故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第一部 エル
僕は一時間も続く歌をサドルの上で口ずさんでいる。そこへ邪魔が入る。僕は日頃から自発的に友達を作るような子供ではなかったし、たとえ先祖があちらこちらで結びついているかもしれないといっても、自分から声をかける気にはなれなかった。だが向こうはそうでもなかったらしい。何しろ彼らのほうが大勢だった。どこから来たの? 名前は? 元気? いくつ? 彼らは僕の自転車に追いつくと並走しながら取り囲み、つぎつぎとおきまりの質問をした。僕は可能なかぎり答えた。礼儀をつくしているつもりだった。しかし僕がそれ以上の会話を望んでいないこと、あるいは進んで仲間に入る意志がないことを察知すると、彼らは笑顔をくずさないまま、速度を上げて走り去ってしまう。自転車には、五歳の頃は補助輪がついていて、そのうち外れたが、僕のように家のまわりの区画をぐるぐる回るだけの場合にはたいした違いはなかった。だが家のまわりの区画をぐるぐる回るというのは、実は同じ距離の直線を進むのに負けないほど変化に富んだ旅程であり、ことによるとずっと幻惑的な体験になった。まっすぐ進んでいるときは、目の前の景色が一度きりのものであることがわかっているせいで、何かを見逃しはしないだろうか、もしかしたら戻れなくなりはしないだろうかという恐怖が常につきまとう。ところがぐるぐる回っていると、なまじっかさっきの光景を覚えているせいで、ほんのわずかな変化が、拡大された印象をともなって何度も何度も姿を現す。ぐるぐる、ぐるぐる。雲の形、飛んでいる虫、落葉の位置、建物から出たり入ったりする猫などは、絶対にさっきと同じであることがない。ぐるぐる、ぐるぐる。それはまるで、毎日顔を合わせているはずの同級生の身長が、毎日顔を合わせているのに、目に見えて伸びているのを発見するようなものだ。
もういないよ
ここにはいない
さっきはいたのに
どこへいったのかな
歌には、そのような変化がすぐさま取り入れられる。そしてそろそろ言葉につまってくると、また何かしらの変化が続きをせがんだ。とうとう歌をやめるのは、言葉をしぼりだすのが困難になったからではなく、もう咽喉が枯れてきたり、いいかげん歌うこと自体に飽きてしまうからだった。そんなとき歌には脈絡もなく、
本当に長い歌だったね
本当に長い歌だったね
もうおしまいだ
さようなら
というコーダがかぶせられ、すさまじい統率力で蓄音機を止めてしまう。そして声が途切れると、レコード針である自転車に乗った僕も家のまわりの区画という軌道を逸れ、建物のなかへ吸い込まれる。もちろん僕の歌に横槍を入れるのは少年たちや喉の渇きや気まぐれだけではない。たとえばアダンさんがいた。物静かな隣人で、四角い輪郭を四角い眼鏡で強調しながら、いつも自転車で通り過ぎた。「やあ」という挨拶だけで爽やかに通り過ぎてしまうことの多いアダンさんが、あるとき目顔で「ついておいで」と言ったこともあった。隣人とはいえ、親しいとは言えない中年男に誘われるままついてゆくことは、後戻りのきかない危険な判断と思われるかもしれない。だがこの村で大人が子供に「ついておいで」と言うとき、それは何の裏表もない言葉であって、ただ子供をかまってやろうという意思表示でしかない。僕はアダンさんの自転車について走った。すると大きな眼鏡のせいであまり表情のわからないアダンさんが、「真似してごらん」と身ぶりで示しながら、ハンドルから片手を放したのだ。それは想像を絶する冒険だった。それでも目の前をゆくアダンさんの背中からときおり翼が生えるように片腕が突き出されるのを見ると、僕もなるべく同じようにして見せた。バルがある曲がり角のところまで来る頃には、僕はどうにか片手運転を覚えていた。