このエセーで以前、市場動向を無視したファインアートのような陶磁器は存在しないと書いたが、まあ何事にも例外はあります。中国では遅くとも11世紀の北宋時代頃から、宮廷が窯を指定して好みの作品を焼かせる官窯があった。官窯が正式な皇帝専用窯として制度化されるのは明時代(14世紀)以降である。ただ北宋以前から貢磁といって、宮廷からの注文品を献納していた窯があったので、実態としては古い時代から官窯に近い窯があったと考えられている。
これらの注文品は、宮廷内で使われたのはもちろん、王墓の副葬品や、臣下に与える品物としても使用された。同時代の民窯作品とは一線を画した精緻な作りで、採算や実用を無視した作品も少なくない。また副葬品や皇帝からの下賜品を日常生活で使うはずもなく、それらは一種の鑑賞陶器だった。だから正確には中国官窯などを除くほとんどの陶磁器は実用と売買を目的にしていて、その作風は市場の嗜好に大きく左右されると言い直した方がいいだろう。
また陶磁器コレクターの心の中にも、実用性を度外視した鑑賞陶器への好みは存在する。高い値段で買ったから日常的には使わないという物もあるだろうが、縄文土器などは現代生活では実用に向かない。飾って楽しむ物である。僕は古い陶磁器を日常的に使う方だが、やはり鑑賞目的で買うことがある。土器類を除けばその代表は青磁だ。日本の茶道では、青磁は花入れや菓子鉢として使うのが一般的である。茶碗や食器には向かないのである。青磁は熱を伝えやすい。また釉薬の表面に貫入(細かいヒビ割れ)が入っている物が多いので、食べ物を盛るとすぐに汚れてしまうのである。
青磁の魅力はなんといってもその色である。中国では最高の青磁の色を「雨過天青」と呼ぶ。10世紀の五代時代に後周の皇帝・柴世宗が、「雨過天青雲破処、諸将顔色作将来」と命じて柴窯で焼かせた青磁がその最初だと言われる。確実に柴窯で焼かれたといえる作品はまだ特定されていないが、一般的には五代直後の北宋時代(960~1127年)に中国北部の汝窯で焼かれた作品が最高の青磁だと言われている。上品な薄い水色で、貫入が器体の全面に入っている。確かに雨が過ぎて、まだ少し水分が残った空が青く晴れ渡った時の色を思わせる。ただ汝窯青磁は完全に皇帝からの注文品だったようで、その数は恐ろしく少ない。完品は世界中探しても100点くらいしか残っていないだろう。
【参考図版01】汝窯青磁香炉 口径23.8センチ 北宋時代後期
中国の五代十国から北宋時代は朝鮮では高麗王朝(935~1392年)初期に当たるが、中国でのめざましい青磁製作技術の発達を受けて、高麗でも青磁を焼くようになった。むしろ高麗時代には青磁しか焼いていないと言ってもいい。高麗の前の統一新羅時代は器形は同時代の唐の影響を受けていたが、釉薬もかけない地味な黒色の焼き締め陶ばかり作っていた。それがいきなり鮮やかな青磁を作るようになったのである。
高麗青磁の優品も中国青磁に負けないくらい美しい。朝鮮では最高の青磁の色を「翡色」(ひしょく)と呼ぶ。カワセミの羽の色に似ているからだとも、中国で珍重する玉(ぎょく)のヒスイの色だからだとも言われる(カワセミもヒスイも漢字表記は「翡翠」)。中国青磁の色は時代や窯によって様々である。雨過天青色を想起させるのは北宋から南宋にかけて焼かれた青磁だけで、その前後は黄色やオリーブグリーンの作品が多い。高麗翡色青磁の方が最後まで全盛期の中国青磁の色に近かったように思う。
少し専門的な話になるが、日本と中国、朝鮮では焼物の分類方法が異なる。日本では焼物を土器、炻器、陶器、磁器に分類するのが一般的である。しかし中国では基本的に土器と瓷器(読みは「じき」で日本語表記では「磁器」)の区分しかない。朝鮮もほぼ同様である。焼物の焼成温度から言えば、中国・朝鮮の分類方法は正しい。土器は700~800度の低温で焼く。炻器、陶器はばらつきがあり、1100~1300度の間である。磁器はおおむね1300度である。もちろん炻器・陶器と磁器は質的に大きく異なる。炻器・陶器は土を焼き固めた物であり、磁器はカオリン石を砕いて焼いた物である。前者は光を通さず器体も厚い。後者は光を通し薄く作ることができる。しかし焼成温度にはあまり差はなく、強度もほとんど変わらない。むしろ炻器・陶器の方が割れにくい場合もある。つまり日本では質感で焼物を区分し、中国・朝鮮では焼成温度で分類している。
