著者蔵 三浦乾也採集 中尊寺金色堂金箔付き漆片 約七ミリと約二ミリ
現在の東京国立博物館の基礎を作ったのは元薩摩藩士の町田久成である。政争に敗れて外務大丞から閑職の大学大丞に転属になった。今の省庁で言うと外務省から文部科学省への転属である。華々しい政治の第一線から身を引いたわけだが、町田の偉いところは決して腐らず、日本の美術行政に多大な貢献を為したことにある。明治政府最初の文化財保護法「古器旧物保存方」を提言したのは町田である。また町田は海外視察などの経験から日本にも美術・博物館が必要だと考え「集古館」の建設を提言した。それが現在の東京国立博物館になった。東博の平成館に行くと、帝室博物館総長兼図書頭を務めた森鷗外の執務室跡のパネルがあり、その先に町田の銅像が立っている。
博物館を作るに当たり、町田は日本美術の調査の必要性を考え実行した。まず最初に行ったのが正倉院を中心とする古美術の調査である。東大寺正倉院は天平勝宝八年(七五六年)の聖武天皇七回忌に、光明皇太后が天皇遺愛の品々を奉納したのが始まりである。何をもって日本最高峰の古美術とするのかは人それぞれだが、歴史と伝来を考えれば間違いなく正倉院御物になる。土の中から発掘された物ではなくしっかりとした伝来を持ち、現在に至るまで千二百以上もほぼ手つかずの状態で守り受け継がれてきた遺物は世界的に見ても正倉院御物くらいしかない。しかも天皇御物である。
この町田の調査は「壬申検査」と呼ばれ、現在調査記録一式自体が重要文化財に指定されている。名古屋、京都、奈良の寺社仏閣などで調査が行われたが、正倉院に関しては明治五年(一八七二年)八月十二日に勅使によって開封され、二十三日に閉封されるまで調査が行われた。幕末の天保時代以来の開封調査だった。調査の総責任者は町田で内田正雄が補佐し、実際の調査は蜷川式胤ら太政官職員が行った。また文書だけでなく画像記録も残す必要があり、町田が私費で柏木貨一郎(日本画絵師)、横山松三郎(写真家)、高橋由一(洋画家)らを同行させてビジュアル関係の記録を取った。
ここからはとても微妙な話になる。はっきりとした点数は言えないが、明治初期にそれなりの数の正倉院御物が民間に流出したのはほぼ確実である。流出経路は複数あると推定されているが、正確な点数はわからない。また正倉院御物は天皇御物――つまり天皇家の所有物である。それが学問的アプローチをさらに困難にしている。
この研究に取り組んでおられる方に、ガラス工芸家で歴史研究家の由水常雄さんがおられる。『天皇のものさし 正倉院撥鏤尺の謎』という著書などがある。撥鏤尺と呼ばれる正倉院伝来の物差が民間に流出した背景や所蔵場所などを調査したスリリングな本である。ちなみに宮内庁を始めとする政府系の役所は正倉院からの御物の流失を認めていないようだ。理由は単純で、日本臣民が天皇御物に手をつけるなどあり得ないということである。これはこれで、灰色の部分をあえて突っつかない大人の対応だと思う。しかしいたく興味をそそられる。謎があれば解いてみたいと思うのが人情だ。ましてやもう百五十年近く前の流出劇なのである。
【参考図版】『麻布山水図』
麻本墨画/一面 縦五八・三×横六九・二センチ 奈良時代 八世紀
平成十年(一九九八年)に五島美術館で開催された『益田鈍翁の美の世界 鈍翁の眼』展には『麻布山水図』二帳が出品されていた。『麻布山水図』は奈良時代の作品で、麻布の上に墨だけで山水や樹木・草木、波や動物を描いたものである。建物の壁を飾る布幕だったという説と、物を包むための裂だったという説があるが正確な用途はわからない。ただ貴重な作品である。正倉院にニ帳、『益田鈍翁』展に出品された二帳、それに鈍翁が昭和十年(一九三五年)に実業家の前山久吉に譲った作品の五帳くらいしか存在が確認されていない。ただ前山所蔵本は現在行方不明である。日本のどこかに眠っているのだろう。布は劣化が早いので残りにくい。奈良時代の布がほぼ制作当時の状態で伝来しているのは奇跡的なことだ。
『益田鈍翁』展に出品された二帳のうち一点は五島美術館所蔵で、伝来には「正倉院?→益田孝(鈍翁)→高梨仁三郎→五島美術館」とある。高梨仁三郎は東京コカ・コーラボトリングの創業者で、戦後にGHQが鈍翁コレクションを押収するという噂を聞いて、海外流出阻止のために益田家から鈍翁コレクションの名品数点を購入した。
