には大坂に運ばれていなかったことがわかる。唐津焼は②の豊臣後期になってようやく現れる。急速に質が上がった国産陶器を愛好するようになった時代で、唐津焼約三十七パーセント、瀬戸美濃焼二十二パーセントと国産陶器が全体出土陶器の六十パーセント近くを占めるようになる。③の徳川初期Ⅰから唐津の全盛期である。唐津焼だけで過半数超えの約六十三パーセントになる。④の徳川初期Ⅱでも唐津の全盛期は続き、全体出土陶器の約七十三パーセントに達する。この頃になると朝鮮人陶工だけでなく、技術を習得した日本人陶工も製陶に関わるようになり唐津焼は和様化してくる。また伊万里焼が十三パーセントほど出土しており、その後唐津は軽くて丈夫で清潔感のある伊万里に急速にシェアを奪われてゆく。
大坂城出土陶器調査結果は、口伝を含む史実がおおむね正しいことを証明している。秀吉の文禄・慶長の役は別名焼物戦争と呼ばれるが、①の豊臣前期、つまり慶長の役終結まで唐津焼が出土していないことは、この時期に朝鮮人陶工の大量移住がなかったことを示している。慶長の役後の②の豊臣後期に唐津焼が増えるのは、先進技術を持つ陶工が移り住んできて、新し物好きの日本人が飛びついたからだろう。またなぜ先立つ文禄の役後に陶工の大量移住がなかったのかも考えさせられる。戦後の一時期までは太平洋戦争の記憶が鮮明だったこともあり、陶工の移住は強制連行だったのではないかという説があった。しかし九州山陰の各藩は、少なくとも朝鮮人陶工の頭領を厚遇している。朝鮮に出兵するにしても道案内役が必要だ。それを山野に詳しい朝鮮人陶工が担ったのではないかという説もある。慶長の役後に朝鮮人陶工の大量移住があったのは、秀吉軍の決定的退却に呼応して、日本勢に協力して朝鮮に居づらくなった者、あるいは苦しい生活から抜け出すために、焼物後進国だった日本に活路を求めた陶工が相当数いたことを示している。
いずれにせよ発掘調査結果を踏まえると、唐津焼が普及したのは慶長三年(一五九八年)以降で全盛期は江戸初期の寛永時代末頃(一六四〇年頃)までである。ピンポイント調査だが、生産地の九州唐津地方を除けば全国的に当てはまるだろう。大坂のような大都市以外で密かに唐津が大量流通していたとは到底考えられないからだ。家康が征夷大将軍に任官したのは慶長八年(一六〇三年)なので、厳密に言えば唐津はほとんどが江戸初期作ということになる。
ただ開幕当初の江戸の文化水準は低かった。江戸に文化をもたらしたのは松尾芭蕉や尾形光琳など西の人である。文化は西から東に流れたのだ。茶の湯文化を育んだのは千利休や古田織部といった秀吉配下の者たちであり、彼らが唐津焼を茶道具に取り上げ表舞台に押し上げたことから、多少時代はズレるが唐津は桃山時代作という一般的認知が定着したようだ。骨董業界では漠然とだが古唐津の制作年代を桃山時代と江戸初期に分けるが、古唐津の優品を数多く所蔵している出光美術館がこ二十年ほどの間に開いた二回の大唐津展図録では、制作年代はすべて桃山時代となっている。天下人の歴史区分ではなく、文化的区分を採用したということだろう。
説明が長くなったが、今回紹介した水指は発掘調査に基づくと②の豊臣後期以降に作られたことになる。ただ全盛期の唐津水指は茶釜の形に似せて耳のある物が多い。しかしこの水指にはない。プリミティブな形である。それに無骨な茶道具は、利休自刃(天正十九年[一五九一年])後に茶人として頭角を現し秀吉茶道となった古田織部が、徳川家謀反の疑いをかけられ自刃する(慶長二十年[一六一五年])までの大名茶の特長でもある。全部調べたわけではないが、茶会記に国産水指が使われるようになるのは織部時代からである。それを加味すれば②の豊臣後期から③の徳川初期Ⅰ(慶長三年[一五九八年]~元和七年[一六二一年])頃の、約二十年ほどの間に焼かれたと考えていいだろう。これ以上の調査というか読みはできない。伊万里焼は今では十年単位くらいで制作年代判定ができるようになっているが、唐津の年代判定は難しいのだ。
焼物では箱書などが時代判定の指標になる。しかしはっきり制作年がわかる唐津は胴に天正二十年(一五九二年、文禄元年)の刻銘のある壺一つしかない。これとて最古の作ではない。利休旧蔵でいかにも利休好みの端正な形をした筒茶碗、銘「ねのこ餅」が伝来している。天正十九年(一五九一年)以前にも数は少ないにせよ、貴人に供するだけの質の高い唐津が焼かれていた。お茶の世界で奥高麗と呼ばれる茶碗で、明らかに慶長時代以降の唐津とは作りが違う。では唐津焼はどういった経緯で、いつ頃から焼かれていたのだろう。
ここまで来ると特定の唐津から始まって、唐津焼全般の文化背景にまで読みが広がることになる。ただそこまで拡げた方が面白い。では誰が朝鮮人陶工の受け入れ土壌を作ったのだろうか。
あらかじめ断っておくと、唐津焼の起源をピンポイントで確定することはできない。ほかの窯だって起源は特定できないと言えばその通りなのだが、唐津と伊万里焼は近世になって半島と大陸の渡来陶工が始めたことが他の窯とは大きく違う。わたしたちは時代が古くなればなるほど人々はおおらかに暮らしていたと考えがちだが、まったくそんなことはない。日本のような島国は異人に対して非常に敏感だった。今でいう過疎の村々でも、人口が少ないからこそよそ者が入ってくることに神経を尖らせていた。少なくとも土地土地の為政者の許可なく外国人が日本に定住するのは不可能だったのである。
加えて茶道の性格である。茶道愛好者は高級武士や政商などの裕福な町人であり、その時々の政治状況と密接に関係していた。中流の町民も茶の湯を楽しむようになるのは江戸の後期になってからである。茶道具の流行廃りは生産地側の事情とも関係しているが、そこに政治が絡んでくる。貴人向けに勝手に茶道具を作って売ることはできなかった。またどんな茶道具を使うかについて、信長や秀吉、家康といった天下人の意向が色濃く反映されていた。
東山御物を見れば明らかだが、室町時代の茶道具は唐物、つまり中国渡来の文物を珍重した。しかし明時代になると中国の焼物は磁器に移行して、日本の茶人が好む土もの陶器の生産が途絶えてしまう。だが朝鮮ではまだ盛んに陶器を作っていた。そのため室町末から桃山時代にかけて、日本の為政者たちは朝鮮に茶道具の優品を求めるようになった。
古田織部旧蔵の御所丸茶碗が数点残っているが、形や大きさなどを指示して朝鮮で焼かせた注文品である。当時の正式な朝鮮交易で使われた御所丸船で運ばれたのでその名がある。朝鮮には茶の湯文化がないので、日本の茶人が細かく指示しなければ意に沿う物が作れないのは当然だった。しかし手間がかかる。そうなると唐津開窯には朝鮮人陶工を日本に住まわせて、好みの陶器を作らせる目的があったと推測したくなる。が、そう簡単ではなさそうだ。まずは桃山末から江戸時代初期の、九州地方の表側の焼物事情をおさらいしておきましょう。(後編に続く)
鶴山裕司
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