アムスク遺跡に建つオベリスク(記念碑)
こういった石製イコンはエチオピア以外でほぼ見られない。石と箱にこだわるのはエチオピアのアイデンティティがエルサレムから持ち帰られた聖櫃にあるからだ。ただエチオピアはキリスト教国である。にもかかわらず十戒の石板が納められた櫃を至宝としている。エチオピア人がそれになんら違和感を覚えないのは、古い時代にユダヤ教とキリスト教が習合されたからだろう。『ケブラ・ナガスト』が、ソロモン宮殿からこの地に聖櫃がもたらされたと伝えるのは、エチオピアにユダヤ教が根付いていたからである。
エチオピアで歴史的裏付けを持つ最初の王朝はアムスク王国で、西暦三二七年の年紀を持つ石碑(エザナ王の石碑)が発見されている。アムスク王国時代に、今も聖櫃が安置されるシオンの聖マリア教会が建設されたので、この時期にエチオピアはキリスト教に改宗したのだろう。またアムスク遺跡は広大な面積を持ち、オベリスク(記念碑)を含む巨大建造物も作られているから、キリスト教改宗と前後して大きな文化・経済的盛り上がりがあったのだと知れる。コンスタンティヌス一世によるローマ帝国のキリスト教改宗は三一三年だから、最初期のキリスト教国である。
またローマのキリスト教改宗の時期には、初期キリスト教会はキリストの神性と人性を巡って大きく揺らいでいた。キリストは人から神になったのか、それとも神性しかないのか、聖母マリアの位置付けは? 精霊はどう解釈すればよいのかといった問題で紛糾していたのだ。この問題を解決するために、コンスタンティヌス一世の命で三二五年にニカイア会議が開かれ教義の統一が図られた。この会議で父と子と精霊の三位一体が公式教義とされた。同時にそれを是としない諸派は異端として排斥されるようになった。エチオピア正教会もその一つということになる。ニカイア会議で追放されたアリウス派のキリスト教徒が、新天地を求めて大挙してエチオピアに移住した可能性もある。
イングランド国教会を見ればわかるが、ローマ・カトリックと諸派の違いは必ずしも教義的なものではない。国家と民族のアイデンティティに深く関わっていることが多い。エチオピア正教も同様である。セム一神教文化圏において、キリスト教の成立は革命だった。それまでユダヤ人の占有だった神がすべての民族に解放された。比喩的に言えば水が葡萄酒に変わった。ユダヤ教徒しか飲めなかった葡萄酒を、誰でも飲めるようになったのである。
キリスト教国になっても、エチオピア人がユダヤ教の秘宝である十戒の聖櫃をあっさり受け継いだのは、彼らの中に宗派を超えた神の一貫性があるからだろう。アフリカでキリスト教徒が多いのはエジプト(コプト派)とエチオピアくらいである。この二つの国は古代から文字を持っている。そのほかのエリアはほぼ無文字文化だ。エチオピアでは聖書がゲーズ語に翻訳された。エチオピア正教の聖典は今もゲーズ語だが、話し言葉としてはもう使われていないラテン語と同じ表記文字である。
アフリカで文字を持つ国(民族)だけにキリスト教が浸透したことは、この宗教が言語的訴求性を持っていることを示唆している。その高い審美性を含む教義を、文字として受容できる民族がキリスト教を受け入れたのだ。ただその後、アラビアに近いアフリカ上部はイスラーム化され、赤道以下は多神教の原始的なアニミズム宗教を保持し続けた。エチオピアはイスラームとアニミズムエリアのほぼ中間に位置している。エチオピア石造建築やイコンはアニミズム文化をもその底流に持っている。
エチオピア正教十字架(著者蔵)
エチオピア 20世紀初頭か 銀製 縦6.4×横3.8×本体厚0.2センチ(いずれも最大値)
このシルバー製のクロスも、情けないことに制作年代がわからない。ただ彫りが摩耗しているので最近作られたものではないだろう。クロスの模様は組紐文である。この組紐文はソロモンの結び目(組紐)と呼ばれる。その名の通り、古代から存在している古い模様だ。ヨーロッパで古代文化を築いたケルト人の石造遺物などにも見られる。エチオピアには古代から様々な文化が流入していた。
