大篠夏彦さんの文芸誌時評『文芸5誌』『No.113 沼田真祐「影裏(えいり)」(文學界 2017年05月号)』をアップしましたぁ。第122回文学界新人賞受賞作の沼田真祐さん「影裏(えいり)」を取り上げておられます。
大篠さんは『純文学誌かどうかは雑誌を開いた時の〝形〟ですぐわかる。たいてい会話文が少なく文字がびっちり詰まっている。ああ例の純文学的心理描写小説ね、と思う。それが悪いわけではない。だが昔の純文学小説に多かったが三十枚程度の短編ならまだしも、百枚を超えるびっちり小説を読むのは骨が折れる。(中略)二百枚以上で、かつ内容がつまらなければほとんど修行だ。この手の小説ではストーリー展開を早くして面白くすることができない』と書いておられます。
大篠さんが書いておられる純文学的な書き方に慣れることが純文学作家の第一歩であり、文壇への登竜門になっているようなところがあります。だって内容的には千差万別ですもの。自由詩の世界で現代詩的な書き方が固着しているように、純文学小説の世界では書き方が固着化してしまっている傾向が強い。わたしたちは小説に限らずドラマ、映画etc.でも、人に感想を聞くとき「それ面白い?」と聞いたりするわけですが、純文学の世界ではこの問いは御法度です。じゃあほかの評価基準がはっきりしているのかというと、書き方がおおむね統一されているという以外ないですね。
石川は、作家として本を売って活動していこうと考えている人は、純文学的書き方に慣れない方がいいと思います。慣れきって純文学業界に取り込まれたら後戻りできなくなる。確かに純文学業界には一般社会で有名な賞がありますが、毎回作品や本に賞が授与されるわけではない。当たり前ですが、出す本が毎回一定部数売れなければ、どんな有名賞をもらったって市場から消えてゆく。今の純文学の実質的姿にはムリがあるのです。
人間の思考・感性はムリのあるものを嫌う。芸術の世界で言えば、突飛で人の耳目を集める表現であっても、「ムリがあるなぁ」というものは、一世を風靡してもだんだん市場から消えてゆきます。長い年月の間に、ムリがなく素直で、なおかつ優れた作品しか残ってゆかない。純文学というジャンル分けをするかどうかは別として、そういった作品が文学本来のあるべき姿だと思います。
金魚屋はどこかと、あるいは何かと対立する気は一切ありませんが、現代のメディアとして現代的な状況には敏感です。外部からの視線を失った業界は、多かれ少なかれ内部論理によって奇妙な姿になってゆきますが、そういった歪みを本来あるべき〝ムリのない姿〟にしたいということです。小説に限らず、歌壇・俳壇・自由詩壇だってちょっと奇妙なところがある。どう考えてもおかしいよなと感じる事柄からさっさと逃げ出すことも、変化の坩堝にさらされた現代作家の才能だと思います。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.113 沼田真祐「影裏(えいり)」(文學界 2017年05月号)』 ■
■ 第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
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