自転車乗りの偉大な先達であるアダンさんは満足そうに加速して、四角い背中はみるみる小さくなった。僕は片手運転で家のほうへ戻った。つぎにはまったくの手放し運転という扉が待っていたが、それは新たな空前絶後の冒険の予感となって、背筋を冷たく駈けおりた。またあるときはザラザラおばさんが現れた。言うまでもなくこの人も同じ通りに住んでいて、誰かと立ち話に興じていないときは猫に餌をやっていた。村の野良猫はみんなザラザラおばさんのことを知っていたし、おばさんのくれる餌があまりに豊富なので、野良猫の数はだんだん増えてゆくようだった。おばさんは僕を見ると必ず声をかけたが、その言葉数はまき散らす餌の量に負けていなかった。あら元気? 何してるの? 自転車に乗ってるの? あんた、パパの小さい頃にそっくりだね。猫は好き? ほら猫よ。これとこれは親子よ。いつ日本へ帰るの? つぎはいつ来るの? いまいくつだっけ? お昼は何を食べた? 何が好き? え? わからない? おじいちゃんに遊んでもらったの? そう? お菓子でもあげようか? 何が好き? チョコレート? ポアルは好き? 日本とどっちが好き? わからない? え? というようなことを、僕がほとんど理解できず、ろくに返事もできないというのに、餌を放る手首の調子に合わせて猫に話しかけるのと同じ要領で、際限なく歌うように呼びかける。つまりザラザラおばさんは僕を野良猫扱いにしていたわけだが、およそ猫ほどおばさんが愛した動物はいない以上、腹を立てるわけにもいかない。それに僕も猫は好きで、おばさんのまわりにたむろしている子猫を一匹借りては、自転車のかごに乗せて走るのが日課のようになっていた。もちろん猫はすぐに飛び降りて逃げてしまい、ザラザラおばさんはザラザラした声で大笑いし、僕に握手を求める。おばさんの手は海岸の岩場で息をひそめている小さな甲殻類のようにザラザラしていた。それで僕はこの人をその名で呼ぶようになったのだ。ザラザラ、ばらばら。それから、ときにはソニアが邪魔をした。歌にとっては邪魔者でも、僕にとっては歌い続ける苦行からの救世主と言えないこともなかった。このときばかりは若い女性を迎えるのだから、自転車から降りなければならない。そのジプシー娘は、いつもワンピースをひらひらさせて、どこからともなく現れてはしばらく相手をしてくれた。瞳は黒かった。濃い睫毛も黒かった。黒を黒でふちどると、色はかえって黒から遠ざかった。それは薔薇色をしたすこしやつれた頬と調和する、何か新しい色だった。ソニアは僕の手をとって、家のまえの道を横断した。祖父なら左へ折れて納屋へ入ってゆくのだが、ソニアは右へ切れて縫製工場へと導いた。小さな花をいくつもあしらった彼女のワンピースも、そこで手ずから縫い合わせたものかもしれない。僕は自分の顔よりもずっと高みに盛り上がっているソニアの乳房を見た。広い襟ぐりの陰で乳房はやわらかそうに躍っていた。下着はつけていなかった。見るからに廉価なワンピースはところどころ糸がほつれていた。ソニアが目をくるくるさせて前屈みで話しかけるちょっとした隙に、僕は糸を引き出すだけで彼女を裸にできたかもしれない。くるくる、くるくる。縫製工場はもぬけの空だ。ただ等間隔で並んだミシンが、針のやり場に困って静まりかえっている。ソニアは作業台のあいだの通路をくるくる回りながらすり抜けて、ふりかえり、笑いかけた。いくつかの幸運な作業台はふくよかなお尻の祝福を受けた。いくら僕にとっては大きなお姉さんでも、実際はまだ十代の小娘にすぎなかったソニアの、土地の娘にはめずらしいほどほっそりした肢体ですらつっかえずにすまない通路を、脂肪をためこんだ年嵩の女たちはどのように通り抜けていたのだろう。僕はこの工場が稼働しているのを一度だって見たことがない。