故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第一部 エル
僕はしばしば正午まで眠った。夏休みなのに八時に起きるというのは、ほとんど異常事態だった。だが朝食の小さなマドレーヌの向うに現れた祖父はすでに畑の見回りを終えていたので、僕に文句を言う資格はない。祖父は目が合うたびに優しく微笑んだ。言葉を交わすことはろくにできなかった。なんとか言葉を往復させることができても、遅々としたやりとりから取り出せる意味はごくわずかだった。その損失を埋め合わせるためでもないだろうが、祖父は食卓を離れると、台所ですでに昼食の下ごしらえに取りかかっているらしい祖母と荒々しく口論を始めた。そして父にそっくりだがいくらか高く、嗄れた声で、「コリョンズ」という言葉を発した。祖父の発言のおしまいにしょっちゅう顔を見せるその音の流れがひどく気に入って、僕は「コリョンズ」を心待ちにしていた。昼食までの時間を持て余すと、僕は寝室に続いている小さなほうの居間で絵を描いたり、壁の染みを指でなぞったりする。母は何か読みながら、僕の遊びを見守っている。それは日本にいるときと変わらない風景だった。母は僕よりまだしもスペイン語に通じていたが、かといって義理の両親と交流を深めるでもなかった。そしてせっかくこの土地に来たのだからと、ときおり窓の下を救急車のように走り抜ける村の子供たちの輪に僕を放り込み、友達をつくるよう促すでもなかった。そこへカルメン叔母が現れる。廊下から突進してきた勢いそのままに戸を開いて、部屋の中央に陣取る。ここは風を通すのだから開けておいてちょうだい。母や僕にとってスペイン語よりもわかりやすい英語でそう命じた。叔母は昼食を摂りに戻って来たのだ。母は不満そうだった。僕はまだ壁の染みをなぞっている。それと壁をさわらないで。僕に向きなおってそう言い捨てると、叔母は廊下へ消えた。あいつは鬼みたいな奴だ。出発のまえ、父はそんなはなむけの言葉を贈った。それは父の十八番の誇張法だろうと思っていた。週末ごとに怒鳴り散らしては休日を台無しにしてしまう父も、鬼のような人だった。そんな父が鬼よばわりするのだから、叔母は鬼の親玉ということになる。しばらくすると僕は食器や鍋のざわつきに誘われて、半開きになっている戸から台所の奥へ顔を出す。祖母がまさに腕によりをかけていることが、仕草からはっきり伝わった。叔母はその横で、鏡写しの渋い顔で調理を手伝っている。祖母は何やら僕に話しかけた。もうすぐご飯だよ、という意味だったろう。僕は表裏一枚にも満たない心の辞書を開いて、うんうん、と答えた。このように見事に成立した会話に誇りを傷つけられたのか、叔母は僕を睨みつけた。運悪く、僕は戸口の壁によりかかっていた。僕はまっすぐ立っているのが得意なほうではなかったのだ。だから、壁にさわらないでちょうだいよ。叔母はそう言ったが、それだけでは勘弁してくれなかった。僕の目の前へ、硝子のはまった戸をたたきつける。この戸はいつも閉めておくのよ。硝子の向うから、動機が宣言される。この家の戸はいつも開けておくものといつも閉めておくものに厳密に分かれていて、僕と母にはそれがいつまでたっても吞み込めないようなのだ。だが僕は腹を立てはしない。祖母の名前がやはりカルメンであることを知ったばかりで、母娘で同じ名前ということが可笑しくてたまらず、それどころではなかったのだ。カルメンカルメン、カルメンカルメン。そして大きなほうの居間へ出て行くと、そこにはまた知らない人が増えている。それはこの屋根の下でいちばん背が高く、髪をこんもり後ろへなでつけたパブロ叔父さんだった。父の弟で、叔母の兄であるパブロ叔父さんは、母に言わせると「パパの若い頃にそっくりだけど、もっと優しい顔」をしており、その通り、優しい人だった。