今回は中国は漢時代の発掘品である。買ったときはビニール袋にぞんざいに詰められていたが、これじゃあちょっと可愛そうだなと思って箱をあつらえた。といってもあり合わせのお菓子の空き箱である。中の黒い桟は、実家から送られてきた富山県名産のカマボコの仕切り紙を使った。底に綿を敷いて並べたわけである。馬の足というか、あんよが四つ、スネの部分が一つ、石器が一個、それに釣りなどの錘に使う土錘が二つ、塼が一つである。どうやったって名品には化けない残闕だが、こうして整理しておけば、いずれ骨董好きの誰かが愛蔵してくれるのではないかと思う。これも骨董愛の一つですね。
で、内容だが馬の足は前漢時代の俑の残闕である。塼は後漢だと思う。石器と土錘は時代も産地もわからない。中国にも日本にも朝鮮にも似たような物はいくらでもある。ただ漢時代の遺物に紛れ込んでいたので恐らく中国だろう。骨董は古ければ値段が高いわけではない。紀元前数千年前の縄文土器でも陶片なら、よほど面白い模様や形以外はほとんど値はつかない。審美的価値が問われるのだ。もちろん審美性以外に考古学的価値というものはある。しかしはっきり発掘時期や場所がわかっている場合だけである。漢時代発掘品も、発掘場所等がわからないので学術的価値はない。ただ縄文土器などより読みやすい骨董だ。墳墓から発掘された物で、最初からバラバラに壊れていたのだろう。
加彩馬残闕
前漢時代(紀元前二〇六年~八年) 縦三・七×横三・二×高さ九センチ(最大値)
【参考図版】加彩馬
前漢時代(紀元前二〇六年~八年) 高さ四七センチ 愛知県陶磁資料館蔵
陶片というか残闕の面白さは、細部まで観察できることにある。名品に囲まれて育った恵まれた人を除けば、たいていの骨董好きは、知識のない陶磁器のジャンルについては陶片から入門するのが普通だろう。図録と陶片があれば一日過ごせるような人は目が進む。骨董はデータベースである。的確な知識と目の経験がなければなにも始まらない。そういう意味では作家ごとにまったく作風が違う、海のものとも山のものともつかぬ現代美術の中から優れた作品を選び出すより遙かに簡単な世界である。もちろん完品は高価だ。しかしお金があれば買える。物書きのように買って持っている以上の何かを得たい人種にとっては、ムダと思われるような知識の方が大事である。
乗馬をやっている人や画家でなければ、馬の足をじっくり観察した人は少ないだろう。残闕は前足ですね。完品は参考図版のようなものだ。理想化されているが漢時代の名馬で、全体を見てもとても写実的である。中国では近世清時代に至るまで漢民族と満民族が覇権を争った。遊牧民族である満族は馬の扱いに長け、名馬を珍重していた。この馬の文化は戦争と交易によって早くから漢民族の間にも広がっていた。またいわゆるシルクロードの交易路が生じる前から西域との交流もあり、交配によって名馬を生み出そうとする努力も古くから行われていた。移動手段としても戦いの伴侶としても馬は貴重だったのである。
もう少し前提的なことをおさらいしておくと、加彩馬などは「俑」と呼ばれる。墓から出土した副葬品だ。日本の縄文時代の墓からも副葬品が発掘されているが、死者を弔う際に様々な貴重品をいっしょに埋める風習は古く、世界的なものである。中国でも紀元前一万年近い遺跡の墓から副葬品が発掘されている。ただ俑はそういった副葬品とは区別される。
国土が広く、早くから絶対権力者が存在した中国では殉死の慣行があった。権力者が亡くなると重臣や愛妾、愛馬、愛犬、召使いなどが死を賜り、いっしょに埋葬されたのである。しかしそれでは有為の人材が失われてしまう。殉死がなくなったわけではないが、おおむね春秋戦国時代から殉死の代わりに土(陶器)や木や青銅で人などを作り、いっしょに埋葬することが行われ始めた。人、動物、家屋などの副葬品を俑と総称するのである。副葬品は明器とも呼ばれるが、骨董の世界では人型などの立体作品を俑、陶磁器の副葬品を明器と呼ぶのが一般的だ。漢時代から碗や皿などの陶磁器もいっしょに埋葬されるようになったのだった。基本的には一度も実際に使われたことのない、死者のための生活陶磁器である。
俑と聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるのは秦の始皇帝の兵馬俑だろう。一九七四年に井戸を掘っていた農民によって偶然発見されたのは有名である。それまで兵馬俑の存在はもちろん、始皇帝の墓の位置すらわからなくなっていたのである。発掘が始まり、東西二〇〇メートル、南北六〇メートルを超える兵馬俑坑一号坑が明らかになった。陶製の兵士や馬などがぎっしりと並ぶ一種の地下帝国だった。その後二号坑、三号坑が発掘されている。発掘が進めばさらに多くの俑や副葬品が発見されるかもしれない。紀元前にこれだけの大墳墓を俑で埋め尽くした始皇帝の権威と財力は尋常ではない。なお始皇帝兵馬俑は国際条約で売買が禁止されていて海外流出していない。万が一流出しても存在が明るみに出れば、条約加盟国なら中国に返還しなければならない。中国が最重視する至宝の一つである。
