女性向けで、中原淳一の表紙。手に取るのに、なかなか気恥ずかしいものがある。が、「山と自然を愛でる文学――山のパンセによせて」という特集が夏休みっぽい。愛でる、というのはいまいち、山の厳しさにそぐわないが。
山の文学、というのは確かにある。海の文学というのは難しくて、エクリチュール・フェミニンといった観念か、さもなくば一種の幻想小説になろう。水の中では普通、人は生きていけないからだ。が、山では曲がりなりにも歩き回れる。
この曲がりなりにも、というのがミソで、平地に比べると困難がある。なおかつ見通しが悪い。そこを無理にでも計画的に敢行する。それ自体、たいへん小説的である。
山岳小説の読み方は、だからこれによって二通りに分かれる。リアルな困難をともなう山岳へ、普段から出かけている人々の読み方。彼らは困難を追体験し、共感を覚え、読むことによって再び山へ誘われる。
一方で、行くことを前提としない読み方もある。インドア派のアウトドア読書ということだ。彼らには、その本そのものが山であり、言葉が木々とその葉である。安楽椅子から動かないままで、風や空気や陽射しや雨の冷たさまでも感じられる名文はしかし、多くはない。
佐川光晴と谷村志穂のエッセイは山岳文学について、これらインドア派とアウトドア派のそれぞれに呼応している。谷村志穂は実際に登山をする派である。となると「山のパンセ」には程遠くなる、と述べている。
が、果たしてそうか。自身も言うとおりに、何も考えない状態になる。酸素濃度のせいもあるにせよ、その状態に陥るために人は山に登るのだとすれば。空っぽになった頭に満たされた “ 空虚 ” こそが「山のパンセ」だろう。
佐川光晴による串田孫一の文章についてのエッセイ、そして串田の「山のパンセ」三篇がやはり興味深い。佐川は自身が山に登ることを前提としない。登らないことを前提として、串田の文章を味わう。となれば、それ自体が「登山」だから、一歩ずつ踏みしめるように読むことになる。
「山のパンセ」は確かに、それに堪える名文だ。平仮名がちの地の文は、山の透明な空気感を伝えるようだ。そして柔らかい印象の文章であっても緊張感が漂い、平地にはない「山」のただならなさをも示している。
日本人、日本文学にとっての「山」はしかし、やはり標高3000m級止まりなのか。この特集では紹介されない山岳小説の最高傑作は、夢枕獏の『神々の山嶺』だろうが、エベレスト南西壁無酸素単独登頂といったカタカナ+漢字の並びは、あまり日本文学的ではないのかもしれない。平仮名を国風とする日本は、山もまた、なだらかなものなのだろう。
池田浩
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