その代わり、二匹の鬼に挟まれて育った叔父さんは、兄に小突かれ、妹に馬鹿にされてきた反動で、体格のほうは人一倍立派になった。ところで、パブロ叔父さんは、本当はパウ叔父さんだ。そして、祖母と叔母はどちらもカルメンだが、本当は二人ともカルメなのだ。カルメカルメ、カルメカルメ。それはこの人たちがカタルーニャ人だからで、カタルーニャ語は鳥のさえずりのように軽やかだった。だから名前も、たいていは短く、しなやかになる。カタルーニャの家族は、日本から来た僕や母にはスペイン語のほうがわかりやすいと判断したのだろう、ふだんの会話はおろか、自分たちの名さえも、スペイン語風の偽名を使う。実際は、カタルーニャ語だろうとスペイン語だろうと、僕にはほとんど意味不明だった。家族が偽名の奥にもっと軽妙な、舌と咽喉をくすぐるような名前を隠しているなどという事実を知ったのはずっと後、それこそパウ・カザルスのチェロを聴くようになってからのことで、そのときにはもう第一公用語による呼称がしみついてしまっていた。いつまでたっても、祖母も叔母も僕にはどうしてもカルメンで、叔父はパブロなのだった。カルメンパブロ、カルメンカルメンパブロ。午後二時、昼食がはじまった。まずオリーブと小さな貝が楊枝立てと並んで食卓にのぼる。パブロ叔父さんは祖父よりも頻繁に食卓の中央に鎮座している水差しに手を伸ばし、鞭のように長く垂れ下がった吸口を顔の上で傾けると、まるで噴水の獅子か小便小僧の真下に立ちつくすようにして、ぐびぐびと咽喉を鳴らして葡萄酒を飲む。ローマ時代から続くこのごくあたりまえの習慣を目の当たりにした僕がサーカス小屋の客のようにはしゃぐので、曲芸師の叔父さんをはじめ、大人たちはたいそう面白がる。もちろん叔父さんは、やってみるかい? と勧め、僕が困ったような顔をすると、笑い声はいっそう大きくなる。僕は夢想した。大人になったら、僕も顔の上で盛大に葡萄酒の雨を降らせるようになるのだろうか? ついで大量のパンを片手に、イタリア風に言えばコンキリエ、つまり貝の形のパスタを浮べたスープを飲み干すと、献立の目玉が出る。またしてもイタリア風に逃げるなら、ペンネをチーズで挟み固く焼き上げたラザニアや、ジャガイモを大量に包み込んだまろやかなオムレツ、そして今度はフランス風に逃げなければいけないが、野菜を溶かしこんだ噛みごたえのあるキッシュなどが、決して大きくはない食卓を圧倒した。一日でいちばん大切な食事である昼食はたいていこのような大盤振る舞いだったので、祖母はようやく坐ったかと思うと、またすぐに立ってデザートを用意しなければならなかった。ほとんど一切の果物を受けつけないという奇妙な嗜好を持つ僕はびくびくしながらメロンの登場を見守ったが、僕がまだ小さな子供だったからなのか、僕のまえにはアイスクリームが運ばれた。それがすむと、やはり当時の僕には用なしのコーヒーが母を満足させ、昼食はようやく終わる。それは同時に、エル・ポアルでの生活のなかでとくに辛い時間がはじまることを意味していた。シエスタという、僕とはまことにもって相容れない風習が息を吹きかえす時間だ。
シエスタの語源はセクスタ、つまり第六の刻限で、日の出から数えて六時間とすればむしろ正午に近い。中世以前から時間を気にしていた奇特な人種である坊主たちの場合に当てはめれば、彼らはこの時間に昼食を摂っていたものと思われる。だから二時に始めた昼食が三時に終わり、そこから一時間ほど休むことをシエスタと呼ぶのには、ちょうど昼寝で寝ぼけた頭で物を考えるときと同じような違和感がある。とはいえエル・ポアルの人々は、日々の営みにどのような意味があり、それがどこに端を発してどのように編まれて来たのか、べつに知ろうとはしない。シエスタはすると決まっているからするのであり、その他の可能性の詮索はまさに時間の浪費なのだ。