著者蔵 三浦乾也作陶製印籠 縦八・七×横七・一×厚〇・四センチ 明治十~二十年
それまでの乾也は乾山六世で陶器作りの名手であり、藐庵の勧めで江戸中期の漆器作りの名工・小川破笠が考案した破笠細工(嵌笠細工)の技法も我が物として、その後継者と見なされていた。ただ乾也は下位とはいえ幕臣だった。養父・吉六よりも貴人との交流は容易で大老・井伊直弼のために漆器書棚を製作し、大名家で御庭焼の指導も行っていた。このネットワークを活用して乾也は老中・阿部正弘に『造艦建白書』を上申した。阿部はペリーと日米和親条約を締結し、徳川二百五十年弱の鎖国を終わらせた政治家である。阿部は数々の政策を断行し新たな人材を登用したが、乾也は阿部の命で長崎に派遣され造船技術の習得などをすることになった。
乾也の長崎派遣は正史にはほとんど記録が残っていない。しかし『幕末の鬼才 三浦乾也』の著者・益井邦夫氏の考証で安政元年(一八五四年)八月に江戸を発ち、約三ヶ月間長崎に滞在して技術を学び、同年十二月に江戸に帰着したことがわかっている。勝海舟と一緒だったが喧嘩別れしてしまった。それもあってか江戸城無血開城の立役者となり、一時は幕閣の頂点に立った海舟は乾也についてほとんど何も書き残していない。それはともかく乾也はわずか三ヶ月間で、オランダ人から造船、ガラス、溶鉱炉、反射炉、大砲などの技術を習得したのだという。にわかには信じがたいが乾也は大風呂敷を広げたわけではない。
幕府の命だったので江戸に帰った乾也は『伝習記事』などを幕府に提出し、軍艦建造の下命を望んだ。しかし半ば当然だが陶工として知られた乾也に莫大な費用がかかる造船の命はおりなかった。だが安政三年(一八五六年)になって伊達仙台藩が造艦惣棟梁として乾也を招聘し、松島湾寒風沢島で西洋型帆船軍艦の建造を行うことになった。乾也は設計・監督の総責任者になったのである。
この軍艦は開成丸と名付けられ、翌安政四年(一八五七年)に竣工し、十二月二十五日から松島湾内で試航海が行われた。安政六年(五九年)には乾也の指揮の下、伊達藩の米を積んで江戸への処女航海に出航した。二月十二日に出航し無事十七日に江戸湾に入港した。その後も明治維新まで開成丸は伊達藩の軍艦として航海を重ねた。寒風沢島の造船所跡に開成丸の造艦碑が立っていたが、東日本大震災で寒風沢島も大きな被害を受けたので、今も残っているのだろうか。ただ碑文は益井氏の著書に全文が掲載されている。こういった万が一の時のためにも史伝考証は大事である。
なお軍艦建造はそれほど簡単ではなく、幕府が水戸藩に造らせた船は進水後すぐに横倒しになってしまった。乾也の確かな建造技術が証明されたわけである。伊達藩はこの労に対して乾也を御作事奉行格に取り立て世禄百俵を与え、大番組に召し抱えた。乾也三十七歳の時のことで、この開成丸竣工が乾也の人生第二の絶頂期になった。
幕臣だが伊達藩お抱えの武士として乾也は仙台藩の殖産事業などに尽力した。元々陶工なので開成丸建造中も仙台堤焼の復興に手を貸し、北海道にも渡って箱館焼の開窯などにも関わった。しかし世は幕末維新期の動乱である。仙台藩でも守旧派と急進派の対立が激しくなり、守旧派とみなされた乾也は慶応元年(一八六五年)に改易を申し渡され禄を失ってしまう。それでも乾也は財政難の仙台藩に寄与するため、妻の実家でそれなりに裕福だった石井家から金を借りて銀相場で一儲けを試みたが、明治元年(一八六八年)の銀相場の大暴落で財産のあらかたを失ってしまった。乾也四十七歳の時のことである。
当時の四十七歳は初老である。もちろん明治の元勲のように、老年になるまで政財界で活躍した人もいる。しかし乾也の表舞台での活躍は明治とともに終わってしまったと言ってよい。乾也は深川で茶屋を営んでいた石井家の養女・栄と結婚して一男三女をもうけたが、男の子と二人の女の子は夭折してしまった。そのため友人の絵師・鈴木鵞湖の次男・鼎湖を養子に迎え家を継がせた。鼎湖の教育に気を配り、幕府時代にフランス語を習わせている。鼎湖は乾也の養子のまま妻・栄の実家の石井家を継ぐこととなり、御維新後に大蔵省に出仕して紙幣の印刷などに携わった。晩年は実父と同様に画家として活躍した。鼎湖の長男が北原白秋、木下杢太郎らとパンの会を結成した画家の石井柏亭である。弟は彫刻家の石井鶴三である。
