ベテ・ギョルギス ラリベラの岩窟教会群
イコンに彫られた聖人は黒人である。当たり前のようだがそう簡単ではない面もある。フィリピンには十六世紀末にキリスト教が伝わったので、初期のサント(聖像)はヨーロッパ人の姿形をしている。東洋人っぽい聖像が作られ始めるのは、キリスト教が完全に根付いた十九世紀頃からだ。
キリストがナザレ人(ユダヤ人)としてはっきり認識されるのは近世以降のことである。ヨーロッパの宣教師から洗礼を受けた初期教徒は別だが、人類の原罪を負って磔刑に処せられたキリストは、文字も読めない人々の間で次第に内在化されてゆく。だからいつのまにかその図像(イコン)が土地土地でローカライズされるのだ。ものすごく古い年紀を持つイコンがないのではっきりとしたことは言えないが、エチオピアにキリスト教が伝わったのは古く、イコンにはかなり早い時期から黒人が描かれていた可能性が高い。
またなぜ加工しにくい石製なのだろうと思う。エチオピアは高地が多いがアフリカの中では比較的穏やかな気候である。亜熱帯のように大木は育ちにくいが、樹木が貴重な砂漠乾燥地帯ではない。実際、今現在エチオピアでスーブニールとして盛んに作られている同じ様式のイコンは木製で彩色が施してある。小型のイコンだからエチオピアでも木は手に入りやすいだろうし制作も簡単だ。つまり、恐らくだが木製イコンよりも石製イコンの方が古い。石製イコンの方が格が高いと言えるかもしれない。
さらに石製、木製を問わず、エチオピアイコンには観音開きの扉がついている物が多い。いわゆる聖龕様式である。聖龕のイコンは扉を開くと磔刑のキリスト像や聖母子像などが現れる物が多い。ただ審美的効果を除けば、聖龕は蓋のある薄い箱だと捉えることもできる。この様式はどこかで古代ユダヤ教の聖櫃に繋がっている。聖櫃の起源はモーセが神から授かった十戒の石板を納めた箱である。旧約聖書に「エホバ、シナイ山にてモーセに語ることを終えたまいしとき、律法の板二枚をモーセに賜う。これは石の板にして神が手をもて書したまいしものなり」(関根正雄・木下順治訳)とある。神が人間に与えたもうた契約の書であることから、それを納めた箱を正教会では約櫃とも呼ぶ。
旧約聖書には十戒の石板を入れるための聖櫃の規定がちゃんとある。「神の櫃についての規定」で「彼ら合歓木をもて櫃を作るべし。その長さは二キュビト半、その濶は一キュビト半、その高さは一キュビト半なるべし。汝純金をもてこれを蔽うべし」云々と細かく指示が為されている。また「汝贖罪所を櫃の上に置え、また我が汝に与うる律法を櫃のうちに蔵むべし」と聖櫃を置く場所などについても厳密な規定がある。
モーセの死後、古代統一イスラエル王国のソロモン王(紀元前九三一年没)の時代になると、十戒の石板は櫃ごとエルサレムの神殿(ソロモン神殿)に安置されるようになった。しかしイスラエル王国は、北イスラエルと南ユダ王国に分裂してしまう。この混乱の中でも聖櫃はレビ人によって守られたが、その後、行方がわからなくなってしまった。旧約聖書の記述を辿ると、おおむねヨシュア王(紀元前六〇九年没)の時代を境に姿を消したようだ。ところがエチオピアでは石板は櫃ごとエチオピアに運ばれ、現在まで大切に守り受け継がれていると信じられている。
成立は十三、四世紀頃と考えられているが、エチオピアには『ケブラ・ナガスト』という神話叙事詩がある。旧約聖書にはソロモン王の知恵を伝え聞いて、地の果てから南の女王がやってきたという記述がある。この女王はシバの女王と呼ばれる。シバはアラビアを指すとされるが、『ケブラ・ナガスト』ではそれはエチオピアのマケダ女王であり、帰国してからソロモン王の子供を産んだ。メネリク一世で、彼がエチオピア最初の王となった。成人したメネリク一世は父・ソロモン王を訪ねるが、帰国に際して石板の入った聖櫃をエチオピアに持ち帰ったと『ケブラ・ナガスト』は言う。それが現在まで伝わっているのである。
よく知られているように、行方が分からなくなった聖櫃は、西側英語圏では〝The Lost Ark〟(失われた聖櫃)と呼ばれる。スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演の映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で、主人公のインディアナ・ジョーンズ教授がナチス・ドイツから奪い返そうとするのがLost Ark(失われた聖櫃)である。映画では聖櫃が発見されたのはエジプトの遺跡だが、生きた信仰として聖櫃が守られているエチオピアを舞台にするのを避けたのかもしれない。