そんな時間があったら、長い夕に備えて眠るべきなのである。僕にはシエスタどころか、昼寝の習慣すらなかった。赤ん坊の頃から昼寝をしなかったという話を、母からしつこいくらい聞かされていた。思い出せるかぎりの最初から、僕が眠るのは夜、それも同じ年頃の子供たちよりもすこし晩い時刻と決まっていた。僕はベッドに入り、毛布をたくしあげ、足下からすこしだけ夜気を入れる。深い呼吸が胸を持ち上げると、胸が下がり切るまでには、たいてい眠りのなかへ旅立っていた。ときおり夜中にベッドを降りて部屋から出て行こうとし、母を驚かせることがあったにしても、それは僕の記憶には残らない。そして昼近くに目覚めると、もう自分は二度と眠らないのではないかという予感がみなぎった。日中は眠気の影さえなかった。おまけに僕はベッドでしか眠れない体質だった。アラスカを経由してバルセロナへ向かう飛行機に乗ったときも、母に懇願されてごくわずかのあいだ目を閉じていただけだった。さすがにこれは失敗だった。狭苦しくて暗いなか、何が起こっているかよくわからない映画を観るか、何を訴えているかよくわからない音楽を聴くしかすることはなく、最初は愛想のよかった乗務員たちも徐々に顔色が悪くなり、微笑んでくれなくなる。せめて紫色の雲の稜線や、稲妻のように光る翼をずっと見ていようと決心すると、窓を閉めるよう命令する声が響く。さらには機内でジュースをひっくり返し、ちょっとした騒ぎになったので、すっかり疲れてしまったのだ。そしてやっと解放されたかと思うと、外国人といっては父とその取引相手くらいしか知らないのに、外国人ばかりの空港に降りるなり、なかでもとくに無表情な外国人であるカルメン叔母の車に乗せられ、見たこともないような田舎の村で車から降ろされ、何人もの外国人とかわるがわるキスを交わさなければならなかった。キスは僕のなかにいる外国人を目覚めさせるどころか、おやすみのキスになって催眠術をかける。もうすっかり夜だった。めずらしく、寝室に入るまえから、僕は眠りはじめた。朝まで眠るまえに、もう一度だけ目を開いた。そこはひどく暗い寝室で、灰色の壁紙と渋色の寝台がわずかに生きながらえた光を食いつぶしていた。こんなに疲れていなければ僕は泣いたかもしれない。それもできなかった。遥か頭上でこちらに爪先を向けている、磔にかけられて固まっている男を、もう見たくなかった。だがシエスタの時間を幾度か過ごすうちに、僕はもはや親しみを込めてキリストを見つめるようになっていた。母は精神の疲れを癒すために肉体の休息を必要としていたので、話しかけることはためらわれた。すでに読み終えた部厚い漫画雑誌を、さらに隅々まで眺めた。こんな状況なら村の子供たちとの親交も現実的な選択肢と言えたかもしれないが、その子供たちでさえこの時間ばかりは疾走をあきらめてしまい、窓の下を走り抜けてはくれなかった。村は眠っていた。商店も眠っていた。教会の鐘楼も眠っていた。おそらく村の外も、都会も眠っていた。役所もいつも以上に眠っているだろう。スペインが眠っていたのだ。それなのに、よそ者の母がもうとっくに習慣に屈している横で、エル・ポアルの子供であるはずの僕は完全に目覚めていた。僕はたまらず起き出して、居間を抜け、テラスへ出る。シエスタのとき唯一眠らないもの、むしろ最も目覚めていて、そのためにスペインのすべてを寝室へ追いやってしまう太陽が、テラスを真二つに切り裂き、白と黒に塗りわけていた。空は四角いテラスを出発点にどこまでも四角く広がっていた。物干には僕がジュースをぶちまけた白い上衣が、寝室の壁にくっついている男と同じ姿でロープにぶらさがっている。ゴルゴタの丘に降り注ぐ太陽と、第六の刻限のスペインの太陽とでは、どちらがより灼熱という言葉にふさわしいのだろうか。僕にはそんな比喩は用なしだった。上衣よりも僕の目を惹いたのは物干ロープの奥にある二つの粗末な小屋だったからだ。