従って中国・韓国の陶磁史のほとんどは磁器の歴史である。土器はほぼ先史時代にしか焼かれていないからである。青磁も当然磁器なのだが、中国では後漢時代(25~220年)に初めて青磁が焼かれたと考えられている。日本人の目から見ると施釉陶器にしか見えないのだが、これも製作方法から言えば正しい分類である。焼物には酸化炎と還元炎の2種類の焼き方がある。酸化炎では窯の中にたっぷり酸素を残して焼く。この方法だと鉄分は赤茶色に発色する。還元炎では窯の中の温度をどんどん上げ、酸欠状態にする。そうすると釉薬の中に含まれていた微量の鉄分が還元作用を受け、青く発色し始める。青磁は還元炎で焼く。つまりたとえ青く発色していなくても、還元炎で焼かれた物は青磁(初期青磁)なのである。
越州窯青磁茶碗 口径14.3×高さ8.2センチ 9世紀後半(著者蔵)
写真は僕が持っている数少ない中国陶の一つで、唐時代末期(9世紀後半)に作られた越州窯の青磁茶碗である。口の周りに唐草模様が陰刻で彫られ、高台には「玄」の文字が墨書されている。日本人好みの無骨な形だが、中国的に言えば民窯で焼かれた取るに足らない雑器である。井戸茶碗や珠光青磁も同様だが、日本人は中国本土では見向きもされない雑器ばかりを愛してきた。全体に黄色がかった色をしているが、ところどころ青く発色しているのがわかると思う。これが器体全体になめらかに青く発色してくれれば、僕たちが見慣れている青磁ができあがる。北宋時代を青磁の頂点とすれば、中国では焼物で鮮やかな青を発色させるのに、約千年かかったことになる。
中国陶には初期から一貫して土から離れようとする強い意志が働いていた。中国は多民族・多言語国家だが、その広大な国土はたった一人の天子によって治められるべきだという共通認識を保持してきた。天子は家柄などには関係なく天命によって選ばれる。天命は絶対で無謬かつ明透である。当然天子にも、理念としては同様の属性が求められる。だから天子が使用する焼き物は、土から作ったことを感じさせない、天上の創造物を思わせる完璧な色と形を持っていなければならないのである。
中国はまた意味(表意文字)の国である。中国最初の漢字辞典である『説文解字』(100年頃成立)は、完璧な体系ではないが意味から漢字を説明している。「一」はすべての始まりであり、「三」は天、地、人の表意である。その真ん中を縦線で貫くのがただ一人の天子であり「王」である。これに点を加えれば「玉」になる。だから青磁が玉の、特に翡翠の色を意識しているという説明には説得力がある。金、銀は世界共通の財宝だが、中国はそれらよりも玉を珍重してきたのである。
中国は文物に完璧さを求め、日本は古代から続く文化混交の歴史を反映して、形なき形の中に微妙な美の均衡を探り当て、中心のない取り合わせによって美を表現しようとしてきた。お隣の朝鮮文化はというと、中国と日本の中間にある。朝鮮は近世に至るまで、圧倒的な中国文化の影響下にあった。朝鮮は中国の冊封(さくほう、儀礼的な君臣関係)を受け、正朔(せいさく、中国の元号・暦)を受け入れてきた。外交的には中国の臣下だが、内政的には独立国だった。朝鮮は高句麗、百済、新羅の三国時代(伽耶を加えて四国説もある)には、朝鮮人、中国人(漢人・満人)、倭人が入り混じった勢力争いを繰り広げていた。それが統一新羅によって初めて半島が一体化される。続く高麗時代は現在にまで続く朝鮮文化の揺籃期である。
日本では唐王朝の衰退を受けて、平安時代の寛平6年(907年)に遣唐使が廃止された。その後も頻繁に貿易船が行き来して文物は輸入されたが、中国・韓国との国交は室町時代になるまで開かれなかった。それが『源氏物語』や『古今和歌集』などの国風文化隆盛の一因になったのは間違いない。高麗王朝は日本とは逆で、初・中期は五代十国から北宋・南宋に変わる動乱に、中・後期は金から元王朝となる満民族の圧倒的な世界帝国の力に悩まされ続けた。高麗後期には元王朝に冊封国の義務を課され、元軍の先鋒として日本に出兵している(文永11年[1274年]、弘安4年[1281]年の元寇)。しかし高麗王朝は強大な中華帝国の力に苦しめられることで、独自の朝鮮文化を育んでいったのである。
高麗王朝の太祖(テジョ)は王健(ワンゴン)だが、彼は高句麗王の末裔を称した。史実の裏付けはないが、王健が統一新羅とは質的に異なる王朝を打ち立てようとした姿勢はうかがえる。高麗王朝は中国の科挙などの制度を受け入れたが、その一方で文班(文民)と武班(軍人)から構成される両班(ヤンパン)制度を確立している。両班は続く李朝時代には特権的支配階級となる。高麗時代にはまた儒教と仏教が隆盛した。儒教はその後の朝鮮の思想的根幹になるが、この時代に流入した仏教は禅宗だった。高麗青磁は北宋の影響で始まったが、禅宗の普及にともない喫茶の風習が盛んになった。それは初期の高麗青磁の形によく表れている。この時代に中国・韓国で使用された茶碗は日本の茶道の半円形の茶碗とは異なり、背の低い平碗が多かった。