図版掲載したのはもう一点の方で、こちらの伝来は「正倉院?→柏木貨一郎→柏木家→益田孝→益田家→個人」である。前山本は行方不明だが、鈍翁は民間にある『麻布山水図』三帳すべてを一時期所有していたことになる。また図版掲載本の「個人」所蔵者は、戦後に益田家から鈍翁コレクションの大半を購入した骨董商の瀬津雅陶堂である。古美術の図録で国宝・重文クラスの作品を所蔵している「個人」はほぼ大店の骨董商だと言っていい。単なる民間個人で所有者が特定されていれば、相続の時に手放す可能性が高い。買ったときの値段はもちろん恐ろしく高いが、それを何十年も所蔵してタイミングを計って売却できるのが大店の骨董商の力である。
話が脇にそれたが、伝来経路の説明では「正倉院?」となっている。「?」が付くのはもし『麻布山水図』が正倉院から流出したならその時期はいつで、どんな経緯なのかが問題になるからである。瀬津雅陶堂本の伝来は「正倉院?→柏木貨一郎→柏木家→益田孝」だが、五島美術館本は「正倉院?→益田孝(鈍翁)」である。だがここにも貨一郎が介在していた可能性が高い。では「正倉院?」から出て「柏木貨一郎」が所蔵するまで、『麻布山水図』はどこにあったのだろう。
○矢野分科員(自由民主党 矢野隆司衆議院議員・当時) この麻布山水図についてもう一つ二つ伺いますが、これは実は正倉院にそもそもあったものじゃないのかという議論があります。ちまたでは、いわゆる流出という言葉を使われていますが、ありていに言えば、正倉院から無断で持ち出された作品の一つじゃないのかな、こういう議論がございます。
しかしながら、文化庁の方は、明治四十一年の正倉院御物目録に麻布山水図二張りの記録があり、今も二張りが現に残されておるから流出はしていない、こういう御説明を私はいただきました。(中略)
そこで、要するに、買取協議会を含めて、九州国立博物館ではこの麻布山水図を買うときに、正倉院の所蔵品と一連のものかどうか、あるいは正倉院から過去に流出した品なのかどうか、そういった点について検討、考慮したのかどうか、教えてください。
○高塩政府参考人(高塩至文化庁次長・当時) 九州国立博物館では、この麻布山水図の購入に当たりまして、現在正倉院に所蔵されております麻布山水図と比較検討したというふうに伺っております。(中略)
この麻布山水図につきましては、正倉院に所蔵されております二点は、先生からもお話ございましたように、これは奈良時代に東大寺に献上された聖武天皇の遺愛の宝物でありますいわゆる正倉院御物ではなく、明治初年に明治天皇に東大寺から献上されたものでございまして、それとは違うということ。それから、正倉院の二点につきましては、九州国立博物館のものよりも非常に大きなものだということでございます。
したがいまして、九州国立博物館においては、この購入したものについては、どの時点かははっきりしませんが、東大寺の方からいずれかの時点で流出した可能性が高いものと考えたというふうに聞いておりまして、正倉院からいわゆる流出したものではないというふうに考えているということでございます。
○矢野分科員 しかしながら、文化庁文化財部美術学芸課、平成二十一年二月十三日の私がいただいたペーパーでは、この九州国立博物館への売り主、都内の美術商にさらに売った益田さんという人、これは三井財閥の総帥だった人ですけれども、益田孝氏が大正十五年に展観を行った際には、資料に正倉院伝来と記載されているが、そのことについては九州国立博物館は当時認識していなかった、こういうことが文化庁のこの資料に出ていますけれども、これはどういうふうに説明されますか。
○高塩政府参考人 今先生御質問があったとおりでございまして、私ども、九州国立博物館に確認したところ、益田孝氏が大正十五年に行った展覧会のことについては購入した時点では知らなかったということを聞いているところでございます。