養子だが乾也の影響を受けた鼎湖が明治新時代に活躍し始めたのに対し、仙台藩改易後の乾也は酒浸りになった。見かねた鵞湖が再び陶工として立つことを勧め、乾也は鵞湖の友人で、現在の神奈川県秦野市十日市場に尚古園を持っていた梶山良助の元で窯を開くことになった。尚古園焼で明治三年(一八七〇年)のことである。尚古園では国産初の電信用碍子インスレッドを焼いた。良助の依頼で上水道のための土管も作っている。秦野でコレラが流行して多くの死者を出したため、良助が私財をなげうって陶管を使った上水道を完成させたのだった。いずれも〝日本で最初の〟といった称号は冠せられていないが、乾也は明治になって初めて陶製の西洋的実用機器を作った一人である。
尚古園を辞したあと、乾也は明治八年(七五年)に東京向島の長命寺に移り住み、寺内に小さな窯を築いて明治二十二年(八九年)に死去するまで細々と作陶を続けた。焼物は土が命だが東京では良土がとれない。乾也焼が継承されなかった理由の一つである。享年六十八歳。養継嗣で孫に当たる石井柏亭や乾也三女のよね女は酒害で逝ったのだろうと証言している。一日に一升五合は飲む酒豪だったようだ。目立たないが今も長命寺に乾也顕彰碑がある。
器用で新進の気質にも恵まれた乾也が、維新後思うように活躍できなかった理由はいくつも考えられる。柏亭は「乾也といふ人は奇行の多い人です。近代の頭と頑固な所と、二重人格的に混在して、死ぬまでチョン髷を結ひ通したなど、田舎には例があつても都会では珍しいでせう。言はゞ佐幕文明党とでも評すべき人で、朝廷が気に入らぬのではないが、薩長が気に入らぬと云つて居たといふ話です」と証言している。
死ぬまで髷を切らなかったことからわかるように、乾也は骨の髄まで幕臣で武士のプライドを持ち続けた。勝海舟を始め維新の立役者には下級武士が多かったが、おおむねあっさり幕藩体制を見切る者と徳川時代に固執する者の二手に分かれた。乾也は後者で、佐幕派と呼ばれた人々の多くが維新後の変化に乗り遅れた。また乾也はペリー来航を機ににわか海防論者になったが、それはあくまで幕藩体制に寄与するためだった。本来は技術者気質で幕末維新期の荒波を乗り切ってゆくための政治的センスも持っていなかった。
柏亭はまた「元来乾也は順序立つて学問をした人物ではありませんが、生来〝カン〟のよい人です」とも言っている。この勘の良さを活かせば乾也は維新後に政財界の要職に就けた可能性はある。しかし乾也は幕藩時代の人で、維新後に始まった欧米的な学問――維新後の立身出世に不可欠な文化・技術分野の共通言語を学ぼうとしなかった。徳川時代には何でもすぐに習得して形にしてみせる万能の天才肌だったが、維新後は欧米的基礎知識(共通言語)を持たない過去の人になってしまったのだった。ちょっと現代の情報化社会(IT社会)に乗った人と乗り遅れた人に似ていますね。
三浦乾也作陶製印籠(同)
印籠底の「乾也」銘
乾也珠「天禄堂」銘
ただ維新後の乾也作品の評価が低かったわけではない。明治十年(一八七七年)に第一回内国産業博覧会に出品した亀と芙蓉の焼物の額面は龍紋賞牌を受賞した。また長命寺で焼いた小さな陶製の玉に綺麗な絵付けをした作品は「乾也珠」と呼ばれ、江戸的趣味を愛する文人墨客や女性たちに人気があった。
図版掲載したのは僕が持っている乾也作の陶製の印籠である。乾也は茶碗をはじめ様々な焼物を作ったが、こういった印籠が最も上手の作品になる。陶製だから実際に使えば割れたり壊れたりするので、趣味的な飾り物である。印籠の両面には歌川広重の東海道五十三次の絵が描いてある。印籠を帯に留めるための珠がいわゆる乾也珠になる。印籠の底に「乾也」銘があるが、大きな珠の裏側は「天禄堂」の銘である
