新年号にズラリと作品が並ぶのが歌誌・句誌・自由詩の商業雑誌の恒例です。皮肉な言い方をすれば一つの〝制度〟になっているわけでこの制度から外れた作家はもちろん当落線上にいる歌人はなおのことモヤモヤした気分を抱くでしょうね。
しかしそんなに悩むことはありません。制度を越えた作品特集の理想は歌の世界では百人一首になると思います。作品特集自体が質の高い一冊の詞華集になっているのが最高です。もちろん現実はそうではない。理想の形を極めていない以上まだまだ新規参入の余地はあります。高いレベルの作品を書けば――その気があればの話ですが――簡単に作品特集の一員になれるはずです。
ただ作家は未熟であっても傲慢なものです。他者の作品に厳しく自分の作品に甘い。それはプロと呼ばれる作家も同じなのです。もうちょっと正確に説明すると他者作品の善し悪しや意義を批判・批評できる力と良い作品を生み出す力は絶対にイコールにならない。それがわかってくるとプロ作家の第一歩を踏み出したということになるでしょうね。
批判的に作品を読むのは大事ですが無責任であってはいけない。名のある作家の作品は意外と手強いものです。その手強さの質を見極められれば現実にそこに近づける可能性が出て来ます。作品特集の作家たちはどこから矢が飛んでくるかわからない舞台に無防備に立っているのだと実感する必要があるのです。彼らは歌の現在を知り未来を予測するためのサンプル作品を提供している勇気ある作家たちだとも言えるでしょうね。
透明の空にいつしか雲生まるごとまだ浅き冬丘の果て
音もなく還らぬ時は過ぎながら蜜柑灯に照る夜の卓の上
圧迫されるこころといへどいつの日も透明感を喪はずあれ
(尾崎左永子「鎌倉山房雑記」)
尾崎さんの歌の特徴は「いつの日も透明感を喪はずあれ」という点にあると思います。現代歌人なのに古典短歌の骨格をはっきりと感じさせる歌人でもあります。ただ歌に濁りがなく透明なのは無条件にいいことなのかどうか。濁りは現代性のことでもあります。誰にとっても現代は不透明で先行きが見通しにくい。現代に直面すれば歌の表現は多かれ少なかれ迷い時には破れかぶれに壊れかかるものです。尾崎さんの短歌の「透明感」は何かを犠牲にして獲得したものでもあるでしょうね。
ひむがしの野にかぎろひの立つやうに新年よ来よ つて言つたつてよい
冷ややかな好奇心のみ(それでいい)性愛は使い捨てられた花
薔薇の根方に未来図がない!大切にしまって置いた筈なのに、なあ
(岡井隆「卒寿新年に憶ふ」)
岡井隆さんは処女歌集から最新歌集までを通読する価値ある数少ない歌人の一人です。通読すれば『鵞卵亭』や『天河庭園集』で前衛短歌そのものだった岡井作品が今どれほどグズグズになっているのかがよくわかります。この崩れ方は九十歳という岡井さんの年齢のせいだけでは必ずしもないと思います。「冷ややかな好奇心のみ」「未来図がない!」といった感慨は今に始まったことではないのではないか。それが大きな魅力として映った時期があったのは岡井さんの本質的興味が短歌そのものからズレていたことを示唆しているように思います。このズレが岡井短歌の前衛性の原動力になった可能性がある。そしてグズグズだろうと今なお多くの歌人の期待を背負って前衛たらんと頑張っておられる。「言つたつてよい」といった無責任と紙一重の前衛性がそれゆえに新たな表現を生み出す可能性はあります。相変わらずスリリングで学ぶべき点の多い歌人です。
悲しみと焦りがあふれだしている迷子の鸚哥をさがす貼り紙
ソーダ色のガリガリ君を嘗める舌あり僕たちの死後の夏にも
真夜中のペットショップに少しだけ大きくなってしまった仔猫
(穂村弘「この子」)