組紐文は迷宮であり、神や、時には悪魔を封じ込める意図もあると言われる。だから神殿やイコンに頻繁に組紐文が表れる。耐久性の高い石や貴金属に組紐文が使われるのもそのためだ。組紐文が描かれた神殿や教会は神聖な場所であり、その模様によって神性が封じ込められている。箱あるいは櫃である。極論を言えばエチオピアの聖マリア教会に安置されている聖櫃の中に、本当にモーセがエホバから賜った、神の手によって書かれた十戒の石板が納められているのかどうかは大きな問題ではない。ただ箱(櫃)がなければ神は宿らない。
小生は、およそ八年の間、アフリカ東海岸、アビシニア、ハラル、ダンカリ、ソマルの国々を旅行し、フランス通商事業に貢献して参った者であります。小生の信用ならびに行動一般につきましては、小生の寄留地たるアデン市駐在のフランス領事殿にお問い合わせくだされば結構と存じます。
小生は、ヨーロッパ諸国ならびにあらゆるキリスト教政権に対して友好的なショア(南アビシニア)の王メネリク王と、取引致しておりますごく少数のフランス商人の一人として、オボク海岸から約七百キロメートルへただるこの国に対し、官庁宛の請願書に記載の工業事業を確立致したい所存であります。
しかしながら、フランスの保護管轄下にあるアフリカ東海岸におきましては、兵器および軍需品の通商は禁じられております。それ故、同封の官庁宛の手紙により、そこに記載の材料ならびに器具を、隊商の編成(この商品はすべて駱駝の背にのせて砂漠を横断することになりますので)に要する時日以上に遅延することなく、右記のオボク海岸地域を免税通過し得る許可を申請致そうとする次第であります。
(アルチュール・ランボー アデン県ヴゥジェ郡出代議士ファゴ宛書簡 アデン 一八八七年十二月十五日)
『地獄の季節』『イルミナシオン』などで知られるフランス象徴主義を代表する詩人、アルチュール・ランボー(一八五四~九一年)は、二十一歳頃に筆を折り、その後は中東やアフリカ東部を転々と移動しながら武器商人として暮らした。手紙にあるアビシニアはエチオピアのことである。一八八六年、三十二歳の時にはエチオピアのハラールに長期滞在した。ランボーは、エチオピア建国の祖であるメネリク一世の名前を受け継いだメネリク二世の武器商人ともなった。メネリク二世は第一次エチオピア戦争でイタリア王国を破り、アフリカの中でほぼ唯一の独立を保ったエチオピアの偉人である。
ただランボーとメネリク二世に深い繋がりはない。彼は当時のヨーロッパ帝国主義国家の植民地政策を不器用にかいくぐりながら、自分の利益のために奔走したに過ぎない。それはメネリク二世も同じである。彼はランボーが詩人だったことなど知らなかったはずである。メネリクは武器商人の一人としてランボーを使い、平然と彼を裏切ったりしている。当時の手紙を読むと、ランボーはメネリクの不払いをなんとか回収しようと奮闘している。
二十世紀後半まで影響を及ぼした偉大なサンボリストとして、ランボーの書き物や人生は重箱の隅をつつくような細かさで研究されている。しかしランボー全集を通読した者は奇妙な気持ちにとらわれる。後半生のランボーは完全に文学を捨てた。ちょっと前までフランスのサロンで文学者たちと、浮世離れした議論に耽っていた気配はアフリカ時代には微塵もない。なぜかと問えば「理由などない」と彼は答えるだろう。完全な断絶がある。
ただランボーが、ヨーロッパ、あるいはフランスの文学サロンの雰囲気を嫌ってアフリカ行きを決めたのは確かである。エチオピアに縁があったのもさしたる理由はない。またこの国にモーセの十戒の石板があると聞いても、まったく興味を示さなかったろう。ランボーにとってアフリカは文化果てる辺境の地だった。だから彼はそこに行く必要があった。
ランボーの姿が消えていった辺境から私たちの現代が始まる。現代に絶対は存在せず、それゆえ絶対を喪失することもない。中心は辺境となり、渦を巻くように辺境がひとときの中心になる。それが私たちの新たなロマンであり、エグゾティズムである。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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