旧約聖書も『ケブラ・ナガスト』も、史実の裏付けのない神話と言えば神話である。しかし十戒やキリストの実在を疑えばユダヤ教やキリスト教は成立しない。また神話がまったくの空想として書かれたとは考えにくい。そこには必ず何らかの現実の出来事があったはずである。
西暦一世紀にフラウィウス・ヨセフスによって書かれた『ユダヤ古代誌』には、エチオピアの女王がソロモン王を訪ねたという記述がある。古代からイスラエル王国とエチオピアは交流していた。『ケブラ・ナガスト』が書かれる背景はあったと考えるのが自然だろう。考古学的発掘によって十戒が刻まれた石板が見つかる可能性だって皆無ではない。それがオリジナルかどうか、人智を越えた力を持つかどうかはまた別問題である。旧約聖書を読むと十戒のコピーは数多く作られている。
シオンの聖マリア教会
メネリク一世がエルサレムから持ち帰った聖櫃は、エチオピアの古都・アクスムにあるシオンの聖マリア教会に安置されている。アクスム遺跡は紀元前五千年に遡ることができるほど古いが、シオンの聖マリア教会は四世紀頃に建てられ、その後、イスラーム軍の侵攻の際に破壊された。現在の教会は十七世紀の再建である。シオンはエルサレムのことだから、聖櫃を安置するにふさわしい名前である。言うまでもなくエルサレムのソロモン神殿に倣ったのである。またアクスムは高さ二十四メートルにもなる石製のオベリスク(記念碑)でも有名である。エチオピア人は古代から高い石造技術を持っていた。
このシオンの聖マリア教会にある聖櫃は、そのコピーが作られエチオピア各地の教会に安置されている。もちろんどの教会でも至聖所内に置かれ、信者でも見ることはできない。エチオピアの教会は聖櫃を安置し守るための箱だとも言える。
ベテ・ギョルギア(聖ゲオルギオス聖堂) ラリベラの岩窟教会群
アクスムからさほど離れていないラリベラには、世界遺産に登録された岩窟教会群がある。エチオピアで最も有名な遺跡だろう。教会群は十一の聖堂と礼拝堂から構成されている。作られたのは十二世紀から十三世紀。この教会群の建造法は世界に類を見ない。巨大な岩を下へ下へと刳り抜いて作られているのだ。だから信徒たちは、教会に礼拝する時は地下深くまで降りてゆかなければならない。
上から見ると十字架の形に切り出されているが、ラリベラの岩窟教会群の聖堂は箱形である。ノアの箱船の意匠ではないかと言う識者もいる。文書類が残っていないので明確な建造意図はわからない。ただこの時期に建国神話叙事詩『ケブラ・ナガスト』も作られているので、中世エチオピアでキリスト教を巡る大きな精神的盛り上がりがあったのだろう。またエチオピア教会建築やイコンには、石と箱のイメージが色濃く投影されている。
エチオピア正教聖龕型イコン(著者蔵)
四方の模様
エチオピア 20世紀初頭か 石に彫刻 四辺5.6×高16.5センチ(いずれも最大値)
同 扉の内部①
同 扉の内部②
エチオピアイコンには立体型のものもある。聖櫃は狭義には十戒を納めた箱で、その後ユダヤ教の聖典トーラーを入れる箱の意味にもなった。大型の箱だが、正教では聖人の不朽体(遺体)納める箱のことを聖龕と呼ぶ。実在の聖人だけでなく、聖母マリアなどの聖龕として作られた小型のものもある。ちょっと仏教の舎利塔を思い起こさせる。
エチオピアの聖龕型イコンは長方形の立体で、先端に十字架が彫られた塔がある。扉は二枚で、表側や扉裏には守護天使が彫られている。中に彫り出されているのは男性の上半身の立像だ。扉のどちからでも見ることができるように前後に顔が付いている。この男性は明らかにキリストではない。王かそれに準ずる貴人だろう。正教的な意味の聖龕ということになる。全体に彫りはとても細かく、比較的柔らかい滑石とはいえ時間と手間がかかっている。(下編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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