世界史のおさらいになってしまうが、ムハンマドの直接統治から始まったウマイヤ朝は、九世紀頃には中東からイタリアのシチリア島、アフリカ上部、それにスペインの大半を含む巨大なアッバース朝へと拡大した。イスラーム世界では陶器の生産が盛んで、ペルシャ(今のイラン)を中心にいわゆる彩色画陶器が盛んに作られていた。その技術が十世紀後半には地中海沿岸に広く伝播して、各地で焼物が作られるようになった。各エリア好みの焼物が作られたのはもちろん、帝国内で焼物が盛んに流通していた。考古学ではよくあることだが、どこに残っていたのか、どこから出土したのかだけでは産地を特定することができないのである。技法は基本的に同じだから、特定には相当な知識が必要ということになる。
僕ら東方の人間は、ヨーロッパ文化の起源はギリシャでしょと言ってしまうところがあるが、実際はそれほど簡単ではない。一神教のキリスト教徒にとってはもちろん、ユダヤやイスラームにとってもギリシャは原則として多神教の東方異教世界である。焼物に注目すると、紀元前二、三世紀頃に全盛を迎えるギリシャ陶器の技術は恐ろしく高い。色絵の技術こそなかったが、焼くと赤に発色する陶体とプリミティブな鉄釉(焼くと黒くなる)をうまく組み合わせて陶器の上に絵を描く技術を持っていた。陶体も薄く、しかも研磨しているので実に優美である。
ところがこのギリシャ陶器の技術は、キリスト教に改宗してヨーロッパ文化の祖になるローマ帝国ではほとんど受け継がれなかった。ギリシャ世界で焼物は、大理石の彫刻などと並んで重要な祭祀用具の一つだった。僕らがすぐに思い浮かべるギリシャ陶器の優品は、日用品ではなく祭祀用具である場合が多いのだ。しかしローマでは祭祀や美術品は彫刻や絵画(フレスコ画)が中心となり、焼物の地位がどんどん低下していった。ローマ時代初期こそギリシャ陶器の流れを汲む黒陶(テラ・ニグラ)や赤陶(テラ・シギラータ)が作られたが、次第に釉薬をかけず、土を焼き締めただけの炻器(ストーンウェア)が中心になってゆく。焼物は単なる日用道具とみなされるようになったわけである。
この傾向は全ヨーロッパ的なもので、イギリスからイタリアに至るまで、ヨーロッパで出土する中世初期までの焼物はストーンウェアがほとんどである。それが中世中頃(十五世紀頃)から変わってくる。アッバース朝イスラームが伝えた製陶技術がヨーロッパに拡がり始めたのだ。その影響を受けたのがイタリアでありファエンツァの陶工たちだった。地理的に近いこともあり、イスラーム陶器の製作技術が真っ先に伝播した。このイタリア人好みに微修正されたマジョリカ陶の技術はすぐに他のヨーロッパエリアに拡がった。オランダのデルフト焼はイタリア人陶工によって始まった。現在はベルギー領だが、十六世紀初頭にアントワープに移住した四人のマジョリカ焼の陶工がデルフト焼の祖になったと言われる。
よく知られているように、十五世紀終わりからヨーロッパ列強国による大航海時代が始まる。いち早くイスラームの支配から独立し、スペインからも独立したポルトガルがまず大航海時代に乗り出した。次いで七百年近いイスラームの支配から抜け出してイベリア半島全域を奪還し、大いに国力が盛り上がっていたスペインが続いた。スペインとの独立戦争で国力が上がったオランダも初期大航海時代の主役になった。このあたりからオランダを中心とする北・中央ヨーロッパと、イタリア・マジョリカ焼の南ヨーロッパで焼物事情が微妙に違ってくる。
大航海時代は、ヨーロッパ側から言えば世界各地の様々な動植物や鉱物などの〝発見〟をもたらし、博物学が隆盛したのと同時に産業革命の基礎となる動力や製品製造技術の大発展を促した。また新たな文物の流入の中に中国製磁器があった。中国では元時代の十四世紀半ばに薄くて軽く頑丈な磁器の生産が始まっていた。続く明時代になって磁器は青花となって大発展するが、大航海時代によってもたらされた中国製磁器はフランスやドイツの中央ヨーロッパ宮廷でシノワズリ(中国趣味)の大ブームを巻き起こした。絵付けがエキゾチックだったこともあるが、ヨーロッパはまだ磁器生産の技術を知らなかったのである。
フランスやドイツのいわばヨーロッパ〝盟主〟の国王たちは、世界各地からもたらされた珍しい品々を陳列するいわゆる〝芸術と驚異の部屋〟に中国磁器コレクションを並べたが、その値段は高かった。そのため中流ブルジョワ階級のために中国磁器の模倣品が盛んに作られるようになった。それを一手に担ったのがデルフト陶だった。オランダは植民地にしたジャワ島を拠点に中国、やがて日本と貿易するようになるが、中国・日本の磁器を盛んに輸入しながら国内ではその倣製品を作っていた。
ただイタリアでは少し事情が違っていた。もちろんイタリアも中国磁器の影響を受け、十六世紀になると薄く優美な「白陶(ビアンキ)」が盛んに作られるようになった。今回紹介した『色絵マジョリカアンドロメダ図』も、盛期より百年ほど時代は下るがマジョリカならではの白陶(ビアンキ)の一つである。しかしシノワズリの大流行はイタリアでは起きなかった。マジョリカ焼独自のビアンキに誇りを持ち、そこに君公の家紋を入れ、キリスト教を題材とした絵を描くことが多かった。デルフトではシノワズリの大流行とともに染付(ブルーアンドホワイト)が主流になるが、マジョリカ焼は色絵陶器を作り続けた。
