昨年九月に刊行された安井浩司の新句集『空(くう)なる芭蕉(ばしよう)』は、安井がここ二十数年に亘って書き継いでいる「句篇」の一部をなすが、それは後記の一文からも明らかである。
「詩篇」のエズラ・パウンドが、ジョイス宛の書簡の中で、「既存のジャンルのどれにも属さない、終りのない詩にとりかかっている」と書き送っている。パウンドほど意図的ではないにしても、『汝と我』(一九八八年刊)より始められたすべてが、その〈終りのない詩〉の神話的展開に、わが運命として深く通底するものを感じられてならない。
(『空なる芭蕉』後記より)
「句篇」は、『空なる芭蕉』以前の作品数だけを比べても、安井浩司の全俳句作品の既に半分を超えており、ライフワークといっても過言ではない。後記にあるように第十句集『汝と我』(一九八八年)から始まった「句篇」は、第十二句集『四大にあらず』(一九九八年)を経て、第十三句集『句篇』(二〇〇三年)に至り、「〝句篇・全〟とでも呼びたき三部作の仕上げのつもりである(『句篇』後記)」としてひとまずの完結をみたが、『句篇』に付された「終りなり わが始めなり」という副題に導かれて、前作の第十四句集『山毛欅林と創造』(二〇〇七年)へと再び書き継がれ、今回の第十五句集『空なる芭蕉』を加えるに、およそ五千句からなる文字通り〈終りのない詩〉の様相を呈するに至っている。
当たり前のことだが、安井の「句篇」は俳句によって成り立っている。もとより俳句は一句一句がそれぞれ完結した作品なわけで、その集合体である「句篇」には句の数だけの完結した多様な世界が犇めき合っている。「句篇」を俳句群として捉えれば、その様相は多様を通り越して混沌であるともいえるが、それこそ安井が創出しようとする世界そのものであることは間違いない。
『空なる芭蕉』には前作以後のおよそ三年間で書かれた千句近い作品が収録されているが、その膨大な作品群はそれまでの句集同様に、多様で混沌とした世界像を呈し、一つのイメージに収斂することはない。しかし『空なる芭蕉』には、ある共通したベクトルを持った句が散見される。その共通したベクトルとは「上昇」のことである。
あざみ原座れる者のみ雲に乗り
睡蓮図見あげる産院天井に
空の端に願えば泛かぶ錦蛇
草屋根の蛇仰ぎわれ生きんとす
真山に人のぼり夜は蛇(へみ)のぼり
炊煙(けむ)上がる飛騨の隠(なばり)の妻なれや
地を棄てて空(くう)に抛りたる葛の花
「仰ぎ見て宇宙を終(つく)す」笹の上
天食のてんぷら泛かぶ春の雲
天めざす九段山はや萱の秋
「上昇」には物質の移動だけでなく視線の移動も含まれる。また、その反対方向のベクトル、つまり「下降」のベクトルを共有する句も同様に散見される。
昼星の落下をかわして老農は
雁の空落ちくるものを身籠らん
沖の春逆さ船もう沈まずに
山桐の白花夏衆(げしゆう)の降るごとく
白雲は葛巻きの木を下り来たり
絶壁の捨身(しやしん)の蛇こそ戴かん
梅雨の原空中から貝漁(すなど)るや
野麦涯見や一流れの色旗を
初雷下る神学生らのラグビイに
信天翁(アルバトロス)は落つ海草の褥まで
「上昇」の終点も「下降」の始点も、どちらも「天」と接している。つまり前者の句は「昇天」しつつある風景を語り、後者の句は「天」から見下ろした風景を語っている。『空なる芭蕉』の句はその多くが「天」を意識して作られているといえる。そもそも句集名にしても、「空=くう」とは「空虚」なる観念という意味のほか、具体的には「そら=天空」を指していると考えられる。また句集の最終章の「天類」という題名は、「人類」に対する「天の類」を意味する安井の造語である。
このように『空なる芭蕉』において安井は、「天」を俳句のモチーフに取り入れようとしている。「天」を描いた俳句によって、「終りのない詩」が描いてきた混沌とした世界に、神話的な空間をもたらそうとしている。