乾也は乾山六世を襲名する前に、師・西村藐庵から乾山流の陶工を称することを許可する免状といっしょに「乾弥」の名前をもらった。その後仙台藩で開成丸を完成させた際、藩校養賢堂の学頭・大槻習斎から天禄堂の堂号をもらい、「乾弥」から「乾也」に改名したのだった。晩年まで天禄堂の銘を使用したことからも、乾也がいかに仙台藩時代の仕事を誇りにしていたのかがわかる。
ただ乾也は下級武士のコンプレックスからか、実父・清七が芝居の笛方をしていたことを恥じていた。乾也には乾也なりの立身出世欲があり、それが抱一を経由しての乾山六世襲名となり仙台藩での軍艦建造になったのだろう。晩年の乾也作品が明治の旦那衆や花柳界の女性たちに人気があったのは、少し皮肉なことである。ただそれは乾也が文人陶工だった証左でもある。抱一や藐庵らの教えが生きている。確かな乾山京焼流の色絵技術で江戸の粋が表現されているわけだ。さすが江戸乾山六世である。
さて乾也と柏木貨一郎の接点だが、恐らく龍池会だろう。九鬼隆一らが明治十一年(一八七八年)に設立した美術団体で現在の日本美術協会である。当初は古美術を保護するのが目的の団体で、古美術鑑賞会である観古美術会などを開催した。古美術の交換会も盛んに行っていた。乾也も明治二十年(一八八七年)に龍池会に入会している。乾也が「奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔」を採集したのは明治十二年(七九年)だが、龍池会の交換会で貨一郎の手に渡ったのではなかろうか。乾也と貨一郎の交流を示す資料はないようだが、当時は高名な趣味人陶芸家とコレクターである。顔見知りではあったろう。
なお頭の方で紹介した益田鈍翁碧雲臺の貼札のある箱自体を見たいという方もおられるだろうが、それはできない。僕は幸運なことに貨一郎から鈍翁に伝来した箱の中身を全部見るこができたが、その後、箱を含めて中身は一瞬でバラバラに売却されてしまった。所有者の好意で貼札の写真掲載を許してもらっただけなのである。所有者が変わっている以上、品物の来し方行く末については言うことはできない。
もちろん箱ごと買いたかったのだが、僕の財力ではとても手が届く値段ではなかった。無理をして「中尊寺金色堂壁之金箔」など数点買うのが限界だった。それでも骨董に興味がない友達から「君が骨董好きだということは知ってるけど、考え直した方がいいよ」と真顔で忠告されるような値段だった。ただ貯金が生きがいの人を除けば人は必ず何かに金を使う。こういった骨董が僕には一番面白い。
骨董は、値段はもちろん希少性や美的価値だけを見ていたのではその本質をつかめない。骨董が一番妖しい輝きを放つのは人との関わりにおいてなのだ。古くは井戸茶碗の筒井筒や喜左衛門など、人の記憶とともに伝来した骨董は多い。これからも強烈な個性を持った旧蔵者の名とともに伝来してゆく骨董は生まれるだろう。また明治初期の古美術界は混沌としていて人間が生み出した灰色の領域も深い。悪人は一人もおらず時代の大きなうねりが闇を作ってゆく。
幕末明治に古美術熱が高まったのは、アメリカを始めとする欧米列強からの圧迫によって、日本人が自らのアイデンティティに意識的にならざるを得なかったからである。その中で様々な発想・発明がなされ、そのいくつかは江戸とともに終わり、そのいくつかが明治になって花開いた。日本近代で最も光り輝く時代だが、その分、今では忘れ去られてしまった闇の領域も広くて深い。物書き業の人間にとっては実に魅力的な時代なのである。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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