さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
6 大学院(後編)
誰かに今の私の状況を打ち明けても、きっとありがちなこととして処理されるんだろう。関係を持つ前でよかったね、とか。
くやしい。自分が類型的なパターンにはまってしまったのも。普通なことを思い知らされたのも。
特別になることはむずかしい。どうしてとか、理由を考えたって、もう遅い。
「私、帰ります。みなさんお疲れさまでした」
急に胸でカラータイマーが鳴ったように、人といるのが限界になった。泣いてしまいそうだ。
「私たちはここにいるから、質問があったらいつでもおいで」
紺野先輩が、シャツの襟を直しながら言う。
「メールしてくれてもいいし」
「じゃ、また」
「お疲れさまです」
院生なんて、大嫌いだ。
資料の収集もあきらめた。外で感情を爆発させたくない。とにかく、帰る。帰りたい。バッグとファイルを持って、五号館の外に出る。
先生とすれ違うかもしれない。うつむきながら、芝生を踏んで歩く。じりじりして、いたたまれない。地下道を通り、改札を目指す。
突然、家族のためにケーキを買おうと思いついた。駅の東口を出る。西武デパートの前。垂れ幕がしてある。「彼と彼女のクリスマス」
「君と僕だよ」宮田君の口調がよみがえる。もう彼女でも彼でもない。
ショーウインドウの中では、パステルカラーのコートを着たマネキンが微笑んでいる。幼い色。もう似合わない。大人になってしまったから。パステルカラーが似合う時期、彼と一緒にいた。それを実感させた彼が許せない。
こんな日に、私は一人なんだよ。
涙が流れてきた。余裕をみせていられるほど恵まれていないことなんて、知っていた。けど、人にはできることとできないことがあるのだ。歩こうと思っていたのに、しゃがみこんでしまう。情けない。
ありふれた不幸だって、不幸なんだよ。風邪がつらいのと同じように。でも、終わったんだよ。結局、という言葉でまとめられる話になってしまった。
コートから、セーターの袖を引っぱりだして、涙をぬぐう。将来への先行投資じゃなくて、ちゃんと好きだった。どうしていいのかわからない。
去年彼からもらった指輪を中指から抜いた。道路に捨てようとして、一瞬迷ってポケットの奥に突っ込んだ。
「やだ、あの人泣いてる」
他人からは、イヴにひとりで泣いている人でしかないのだ。私は見世物じゃない。自分に酔っているとか、思われたくない。私はバランス感覚がある都民なのだ。それが,矜持。けど、こんな姿を見たら、だれもそうは思ってくれないだろう。
虚無僧が、こちらを向いて笛を吹いている。やめてほしい。通りがかりのおじいさんにハンカチを差し出される。ハンカチをひったくり、地面に叩き付ける。
「すみません。ありがとうございます」
思わず、謝罪する。人としてはずかしいことをしてしまった。老人は、見守るようにこちらを見ている。私はここで、なにをしているのだろう。
頭を下げながら、改札へと向かう。スイカの残額が足りなくて、引き返すことになった。改札まで、私に意地悪だ。
遊園地の広告が目に入る。二人の愛を確かめるイルミネーション。愛なんて、ないよ。欺瞞だよ。欺瞞。人類なんて自己認識ができてないから生きていけるわけで。くだらないから、もう恋愛はしない。
財布の五千円札を券売機に入れ、チャージする。移動なんかに代金を払いたくない。
家具を見に行った、とか。話しかけただけで赤面してくれたとか。思い出がどうのこうのと言っても、どうにもならない。一晩中電話したこともあったのに。
帰って、すぐに二階に上がった。部屋のソファーにうつぶせになる。窒息死してしまいたい。
「紅茶を淹れてケーキを切ったから、食べにおいで」
母の声。私は意地汚いのか、食欲が先行していた。下に降りる。生クリームではなく、チョコレートベースだ。木の切り株みたいな形。ひいらぎとホワイトチョコレートのプレート。サンタさんがいない。
*
「で、なんで宮田と別れたの?」
レモンを絞りながら、三木君が言う。有楽町で待ち合わせて、駅近の居酒屋にいる。スーツが板についている。浪人した一個上のはずなのに、髪の毛が薄くなりすぎている。ネクタイをゆるめずに話す。
「別に。もともと性格が合わなかったんだと思う」
「だから言っただろうが。あいつはああだ、って」
人の声は変わらない。当たり前だけど、目の前にいるのは三木君なのだと再確認する。
「なんで私に会いに来たの? 宮田君に偵察しろって頼まれた?」
「そういう言い方しないでよ。それに、卒業してまで宮田と関わってないよ。ゼミの奴に、別れたって聞いたんだ」
「じゃあ、なんで?」
問い詰めているような口調になってしまった。
「いや。色々環境が変わったからさ。社会人になって、なつかしいって気持ちもあるし。それから俺、そろそろ落ち着こうと思うんだよ」
「早くない?」
「彼女だってそれなりの歳だから。それに、いい子だと思うんだ。世話好きだし。よく働くし。堅実なんだよ」
声が嬉しそうではない。付き合いはじめの頃のことは、宮田君に聞いた。年下の彼女ができて、はしゃいでいたそうなのに。この変化はなんだろう。
「……てれてるの?」
三木君は答えずにこちらを見ていった。
