寅間心閑(とらま しんかん)さんの連載小説『助平(すけべい)ども』『九、ニセモノ』をアップしましたぁ。『助平ども』は主人公による独白体なので、小説技法的には一人称一視点の私小説ということになります。ただ私小説の書き方も様々で、大別すれば独白体と心象描写体の2種類があります。オーソドックなのは独白体で、主人公が見聞き体験した事柄を意識の流れに沿って書いてゆくわけです。心象描写体は主人公によって世界が完全に内面化されており、それを描写してゆく小説技法です。主人公の人称は彼・彼女、太郎・花子の三人称でもいいのですが、風景や他者存在が内面化されているので、作品すべてが心象描写ということになります。
日本の純文学は実態として私小説ですが、書き方は圧倒的に後者の心象描写体が多いです。最大の理由は枚数が稼げるからでしょうね。もちろん作家は心象描写によって作品を自分の表現ポイントに導こうとしています。ただ模索しても表現ポイントが見つからなかったり道筋が間違っていたりすると、混ぜ物の多い小説になってしまう。「窓の外から今日もガガガガという道路工事の音が響く。カタカナの角が頭に突き刺さるようだ。昨日の昼間、花子のアパートで金魚を見た。赤い金魚。水槽の中で血を引くように動く。太郎は立ち上がるとジャケットを手にしてドアを開けた。音が突き刺さる。血は出ない」といった形でいくらでも小説を続けることはできますが、着地点がなければ読者はずーっととりとめのない心象を読まされることになるわけです。作家がこの書き方に慣れてしまうと、着地点など端っからない形骸化した純文学になるということでもあります。
これに対してオーソドックな独白体は、大した事件が起こらなくても私の感情の振幅の幅を思いきり拡げてやればスリリングな小説になります。ただし短編で留めないと締まりのない作品になります。大正時代頃の私小説作家はそういった書き方をしていました。この独白体で長い小説を書こうとすれば、言うまでもなくプロットが必要になります。ただしプロットの流れを軸に独白してゆくと、いわゆるストーリー展開を楽しむ大衆小説になる。だから純文学作家は安全な心象描写体で書いたりするわけですが、プロットのある独白体の私小説も可能だと思います。
大衆小説はAからBにプロットが移るわけですが、Bしか記憶に残らないことが多いです。つまりストーリーしか読者の印象に残らない。Bにプロットを移すにしても、Aの方も読者の記憶に残るような書き方を工夫することが、プロットのある私小説(独白体小説)の手始めのテクニックになります。寅間さんの転調の方法は「酒は飲みたいが、いつもの店、例えば「大金星」や「マスカレード」の気分ではない。誰かが俺を知っている場所では、俺として存在しなければならないから、結局俺自身と向き合うことになる。俺俺俺のオンパレードだ。鬱陶しい。出来れば今はニセモノでいたい。ちょっと前まで真逆のことを考えていたような気もするが仕方ない。ヒトって元々そういう生き物だ。俺はちっとも悪くない」といったものです。Aを記憶に残しながらBに移る書き方ですね。
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『九、ニセモノ』縦書版 ■
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『九、ニセモノ』横書版 ■
■ 第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
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