高麗青磁陽刻平茶碗 口径16.9×高さ4.8センチ 12世紀前半(著者蔵)
高麗青磁流水魚紋平茶碗 口径16.4×高さ4.7センチ 12世紀中頃(著者蔵)
高麗青磁鸚鵡紋平茶碗 口径15.3×高さ4.7センチ(著者蔵)
手持ちの高麗青磁平碗から3点選んでみた。いずれも高麗初期の作品である。最初の陽刻平茶碗は内側と見込に陽刻がある。碗の底(高台)には、窯の中で台と器がくっつかないように石(硅石)を置いた跡(目跡)が3つある。硅石を器の支えにするのは初期の手法なので、11世紀前半に作られたと考えていいだろう。またこの器もそうなのだが、初期高麗青磁には細かな貫入(釉薬のひび割れ)が入っておらず、のっぺりとした肌の物が多い。高麗青磁は光宗・成宗年間(949~997年)に中国の呉越国から陶工が来て始まったと考えられている。後期になるほど貫入が入りやすくなる傾向があるので、10世紀末の初期青磁の時代から12世紀の盛期青磁の時代にかけて、もしかすると焼成技術の変化があったのかもしれない。
二つ目の流水魚紋平茶碗は同じく高台に硅石目があるが、少し時代が下がって12世紀中頃の作品ではないかと思われる。流水魚紋は中国青磁にも類例があるが、この作品は見込に陰陽を表す太極図が入っている。陰陽は『易教』(紀元前700年頃成立)で説かれた中国の古い思想で、儒教の根幹をなす思想ある。ただなぜ太極図が入っているのかはわからない。単なる模様かもしれないが、流水魚紋青磁には必ず太極図が入っているようだ。何か儒教と関わりのある器なのかもしれない。
三つ目の鸚鵡紋平茶碗は、高台に粘土混じりの砂がくっついているので13世紀前半の作だと推定される。円を描くように二羽の鸚鵡を描いた作例は中国にある。有名なものでは正倉院所蔵の中国の古い楽器である、『螺鈿紫檀阮咸』(らでんしたんのげんかん、8世紀)の背面に、螺鈿の二羽の鸚鵡がいる。しかし双鳥鸚鵡紋は中国陶ではあまり例がなく、高麗青磁にかなりの作例が残っている。なぜ高麗人が双鳥鸚鵡紋を好んだのかはわからない。一種の吉祥紋には違いないが様式は古いようだ。もしかすると日本でよく起こるように、高麗でも本家中国ではとっくに時代遅れになった様式(模様)が、なぜか残ってしまったのかもしれない。
【参考図版02】螺鈿紫檀阮咸 全長100.4×胴径39センチ 8世紀
青磁などいくらでもあるのに宋青磁や高麗青磁が人を惹き付けるのは、その色と形が独特だからである。焼物は時代精神を映し出す鏡である。宋の少し前の唐時代に中国は富み栄え、長安は国際商業都市として空前の繁栄を謳歌した。それを反映して唐時代の焼物はふっくらと丸く、外へ外へと張り出してゆくような豊満な姿をしている。宋時代になると焼物は求心的になる。内へ内へ閉じこもろうとするかのような単純でシャープな色と形に変わる。そこには契丹、遼、西夏、金と続くモンゴル族(満族)の脅威にさらされ、北宋から南宋へ遷都して、ついに元によって滅ぼされる宋王朝の人々の危機意識が反映されている。
高麗王朝にも同様のことが言える。高麗は前期は宋や金と藩国関係を取り結ぶことで、なんとか独立国として存続していた。それが後期になり元が圧倒的な力を持つようになると、高麗の自立性は著しく脅かされることになる。高麗王は元の皇女を妃として迎え、世子(冊封国の皇太子)の間は人質として元の朝廷で生活し、即位後も頻繁に元に入朝することを求められた。高麗王朝は元王朝との一体化を厳しく迫られていたのである。この間、高麗の焼物では青磁が、ほとんど青磁だけが作られ続けた。高麗青磁の翡色は、確かに当時の人々の精神状況を表していると思う。
高麗青磁陽刻唐草紋鉢 口径18.6×高さ8.2センチ 12世紀前半(著者蔵)
青磁は色と思っているせいか、僕の手元にある高麗青磁は、陽刻や線刻の物はあるが、すべて青一色の作品ばかりだ。13世紀に盛んに作られた象嵌青磁は一点もない。しかし並べてみると、なにか印刷用の色見本を見ているようだ。まだ翡色と呼べるような高麗青磁は入手できていない。しかし誰もが納得するような翡色や雨過天青色は存在するのだろうか。それはほんとうは一種の観念で、人々の心の中にしかないのではなかろうか。僕が青磁に惹かれるのは、この世にはほとんどあり得ないような翡色あるいは雨過天青色を、物の形として所有してみたいからだと思う。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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