その理由はいくつか考えられるが、イタリアは十九世紀半ばまで諸侯が群居する分裂国家だった。諸侯は地中海貿易などで潤っており、その歴史も古かった。そういった富とプライドがマジョリカ焼をイタリア独自の様式にしていったのだと言える。マジョリカ焼にはメディチ家などの紋章が入った陶器がかなりある。諸侯が焼物の大クライアントだったのだ。またイタリアの明るい風土が地味な染付を嫌ったのかもしれない。イタリアでは新興の中国陶磁器よりもイスラーム陶器の影響の方が長く残ったのだった。
『色絵イスパノ・モレスク 女性の横顔入りアルバレッロ(薬壺)』イスラーム統治時代のスペイン 表 十五~六世紀頃か(著者蔵)
口径九・六×高十五センチ
同 裏
アルバレッロは薬壺のことで、昔も今も人類にとって薬はとても大切だから、各地で生産され様々な地方に伝来している。陶器製の薬壺は少なくともギリシャ時代まで遡ることができるが、大きめの円筒形で軟膏などを入れたアルバレッロは、ヨーロッパでは十五世紀前後から盛んに作られるようになった。残っている数が多いため、マジョリカ焼やデルフト焼を比較研究するための指標にされることも多い。大量に作られた生活用陶器は時代が古くても残りやすいので、焼物の学問では大事なのだ。イスラーム圏では灯火器に陶製のオイルランプが使われたので、各地で作られた陶製ランプが大量に残っている。
この『色絵イスパノ・モレスク』のアルバレッロも、どなたかが箱にマジョリカ焼と書いていた。しかしイスラーム統治時代のスペインで作られた物だと思う。女性の横顔が描かれているが全身をヒジャブで覆っているように見える。裏側の模様はイスラーム的な草花文である。またマジョリカ焼に多い黄色が使われている(デルフトでは多用しない)。ただスペインのどこで作られたのかまではわからない。
イスラーム統治下のスペインで作られた陶器をイスパノ・モレスク(イスパニア・ムーア人の陶器の意味)と呼ぶ。ムスリムといってもスペインを長く支配したのはアフリカ系イスラーム(ムーア人)である。こういったイスラーム系色絵陶器がマジョリカ焼の原理流になった。スペイン人からすればレコンキスタは先祖代々の土地をイスラームから取り戻す正義の戦いだが、様々な形でイスラーム文化が残った。西洋建築史で異彩を放つカタルーニャのガウディ建築がすぐに思い浮かぶ。スペイン文学の古典であるセルバンテス『ドン・キホーテ』は、原文はムスリムの歴史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリによってアラビア語書かれ、それをセルバンテスが翻訳したという体裁になっている(もちろんセルバンテスの創作)。また常に白系ヨーロッパ人とムスリムが対立していたとは言えない。シェイクスピアの『オセロ』の主人公はヴェニスの軍人で、ムーア人である。
日本人が「日本文化の元は中国と韓国だよね」と言われると、反射的に「それはそうだけど、日本では独自の文化が育っていてね」と答えてしまうように、各民族・国家のアイデンティティは複雑で強固なものである。立場が変われば物事の見方も変わる。ただ太古の昔から人類は民族や宗教を超えて交流していた。ヨーロッパでは長い間ギリシャ哲学が忘れ去られていたが、スペインコルドバ生まれの哲学者イブン・ルシュド(ラテン名アヴェロス)の著作がラテン語に翻訳されたことで、再び注目されるようになった。
各文化にはもちろん動かしがたい特徴がある。しかし固有性に執着しすぎるとダイナミズムが失われてしまう。焼物は平和な時代の産物である。特に優れた作品が作られる時代は社会が安定している。そういった時代でも社会は様々な問題を抱えているが、対立する文化同士が生存権を認め互いに影響を受け合っていた。そんな社会から新たな感性や思想を持った人間が育ち、さらに文化に厚みを加えてゆくことは歴史が証明している。大きな戦争などが起これば文化どころではない。一方の主張(利益)が満たされるまで、果てなくいがみ合ってしまうことになる。
エルサレムの聖墳墓教会の外鍵がムスリムによって管理されているのはよく知られている。キリスト教諸派の争いがあまりにも酷いので、中立的なムスリムに外から鍵をかけてもらい、諸派の聖職者たちが夜通しタイムシェアリングで祈祷するようになったのである。世の中の現実は力のある者の意志が通りやすいのはわかっているが、僕のような甘い人間は、みんなが少しずつ我慢して平和な方がいいじゃないかと思ってしまうところがある。二〇一八年が平和であるといいですね。メリー・クリスマス!。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ マジョリカ焼関連の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■