五つの顔を保つ不思議な彼女。僕は画家でたまたま個展を見に来た彼女に魅せられる。彼女の五つの顔はそれぞれ違う世界に向けられているから、違う世界を保っているから、僕もまた自分の中に違う自分を持っているから。しかし彼女の五つの顔は、五つの世界は消え去って・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
来た! 五つの顔の彼女! 勤め先のビルから出て道路を渡って駅へ歩いてゆく。人込みの中に見えなくなるまでほんの二、三分なので素早く鉛筆を走らせて彼女の姿をスケッチする。今日は袖のふわっとした白いブラウスに、膝下までの緑色のスカートを履いていて相変わらずおしゃれだ。午後の明るい光を浴びて自然に笑顔になる人だ。その華やかな出で立ちに魅せられて周囲の人たちの視線が彼女に集まる。そして彼女の顔に気づいて驚く。じっと見続ける人もいれば、あえてまじまじと見ないようにする人もいる。しかし彼らに見えているのはせいぜい二つの顔だ。彼女には五つの顔があるのを知っているのは今のところ僕だけのようだ。
僕は画家だ。子どもの頃初めて色鉛筆と水彩に触れた時から、絵を描くことが人生最大の喜びになった。絵を描くこと以外の生き方は知らないと言っていい。子どもの頃にくらべて描き方や画材が変わってきているものの、絵の内容はそれほど変わっていない。目に見えない世界をずっと描き続けてきた。
子どもの時、それが絵になるまでは大人には見えないものだとは知らなかった。素敵ねぇと褒められて、描き続けていただけだ。しかし大きくなるにつれて、自分の絵の題材はどこから来ているのか不思議に思うようになった。そもそも描いているのは自分なのだろうか。
絵を描き続けているとマニアックなこだわりがどんどん強くなる。美術学校で学んだことにとらわれ過ぎないための工夫や、今まで誰もやったことのないものを描こうという焦り、自分を超えなきゃという衝動など、色々な葛藤を抱えて毎回カンヴァスに向き合っている。
何も描けない日もある。しかし仕事の締め切りが近づき追い詰められて白いキャンバスに向かうと、とにかく筆を動かしてみる。色がキャンバスに着くとまるで催眠術をかけられたように意識がどんどん色彩の世界に吸い込まれてゆく。朝になるとキャンバスの前で眠ってしまったことに気づく。手や服は絵の具まみれだ。そしていつも作品は完成している。自分で画題や配色に驚くこともある。しかし変えたり追加したりしたい箇所はない。完璧に仕上がっている。寝ていた間に作品が完成している。
もう一人の自分がいる!
高校生の時にはじめてこの現象が起こって恐ろしいほど不安になった。僕は病気なのだろうか? これは精神分裂で、症状が進んだらどうなるのだろう。それに別の自分が描いた絵を自分の絵だと言えるのだろうか。様々な不安を抱えて高校時代を過ごした。しかし美大に入って、このインポスター症候群のような、自分の能力をとても低く、頼りないものとして感じてしまう傾向は驚くほど一般的だと分かって少しほっとした。
同じような感覚を持つ人と友達になり、色々話しているうちに心が軽くなった。それにもう一人の自分が絵を描いているとしても、自分の身体を必要としているのだから、まあ、自分が描いているのだと言っても嘘ではないだろう。