ニューウエーブ短歌のメルクマールになったのは俵万智さんの『サラダ記念日』ですがニューウエーブ短歌が歌壇で一定のポジションを得たのは穂村さんの功績が大きいでしょうね。初期の穂村短歌は古典はもちろん前衛短歌とも素朴実感短歌とも切れた斬新なものでした。しばらくしてわたしたちはそれが意識的なものだったと知ることになります。穂村さんが作品からは想像できないほどの短歌オタクであることがわかったからです。ただそれと同時に穂村短歌の新しさはあえてなにかを〝狙ったものだったのか〟という次の問いが浮上しました。狙ったとすればその行き着く先はどこかということです。この答えはまだ出ていません。穂村さんは「少しだけ大きくなってしまった仔猫」の位相にいる。しかし執行猶予の時間はどんどんなくなっているように感じます。
まつたうなのが中のところを食べるので見てのとほりのていたらく
俺たちのほかに笑ふやつがゐることに気がついたのはいつだらう
いつぱいいつぱいは父さんここまでつてことだよねさうだよ行くか
(平井弘「柵」)
独特の書き方をなさっているので平井さんの作品は雑誌などに掲載されても目立ちます。また昭和十一年(一九三六年)生まれでこの作風ですから年長歌人による〝口語短歌こそ短歌が進むべき正しい方向なのだ〟的なお墨付きを与えているようにも思えます。しかし恐らくそうではないでしょうね。平井さんの口語短歌的な書きぶりは多分彼の個人的理由で選択されたものです。歌の内容や形式に深い意味や意義を見出そうとしてもことごとく外れるだろうという予感があります。この作家に関しては安易な過大評価は禁物です。単純に表現として面白いというレベルに留めておいた方が良い。文学は書かれ発表された作品がすべてです。作者の表現内実とは別に作品そのものに学びそこから何かを盗むことができるのです。
黄金の鞍置くようにして来る秋へひとつの稿をたずさえ歩む
海はすべて川の引用 その川をさかのぼりゆく月下の鮎は
オーロラの光彩を織る寒さかと身体はおもう図書館を出て
ほしぞらを神の図法が飾る夜もノートの上に額ずきねむる
夜汽車なら湖国へさしかかる時刻 研究室の四つの灯を消す
(鈴木加成太「月下の鮎」)
鈴木さんは第61回角川短歌賞受賞作家ですからそろそろ歌集をまとめる時期ですね。「黄金の鞍置くようにして」携えている「ひとつの稿」は処女歌集を指すのかもしれません。新年作を読むと修辞的にはどんどんレベルが上がっています。その意味では新人らしい力の入ったよい歌集になる予感があります。ただ作家は常に先の先を見通し考えておかなければなりません。目先のアイディアでとりあえず目立とうとするのは論外ですがオーソドックスに短歌王道を進んでも困難は至る所に待ち受けています。
短歌は作家の内面心理を表現するのに最も適した詩形式です。単純化すれば嬉しい悲しいを表現するときに最も力を発揮します。ただその表現は痛切でなければならない。そして長い長い人生を生きるたいていの現代人にはそうそう痛切な瞬間は訪れません。人工的にそれを起こそうと思っても自ずから限界があります。一つの書き方として見慣れたものになってしまう可能性もあります。
ですから短歌は痛切な内面描写を核として①冷酷なまでの内面・外面自然描写(写生)と②現代詩などの影響を含む修辞的な高みの二つのベクトルを目指す傾向があります。作品を量産しようとすればほぼ必ずどちらかのベクトルに進むと言ってよい。写生に進めば短歌最大の富である痛切な感情表現は薄まります。修辞に進めば嘘が多くなる。快心の修辞は内容と密接に関係していなければ単なる装飾と化しやすいわけですが修辞を重視すると痩せた内容をゴテゴテとデコレーションすることになりかねません。形骸化した前衛短歌ですね。
この作家内面心理の描写を中核として①写生②修辞のバランスをどう取るのかが短歌作家の正念場になります。歌集三冊目くらいで正念場は必ずやって来る。〝ああ彼は彼女は崩れたね〟と思われずにどう書き続け年をとり続けてゆくのか。これが非常に難しい。たいていの道行きは短歌史に刻まれていますから新人作家にはそれ以外の書き方と年の取り方を見たい。案外「海はすべて川の引用 その川をさかのぼりゆく月下の鮎は」といった表現に活路があるかもしれません。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■