あるいは、他の仕事がなくなる冬の時期にだけ灯りがともるのかもしれない。僕は冬のエル・ポアルを知らない。ひっそり静まりかえった工場に退屈してくると、ついこのあいだまで幼い子供だったソニアもそれを察したのか、こんどは僕をバルまで連れて行った。アイスクリームを食べるの? と僕が舌足らずに催促すると、今日は涼しいから冷たいものはだめよ、とソニアは大人ぶった。そしてバルから通りに迫り出している雛菊の形の看板を指して、チュパチュプス! と高らかに宣言した。チュパチュプスはアイスクリームよりだいぶ安いのだ。僕とソニアは乱暴に包みを破き、丈夫な歯と舌で大柄な飴玉と格闘した。ソニアは黄色いのを舐めていた。軸棒を指先でくるくる回していたので、黄色は乳白色に光った。その色は黒と薔薇色の掛け算に新たな変数を加えた。ときおり覗く桃色の舌も、無視することはできない。「しゃぶる」という動詞を織り込んだこの飴玉を、ソニアは誠意をもってしゃぶっていた。そしてまだ舐め終わらないうちに、ちょうど現れたときと同じように、何の前触れもなく手を振って去ってゆくのだ。僕は見送りながら、舐め疲れたチュパチュプスを口から出す。唾液が糸を引く。間もなく棒の上の球体は、花柄の包み紙にくるまれたお尻と同じ大きさになる。くるくる、くるくる。
家へ帰るとパブロ叔父さんが妻のロサ叔母さんと娘のラウラを連れてやって来ていたので、僕は飴をしゃぶるラウラのほつれたワンピースと別れなければならなかった。ラウラはとんでもない乱暴者だったから、僕はつい身構える。母は一度だけ僕とラウラの手を引いて近くの町で買物をしたことがあったが、そのときラウラに指を噛まれて以来、すっかり怖気をふるっていた。まるで私が人さらいか何かみたいに、と母はもっともな不平を言いながらハンカチを指に当てたが、車を運転していたカルメン叔母はさも愉快そうに犬歯を見せただけだった。しかし僕はラウラを憎んでいたわけではない。日本から大切に持ってきた玩具を壊されはしないかと、なるべくラウラの目から遠ざけることには気を遣ったが、機嫌がよければ従妹は貴重な遊び相手だった。誰かと遊ぶということ自体、めずらしいことだった。僕は一人っ子で、親戚もすくなかった。学校は遠かったので、授業が終われば友達とはすぐに別れた。すぐに別れたので、友達と同級生という言葉にたいした違いが生まれることもなかった。帰ると一人で遊ぶ。だが八時になると父が帰ってくるので、もう遊ぶことはできない。厚い金属の扉に鍵がさしこまれ、二度、鋭い回転音がすると、僕は直立不動になり、母は笑顔をしまいこむ。がちゃっ、がちゃっ。夕食が終わるまでに父は必ず問題を見つける。それは母のせいか、僕のせいだった。そうなるともう、家は家ではなく、どこか別の、重苦しい場所だった。息ができるようになるのは、翌朝、まだ父が寝ているうちに身支度をすませ、学校へ出かけてからだ。さてラウラが来ると、また自転車の出番だった。僕と従妹は同じ遊びばかりした。家の前の道を、左手の納屋から右手の小さな広場までの短い距離で、ひたすら自転車と脚とで競走するのだ。もう一回? もう一回! オートラベス? オートラベス! という声の応酬は、自転車の歯車が噛み合う調子に拍車をかけて、僕を機関車のような気分にさせた。ラウラは飽きもせず、くるくる巻いた髪をカチューシャのうしろで跳ね上げながら、自転車に乗っているので有利この上ない僕との勝負をくりかえす。オートラベス、くるくる、くるくる。そう、彼女もまたジプシーの血を受け継いでいた。それはもちろん、ロサ叔母さんの側から来ていた。叔母さんはよく食後のテーブルでタロットを切った。叔母さんがその民族にどの程度ゆかりがあるのか僕は知らないが、もし両親のどちらか一方でしかないなら、やはり母親がジプシーだったのだろうと思う。