やがてハッキリと自分の中に〝彼〟がいるのに気づき、良い共生関係を築くことができるようになった。僕は社会の一員として生活し、世界を見つめて絵のインスピレーションになる題材を集める。そして〝彼〟は絵を描くのだ。ここ十年ほどずっとそうしてきた。定期的に展覧会や個展に作品を出品して今では僕の作品を買い応援してくれる客もいる。
ただ〝彼〟が出てきて作品を完成させてくれるのは、僕が本当に追い詰められた時だけだ。たまに〝彼〟と面と向かって話したらどうなるんだろうと考える。僕は誰とでも友達になれるけど〝彼〟はあまり社交的ではなさそうだ。
〝彼〟は僕の心の中に閉じ込められひっそり息をしている。一夜で絵を完成させてしまう力があるのだから並の画家ではない。しかし僕は〝彼〟が激しい怒りや苛立ちを抱えているのを知っている。世界を歩きまわらないほうが安全だから僕の心の中に押し込められているのだろう。〝彼〟とは会わない方が良さそうだ。同じ画家だけど僕と〝彼〟は違い過ぎる。
五つの顔の彼女に出会ったのは、東京の繁華街の一角に建つ文化センターのギャラリーで個展を開いた時だった。いつもはコレクターや美術に精通している人が通う画廊街のギャラリーで個展を開くことが多い。それで生活が成り立っているのでありがたいことだ。しかし多種多様な人々が行きかう街にあるギャラリーも僕はたまらなく好きだ。
そういったギャラリーでは何気なく立ち寄ってくれる人がいる。作品を買ってくれなくても、見てくれるだけで僕は嬉しい。在廊の日はお客さん一人一人の表情を見る。彼らが絵に何を見出しているのか気になる。ぱっと表情が明るくなる人もいれば、何の変化もない人もいる。でもそれでいい。絵はそれを見る人が、自分の中にある何かを見つけ出すためにあるのだと思う。作家による表現なんだけど、見る側の質問でもある。絵を見る人が自分の中にある質問に気づき絵がそれに答えてくれるなら、画家にとってそれはとても幸せなことだ。
静かな平日の午後だった。閉廊まで一時間くらいあったがほとんどお客さんが絶えていたので、僕は帰ろうとしていた。ドアが開き彼女がギャラリーに入って来た。彼女の笑顔が目に飛び込んできた。彼女の中から自然に湧き上がって来る、世界を肯定するような微笑み。
「二つの顔の人だ」
「最近よく見かけますね」
ギャラリーのスタッフが彼女に気づきひそひそ声で言った。ギャラリー内の空気が不思議な緊張感を帯びた。
彼女は時間をかけて絵を見て回った。それぞれの作品を近くで見てから左下に小さな文字で書いてあるタイトルを確認し、それから一、二歩下がってもう一度見る。その繰り返しだった。たまに頷いたり目を大きくしたりして作品と会話を交わしているようだった。入り口近くに立っていた僕には彼女の横顔しか見えなかったが、楽しそうに鑑賞していた。
奥のほうに展示されていた大作の前に彼女が立った時、僕は異変に気づいた。彼女には二つの顔ではなく、もっと顔があるのではなかろうか。最初は錯覚だと思った。自分の目を疑いつつゆっくり彼女に近づいた。間違いない。数えると五つの顔がある。それが入れ代わり立ち代わり作品を鑑賞していた。回転木馬のようにグルグル回り、時に二つ、三つ、五つの顔が同時に現れる。
驚きで心臓の鼓動が速くなった。しかし彼女の顔を見つめずにはいられなかった。似ているが微妙に違う特徴を持つ五つの顔が作品を見て感想を言い合っていた。しかもそれぞれ違う言語を話している!
