高嶋秋穂さんの詩誌時評『歌誌』『No.038 特集「短歌の条件-感動はどこにあるのか」(角川短歌 2017年04月号)』をアップしましたぁ。王朝物語に一首だけ飛びきりいい和歌ができて、それを使って貴公子の心を射止めようとする女房の話があります。平安王朝時代には、一首で短歌の高みを得られればそれで十分という意識があったわけです。ただ現代は違います。多作が求められる。感動の質も自ずから変わってくるということです。
必然として、現代では短歌は日常短歌に向かってゆくことになります。そこのところがけっこう微妙で、高嶋さんは『多作を前提とすればなんらかの形で日常短歌の方法を体得するのは必須です。一方で日常短歌手法(慣れ)は作家の実人生での感情の高みを日常へ押し戻す方向に作用すると思います。近現代歌人が多作と引き換えに失うものもあるということです。バランスの取り方が意外と難しい』と批評しておられます。またこの傾向は一種の短歌前衛(変革)運動である口語短歌でも同じです。
真摯な口語短歌歌人には現在の歌壇を埋め尽くしている〝実感写生短歌的作風〟を変えたいという指向があると思います。この指向は技術的な変革に向かうか観念的操作に向かうことになります。いずれの場合でも短歌という定型文学の楔が問題になります。俳句より自由度は高いですが短歌も形式文学であり制約がある。かつての現代詩のような高度な技術・観念的操作を行うことはできません。また前衛短歌が強い拠り所にした社会共通の批判意識も現代では見当たりません。そのため極私を表現基板にせざるを得ない。極私的日常表現が極度に難解になり短歌表現と乖離してしまわないラインを探ってゆくことになります。勢いその表現は一般読者には短歌内のトリビアルな差異に写る。ここからどうやって絶対的違いを見せつけてゆくのかは難しい課題です。
高嶋秋穂
日常を歌ってホロリとさせるとかクスリと笑わせることはできますが、一般読者が短歌芸術に求める深みはなかなか出ない。『いや、そんなものはもうぜんぜん必要ないんだ』と切り捨てることはできますが、そうすると短歌がトリビアルな修辞に流れてしまうことになる。どこかで一首の高みを模索しなければならないわけですが、日常に埋もれた精神と肉体をどのポイントで突出させるのか、難しいところです。
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.038 特集「短歌の条件-感動はどこにあるのか」(角川短歌 2017年04月号)』 ■
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