【参考図版】加彩跪射兵士
秦時代(紀元前二二一年~二〇六年) 陝西省臨潼県秦始皇帝陵兵馬俑坑二号坑出土 高さ一二〇センチ 秦始皇帝兵馬俑博物館蔵
始皇帝兵馬俑はスーパーリアリズムである。兵士や馬の大きさはほぼ等身大だ。髪型から身にまとった鎧、履き物まで当時の物が忠実に再現されている。加彩跪射兵士は跪いて弓を抱える兵士の姿だが、弓矢は木製だったので失われてしまった。また俑は高温で焼かれた頑丈なものだ。これだけの大きさの焼物を大量に作る技術も尋常ではない。さらに〝加彩〟俑と名付けられているように、陶体は素焼きでその上から絵の具で彩色してあった。もっと煌びやかな、というよりケバケバしいほど鮮やかな像だったのである。焼物自体に彩色できるようになるのはおおむね唐時代頃からである。ただし俑の大きさはずっと小さくなる。
中国のように長い歴史を持つ文化国家の場合、どこまでが古代、中世、近世なのか判断に迷うところがある。儒教を中心とした中国思想が成立したのは孔子、老子、荘氏、墨子、荀子、孟子らが活躍した春秋戦国時代(紀元前七七〇年から二二一年)である。いわゆる諸氏百家の時代だ。ただその名の通り、春秋戦国時代は各地の諸侯が覇を競っていた。広大な国土を初めて統一したのが秦の始皇帝である。始皇帝が全土統一という諸侯の夢を初めて実現したのだった。
誇張し美化されているだろうが、『史記』に「蜂準、長目、摯鳥の膺、豺の声あり」と記された始皇帝が、人並み勝れた肉体と精神を持つ帝王だったのは間違いない。天下統一後、李斯らの重臣は、それまで秦王政と名乗っていた王に、天子は〝泰王〟と称すべきと建言した。司馬遷は『史記』註で、「天皇、地皇の下にすなわち泰王を云う、けだし人皇なるべし」と書いている。天と地には人智を越えた皇帝がおわすが、地上、つまり人間界の最高位が泰王だということである。しかし政は「泰を去らん。皇に著くるに、上古の帝位の号を采りて、号して皇帝といわん」と述べ、皇帝の始まり、すなわち始皇帝と称した。中国皇帝は天・地・人の世を貫く唯一無二の絶対帝王であるという思想は始皇帝から始まる。
春秋戦国時代に確立された儒教は、人や物にはおのおのその本質があると考えるプラトン的イデア哲学である。神を人格神とするユダヤ、キリスト、イスラームのセム一神教と比較すれば、人の形を持たないので、儒教はまったく宗教の要件を満たさないように思われる。しかしそれはヨーロッパ的宗教観を基準とした場合である。実際には儒教は、地上の全存在は、神的存在(あるいは神的意志)から固有の本質を与えられていると考える点で宗教でもある。そして天命(神的意志)を受けて地上を統べるのが王である。天命が絶対なら王もまた絶対であり、唯一無二だ。儒教は天命に基づく有本質論という思想・宗教原理を創出したが、それを現実政治システムとして確立したのが始皇帝だった。
ただ秦は始皇帝陵造営を含む苛政でわずか十五年で滅んでしまった。儒者が説いた、天意を失えば革命(天命を革める)は可なりという易姓革命が起こったのである。楚の将軍の息子・項羽と農民の子・劉邦が争い、劉邦が勝って漢を樹立して高祖として即位した。王朝が成立すると帝位は世襲されるが、天命は貴種に下るとは限らない。低い出自の子でも皇帝になり得る。つまり帝位は家柄や血筋では保証されない。また帝位は天命だが、天命が去れば王朝は魂のない抜け殻となる。新王朝が必ずしも旧王朝の都を引き継がず、栄華を極めた歴代皇帝の陵墓などがうち捨てられ、やがて忘れ去られてしまう理由である。
始皇帝による初めての中国全土統一や、後漢末から三国時代に起こったいわゆる『三国志』時代に比べると、漢帝国は少し地味な印象がある。ただ始皇帝の、中国は天命を受けた唯一の皇帝によって統治されるという思想と政治システムを確固たるものにしたのは、前漢・後漢と四百年以上続いた漢帝国である。前漢第七代皇帝・武帝時代には司馬遷が出て、初めての通史『史記』を著した。強力な中国的中央集権官僚システムを作り上げたのは漢帝国である。また前漢時代には貨幣経済が帝国内に深く浸透した。(後編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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