日本語で話す顔に対して、もう一つの顔が英語で答えた。横からドイツ語で割り込む顔、うっとりとした表情でスペイン語で独り言を言う顔。五つ目の顔は何語で話しているか分からなかった。
会話の内容はよくわからなかったが、どの顔も表情は柔らかく、笑顔を浮かべていた。絵が気に入ったようだ。おしゃれな女友達五人がギャラリーを訪れて、楽しく感想を言い合っているような雰囲気だった。ただ彼女の場合、花が咲き乱れるように五人の女性の顔が一人の女性の顔の中にある。
「あの、この絵、気に入りましたか?」
声をかけずにいられなかった。その瞬間、彼女の五つの顔が引っ込んで二つの顔になり僕に視線を向けた。
「素敵な絵ですっかり見惚れてしまいました」
「ありがとうございます。どんなところが気に入りましたか?」
月並みな質問だと思ったがもっと彼女と話したかった。
「色々なレイヤーがあるところかな。見れば見るほど様々な物語が重なっていることに気づきます。いくら見ても尽きないですね。というか終わりのない絵のような気がします。そして何より光が見えていることが、とても素晴らしいです」
僕は彼女と並んで絵を見た。
『バベルの塔―混沌の世界史』という作品だった。外から見た塔の絵ではなく塔の中から上を見ているような構図で、無数の同心円から構成されていた。その中に過去にあったモノや現在あるモノ、この世界に存在しうるありとあらゆるモノが細かく描かれている。
緑豊かな庭園で遊んでいる子どももいれば、戦争で殺し合う軍隊もいる。宮殿のような家に住み豪華な衣装を身にまとった人、道端でだれにも見られずに餓死する人の姿もある。愛し合う人と仲違いした人、嬉しくて心から笑い合っている人と悲惨な目にあって跪いている人、新しく作られるモノと破壊されるモノ・・・。生と死が常に隣り合わせになっている過去と現在の全てが、重なり合って描かれていた。
この絵が出来上がるまで一週間も〝彼〟に意識を乗っ取られたのだ。家を出ず寝るのもご飯を食べるのも不規則で、どうやって生活していたのか覚えていない。我に返ったのは、ペインティングナイフで削りすぎたキャンバスの真ん中に穴が空いた瞬間だった。絵はほぼ完成していたが、色々なものや想いが込められた最も重要な部分である絵の中心に、力を入れすぎたのか穴が空いてしまったのだ。
僕は愕然として絵を見た。キャンバスの裏から補正してなんとかごまかすか、描き直すしかない。しかし見れば見るほど他の部分には、実に見事に細かい場面が描かれている。同じような絵をまた作れるとは思えない。初めて〝彼〟を呪った。僕が題材を決めたのではなく僕の身体を使って勝手に描き出したくせに、キャンバスを破るなんて。
涙ぐみながら絵を見上げた。ふと真ん中に空いた穴が光っているのに気づいた。後ろの窓から陽射しが入って、キャンバスの穴を通って一筋の光になっていた。僕は立ち上がって穴に目を近づけた。
これは意図的に開けられた穴なのだろうか。いや、そうじゃない。でももしかして〝彼〟は夢中になってこの絵を書き続けているうちに、無意識のうちにこの混沌とした世界の「突破口」のようなものを見つけてしまったのではなかろうか。とても乱暴なやり方だけど。
僕はとっさに決めた。穴を補正するのではなく、後ろに投光射機を設置してインスタレーションにしよう。実際そうすると、展示のキュレーターもこのアイディアを気に入ってくれ、無事この大作を展覧会に出すことができた。
お客さんの反応は分かれた。長い時間この絵の前に立って細かいところまで丁寧に見てくれる人もいれば、ところどころに描かれている醜さを目にしてすぐに目を逸らしてしまう人もいた。絵の向こうから一筋の光が差し込んでいることに気づかない人もかなりいた。
「この絵、どんな思いで描かれたのですか?」
彼女の声で我に返った。彼女と話したくて声をかけたのに、黙って絵を見つめてしまった。
「あ、そうですね・・・。実は僕にも分からないんですよ。こんな絵がどこから生まれてくるのか・・・」笑いながら適当に答えた。
「でも多分ですが、この世界の過去と現在と未来、すべてを見せる絵を描いてみたかったんだと思います。無理だと分かっていても」
彼女は頷いて再び絵に視線を向けた。その真剣な眼差しを見て一人で鑑賞させてあげなきゃと思った。
「ゆっくりご覧ください」
僕は入り口近くのの定位置に戻った。
展示を見終えると彼女は僕に挨拶してギャラリーを出た。
「二つの顔の女性は作品を気に入ってくれたようですね」
ギャラリーのスタッフが言った。
二つの顔? いや彼女には五つの顔がある。それが見えたのは、僕だけなのか。
(前編 了)
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