左側の小屋は洗濯場で、ここで母はかわいそうな上衣を洗わなければならなかった。すべての用事を手帳に書き込んでその通りに遂行するのが母のやり方なので、この予定外の洗濯はすでに張りつめていた母の神経をよけいに参らせたことだろう。母は日記をつけていなかったが、この手帳を見れば母のあらゆる行動が把握できた。予定は実行直前まで更新されつづけ、必要とあらば跡形もなくきれいに抹消される。手帳には母の実際にとった行動だけが残った。それは一日の終わりに自動的に完成する、実践的な日記なのだ。洗濯場に向かう直前、溜息をつきながら「子供服―白の上衣―洗濯」と追記している母の姿が目に浮かんだ。だが左側の小屋よりも激しく僕の心を躍らせたのは右側の小屋、すなわち簡易な便所だった。それはどういうわけか、僕のエル・ポアルでの初めての夏のあと、九十五歳で永眠することになる曾祖母の専用だった。便座の位置がすこし高いのでしゃがむ負担が減るからなのか、あるいはこちらの便所のほうが自室から近いからなのか、それとも単に年寄りだからなのか、曾祖母はいつも痩せてはいるが背の高い後ろ姿でこの小屋のなかへ吸い込まれると、ほどなく濁流の音に見送られて暗がりからぬっと顔を出すのだった。僕は目撃者のいない時間帯にふさわしい背徳的な行為として、そこで用を足した。天井ちかくにそびえるタンクから吊るされた鎖を引いて水を流す仕組になっていたが、それまで僕のまわりにはそのような前時代的な便所は見当たらなかった。鎖を引くと、ところどころ錆びた管を細長い滝がほどなく滑り落ち、上衣を犯した柑橘類の果汁と同じような色の小水を、ほどよく薄めて連れ去った。まるでギロチンの紐を引くような感覚だった。鎖にほんのわずか体重を預けるだけで、僕の体の一部だったものは瞬く間に拉致され、二度と帰って来ない。このちょっとした死刑執行のおかげで、僕はその日のシエスタの退屈をどうにか紛らわすことができた。あとは寝室に戻り、またあの漫画雑誌を読み返せばいい。分厚い紙の束のどこかに、一つくらいまだ目を触れていない口絵が、せめて文字が、残されているかもしれない。僕は明日になってもスペインからシエスタがなくならないこと、明日からも当分この村にいなければならないこと、そしてこれからも何年かごとに夏になればこの村へ帰って来なければならないことへの不安を、すっかり忘れていた。おそらく明日になれば僕を苦しめるのは明日の第六の刻限のみで、その苦しみが前日のそれに酷似していることを気に病んだりはしないだろう。漫画雑誌への期待をふくらませながらテラスから居間へ戻ろうとして、僕は思わず固まった。居間の向うの廊下の陰から、髑髏が静かにこちらを見つめていたからだ。それはたったいま僕がその聖域を汚した曾祖母だったのだが、頭で理解しても髑髏はなかなか生身の人間の顔になってくれなかった。恐怖を感じたかといえばそうではない。僕はためらわず曾祖母に近づいた。曾祖母の痩せた体に乗っかっている細長い顔は、いま思えば家の誰にも受け継がれなかった貴族的な面影を背負っていた。しかしいまや僕の目はそんな曾祖母の顔の形よりも、頬のうえに釘付けになっていた。そこには大きなものと小さなものを合わせて、四匹の蝸牛が根をおろしていたのだ。―この蝸牛を疣とか、老人性角化腫とか言い換える必要があるだろうか? そんなことをすれば、顔から蝸牛を生やすほど永い時を生きた曾祖母の偉業を、かえって貶めることになりはしないだろうか? ほとんど一世紀を地上で過ごし、間もなく神に召されることになる曾祖母は、このときすでにそれまでの苦行の見返りとして、国をも眠りにつかせるシエスタを免除されていたのだから。
大野露井
(第01回 了)
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