○矢野分科員 それでは、昭和五十八年、畠山記念館での益田鈍翁遺愛名品展、ここにも九州国立博物館が買われたのと全く同じ麻布山水図、同一の品物が展示されておりますが、この益田鈍翁遺愛名品展での日本経済新聞社から出版をされておる目録、カタログの出品解説にも、正倉院伝来と書いています。これはどう説明されますか。
○高塩政府参考人 その正倉院伝来という意味をどういうふうにとらえるかだと思っております。
先生は一連というお言葉も使われましたけれども、また、九州国立博物館では正倉院のものに非常に酷似しておるというふうに言っているところでございまして、いずれも、今正倉院にある二張とかかわりの極めて深いものであるということは認識をしているわけでございますけれども、それがどういった経緯でその二張から分かれて現在のような形になったかというところは必ずしも明確ではないということで、所蔵者によりましては伝来と言い、また、学者によりましては一連という言葉を使い、九州国立博物館では酷似しておるという言葉を使っているものだというふうに理解しております。
○矢野分科員 ですから、私は何度も言うように、ちゃんと議論したなら議事録を残して、後で後追いができるような形で記録をやはり残していただかないと、多くの美術ファン、あるいは美術の愛好家というのが、あれはやはり正倉院から盗まれたものを国が国費で買い戻しているんじゃないのか、そういうようなあらぬ疑念といいますか、そういううわさが立つということも私はあると思います。
そこで、一般論で伺いますが、そういう盗まれた御物あるいは正倉院の宝物というものは、完全に盗まれたということは断定はできないけれども、その可能性や蓋然性が高い由来というか来歴のあるものについて、国があえて国費で買い上げる、買い求めるということは、過去には古文書類ではあったと思います。しかし、こういう器物、こういったちゃんとした形のあるものを買うということについて、一般論です、これは別に問題はないんでしょうか。
○高塩政府参考人 文化庁及び国立博物館におきましては、文化財の海外流出、それから滅失、散逸のおそれがある場合や、博物館における展示、公開が必要な場合など、文化財の保存及び活用の観点から買い取りを行っているところでございます。
実際の買い取りに当たりましては、その買い取ろうとする文化財の来歴やその内容をよく十分吟味した上、買っておるわけでございますけれども、こうしたことは、私どもも、十分気をつけながら引き続き行ってまいりたいというふうに思っております。
○矢野分科員 ありがとうございました。
(第171回国会 決算行政監視委員会第二分科会 第1号(平成21年4月20日[月曜日])議事録より)
図版掲載した鈍翁旧蔵の『麻布山水図』は、東京、京都、奈良に次ぐ四つ目の国立博物館である九州国立博物館の開館(平成十七年[二〇〇五年]十月)に合わせ、目玉展示品の一つとして平成十七年九月に九州博が三億一千五百万円で購入した。高いと思われるだろうが、サザビーズやクリスティーズのオークションハウスに出品されていたら億の桁が二桁になっただろう。三桁に届いたかもしれない。『麻布山水図』が日本に残ったのは喜ぶべきこと、というより瀬津雅陶堂は最初から海外流出させるつもりはなく、戦後六十年に渡って大切に保管して、最良の所蔵先にこの作品を売却した(移した)ということである。国立博物館に所蔵されればその先はない。日本国が続く限り大切に受け継がれる。
世間では美術品の価格が話題になりがちだが、しっかりとした見識を持つ画廊や古美術商が作品を持っているのはとても重要なのだ。貴重な美術品は融資の担保になることがある。高いといっても実勢価格は流動的だから、バブルの時などには担保価値より遙かに高額の融資が行われることがある。融資が焦げ付くと美術品は差し押さえられるが、すぐに売っても融資金額に届かない場合は銀行の金庫などで塩漬けになってしまう。そうやって世の中に出せなくなった美術品はたくさんある。価格はもちろん希少性、保管方法、所蔵先に関する見識などを備えたプロの美術商に買われた作品は幸せなのだ。(③に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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