神話ではあらゆる物質に生命が宿るように、『空なる芭蕉』では「木」そのものが、「天」へ昇る旅の伴侶であるかのように語られる。その中でも「天」高く聳え立つ「高木」が読み込まれた俳句を抄出する。
樟の花天人修羅のいま静か
空中から咬む蛇もあれ朴の花
千年の子縛りの石樫の下
頂かん橡の一葉の天毒を
上の蛇下の日雀が樫の枝(え)に
大穴の真上か春の諏訪神社
高楡の天使の尻をはやす子ら
鵼遊ぶ糸杉いずれ墓碑の材(き)に
泰山木や神昇降の時刻(とき)確か
宇宙鍋支えたるまま蝦夷樅樹
「木」は、天に向ってただひたすら伸張し続けるその長大な生命時間から、日常の時間概念をあっさりと飛び越えてしまう。高木ともなれば大地にしっかりと根を張ったまま何百年も微動だにせず、時とともに転変する世界を黙って眺め続けている。その時を越える姿こそ、「〈終りのない詩〉の神話的展開」そのものといえよう。
また「木」とは、先に引用した後記に登場する『詩篇』の作者エズラ・パウンドへのオマージュとも読める。パウンドはその初期のイマジズム運動の中で、自らを「木」になぞらえた短詩を数多く書いており、彼の「木」への変身願望をギリシャ神話から論じた研究論文もある。
安井は「句篇」において、俳句の一句一句それぞれが表現する単一の世界ではなく、俳句群としての集合体が構築する思想として、いうなれば俳句による叙事詩を試みてきたといってもよい。こういった試みの動機として、現代の叙事詩であるパウンドの『詩篇』が意識されていると考えられよう。さらに、「木」は安井の生家が材木商であったことを思えば、安井にとって幼少の頃から身近な存在であったはずで、安井自らが「木」となって時を越えようとする願望をそこに読み取ることもできるだろう。
『空なる芭蕉』の最終章「天類」では、「天」なる存在の、想像され得るあらゆる姿が、安井自身による造語や宗教(仏教)の用語を駆使して語られる。
月光や漂う宇宙母(ぼ)あおむけに
布(にの)雲や妻も昇らん蛇も昇らん
冬銀河棺橇に眼をひらく人
天山は穏やかにきよう黒羊
高野箒で空中蛇を落とさんと
晋陀山の猿とびかかる木星に
網高く橡葉隠れの魚獲らん
燕舞う宙に初めの胎(はら)づくり
天水を先取りせんと葛の蔓
「天の高さは草のごとし」と語る墓
「天類」から十句抄出する。「天」を目指すように、あるいは「天」から見下ろすように世界を移動してきた『空なる芭蕉』の俳句群は、最終章の「天類」という旅の終着点に至り、いよいよ「天」そのものを語り始める。その語りは造語や仏教用語を駆使しつつも、「天」を観念的に描くのではなく、眼前に広がる現実の風景として、形はもちろん手触りも匂いもある現実の世界として、あたかも実在するかのように描いている。その風景は想像されたというよりも、むしろ幻視されたといったほうが正しいほど確かな輪郭をもっている。
そうした生きた風景が数多く犇めき合っている世界は、俳句形式によってしか描き得ない。そしてそういった俳句が積み重なって始めて、「天類」全体が神話的空間へと様変わりする。それはあくまでも神話的な空間であり神話ではない。そうした意味で、ここ「天類」まで辿り着いた「句篇」は、神話でも叙事詩でもない、まさに〈終りのない詩〉としかいいようのない形式をもって、「天=神」を語る日本独自の詩となって姿を現す。それは、あらかじめ「句篇」の全体像から捻出した一句一句を積み上げるのではなく、一句一世界の創造をかけて創作した一句一句が、群れなし集まることで自ずと形を現した「句篇・全」という一作品に他ならない。
田沼泰彦
(『夏夷 leaflet』第9号 2011年5月11日刊 より転載)
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