根拠もなく占い師の女系家族を連想してしまうほど、叔母さんは美しかったからだ。叔母さんはソニアのような未熟な色の組み合わせとはとっくに決別していた。髪と瞳は黒く、唇は赤かった。それ以外の色は必要なく、黒と赤が混ざってしまう心配もなかった。ソニアやラウラと違って髪はまっすぐで、やはり黒で統一された洋服のなかの筋肉質な体を、よりいっそう鋭角に見せていた。とはいえ叔母さんは決して痩せていたわけではなく、お尻はソニアの倍はあった。豹だってただ細いわけではない。僕がラウラのような癇癪持ちの、言ってみれば出来損ないのジプシー娘の面倒をきちんと見たのは、要するにこの叔母さんのためだった。手のかかる娘に精一杯のロサ叔母さんは嫁の立場でもあり、なかなかカルメン叔母のように居間でふんぞりかえっているわけには行かなかった。もちろん、単純にロサ叔母さんのほうがカルメン叔母よりも思いやりのある女性で、自発的に祖母を手伝っていたというだけのことなのかもしれない。ともかく叔母さんが家に来るたびに僕の両頬で小さな花火をあげて「ラウラと遊んであげてね」と言えば、その願いを叶える以外の選択肢はなかった。それに僕はパブロ叔父さんのことも好きだった。三人兄弟の真中なのに末っ子のようにのんびりしていて、大きな体は肥っているというより暖かみがあった。そして叔父さんの有り余るほど豊かな髪の毛を遥か高みに見上げるたびに、僕は父のみすぼらしく禿げた頭を想起した。二十代の半ば過ぎから、父の髪は朝ごとに、枕が真黒になるほど抜けたという。いったいどうしてだろう。叔父さんはともかくとしても、祖父の髪だって年相応に薄くなっているだけだ。「それは不摂生や行き過ぎた苦悩のせいですよ」と鬘商人や医者は言うだろう。確かに父は夜中に起き出してくると、暗い台所でハムを丸ごと呑み込んだうえ、お菓子まで箱ごと食べ散らかしてしまうようなことがあった。それに父はよく呻吟していた。なぜ父がそんなに悩んでいるのか、いや、怒っているのか、僕にはわからなかった。僕はただ、怒りの矛先が自分に、そしてできれば母にも向わないことを願うばかりだった。夕食後、父はソファに足を投げ出していろいろなことに文句を言いはじめる。運の悪くない日なら、激しい声の乱高下はそのまま歯ぎしりに変わる。そうなると、もう起きない。ずっと起きなくてもかまわなかった。ラウラは父より大人しかったが、それでも僕はこの四歳下の小さな女の子に圧倒されていた。僕は子供が苦手だった。ラウラはすぐ泣いたし、お菓子があると袋のまま抱え込んで、さも自慢するように食べた。それはラウラが一人っ子であることを考えれば仕方のないことだが、まずいことに僕も一人っ子だったので、お菓子を分け合うという美しい行為にはひどく不慣れだった。小さなラウラは、明らかに僕よりもわがままで手のかかる子供なのに、小さいからという理由で僕よりも甘やかされていた。それでも大人たちがラウラに声をかけるのは、半分以上が叱るためだ。村の人々はまだ躾という古来の習慣を捨てておらず、それは村ぐるみで行われていたので、誰にでもラウラを叱る権利があった。だがいちばんラウラに対して声を荒げたのは、他ならぬ祖父母だった。ラウラ、こっちへ来なさい! 祖父母はかわるがわる叱責を加えるためにラウラを呼びつけた。それは正確にはラウレ、ビネカパキ! と発音され、その怒りと愛情に満ちた音節のあとには、必ずラウラのノ! という声、そして場合によっては泣き声が続いた。僕はその言葉を「コリョンズ」と同じくらい気に入り、しばしばラウレ、ビネカパキ! と叫んでは周囲に洪笑の波を起こした。ビネカパキ! ノ!
大野露井
(第02回 了)
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