「宮田との人間関係がどうなろうが、俺たちは友達同士なんだから」
おしぼりで手を拭き、畳まないままでふんわりテーブルに置いた。学生のときより、動きがラフだ。彼女がまめで世話好きというのは本当だろうな、と思った。
「言いたいのは、それだけ?」
「まあね……。なんていうか。そうだなあ。今になって、思うんだよ。あの頃、学生だったって」
「うん」
「だからどうってこともないし。今は今で満足してるんだけど」
「うん」
「宮田と藤森もつれて、美術館に行ったときのこと、覚えてる? 女の子ももう一人いたな」
そうだった。ツタンカーメン展に行った。私は、ハイヒールを履くのにも慣れてなくて、慣れていないのを悟られないようにする以外のことを考えられなかった。
「覚えてる。三木君、ずっと作品の解説してたね」
「くだらねえよな」
「よく、有楽町でビリヤードしたね」
「女の子にいいところ見せたくて、一人で練習したな……。バイト代がどんどん消えていった」
「だって、やたらと上手だったし。逆にわざとらしかったよ。三木君と宮田君、なんだかんだ言ってよくつるんでたね」
「ゼミの旅行であいつと同じ部屋になっちゃってさ。お互いに話すこともなくて、困ったんだよな。でも、沙耶ちゃんのことは本気で好きだって言ってたよ」
これはなぐさめなのだろうか。宮田君が「沙耶ちゃんもこの旅行、一緒に行けるといいのに」と言いだして、事前にゼミの先生に同行を願い出たと聞いたことを思い出した。
公私混同だし、無分別すぎると先生に言われてあきらめたのだ。私は行きたいなんて言ってなかったのに、女子と同じ部屋に泊まれば差し支えないと思ったらしい。旅行先から帰る日までずっと、毎日メールしてきた。
「あのころはね」
「うん」
「人は変わるんだよ」
「まあな。転勤族も大変だよな。俺には関係ないけど。藤森だって深夜まで働いててさ、毎日終電で帰宅してるんだって。無理したら病気になるってアドバイスしたら、余計なお世話だって怒られちゃってさ。まあ、言ってもどうにもならないよな」
「今頃、感謝してるかもよ」
「沙耶ちゃんって今、院生なんだっけ?」
「そうだよ。卒業を延ばした」
「院生って、モラトリアムの集合体だろ? どうするんだよ。これから。キリギリスは冬になったら死ぬんだぞ」
しゃべる合間にこちらを見る。
「どうにもならないよ。ハワイに行く計画を立てつつ、衰弱する。暖かいところが好きなんだけどね」
「だから俺みたいに責任感のある奴見つけて、結婚したほうがいいよ。まだ若いんだから」
「設計士だからって、人の人生プランまで決めないでよ。職業病だよ、それ」
「学生のときからだぞ」
「資質だね。明日も仕事じゃないの?」
「あ。もう十一時か。ごめん」
「なんか、ありがとう」
「俺も」
「じゃあね」
「じゃあ、元気でやっていけよ」
「三木君も」
「俺はいつでも勝っていくからさ」
「はいはい。じゃあね」
「じゃ」
有楽町の駅まで歩いて、電車に乗った。そういえば、宮田君が最寄駅まで送ってくれて、家に帰れなくなったこともあった。
夏のある日の夜、電話があった。真由美ちゃんからだった。
「元気?」
声のトーンが以前と違う。
「いつも通り。真由美ちゃんは? 引っ越したんだって?」
「ごめん。報告が遅くなって。また引っ越したの。結婚したから」
「よかったね。ゆうくんと?」
「あれから、新しく英会話はじめたんだけど、そこで会った人だよ。式はまだなんだけどね。年上でね。半年くらいで決まった。ゆうくんとはだいぶ前に別れちゃった」
「どんな人?」
「銀行員」
「そっか。よかったね。」
「よかったのかな?」
「なんで?」
「どう言っていいのかわからない。ゆうくんとは、何度も同じキャンパスを歩いたの。学校は違ったけどね」
「もう連絡とってないの?」
「うん。京都は桜の時期になるとほんとにきれいだった。彼にはまあちゃんって呼ばれてたの」
「まあちゃんか」
「今では高原さんの奥さんって呼ばれてる。なんか不思議なかんじ。すっかりおばさんよ。あっという間だった。どうするの? これから。」
「決めてない」
「賢く生きれば幸せになれるよ」
「ありがとう」
「もうすぐ旦那様が帰って来る時間だから、切るね」
「じゃあ、また」
電話が切れた。
風が入ってきた。窓を開けたままだったのだ。最近、上の空で生きている。世の中と自分との間に膜ができているかのようだ。何を問いかけても、リアクションの薄い私のことを、人は覇気のない奴だと思うだろう。相反する感情の隙間に落っこちて、戸惑っている。それが私だと思う。
先日、祖父がわざわざ部屋まで来て「いつまでもぼさっとしているな」と言って階下に降りて行った。
机に置いてあるチョコレートスティックを口に突っ込んで、ベッドに腰かける。今、私はカカオを味わっている生物だ。明日には、鳥を見物する生物になっているだろう。ウスバカゲロウが、目の前を横切っていった。再び私の視界に入ってきて低空飛行を続けたあと、枕の上で動かなくなった。
(第16回 了)
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*『学生だった』は毎月05日にアップされます。
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