人間の歴史感覚は不思議なものである。もちろん人間存在は有限で、長くてもせいぜい100年くらいしか生きられない。だから人間は、物心ついてから最長でも90年くらいの歴史しか実体験できないわけである。しかし心理的・肉体的な歴史感覚はもっと長いように思う。
僕は戦後の生まれで、1970年の大阪万博をピークとする高度経済成長期に少年時代を送った。順調な経済成長のせいで人々は前向きで、いろいろ問題はあったにせよ、明るい雰囲気の社会だったと思う。自分が生まれるほんの15年くらい前に戦争が終わったことは知っていたが、子供だったこともあってほとんど意識することはなかった。しかしテレビなどから流れる戦争の情報は、僕のような子供の心にも、徐々に積み重なり蓄積されていったのである。
僕が子供の頃には、8月15日の終戦の日や広島・長崎の原爆記念日には、今とは比べものにならないほど戦争の特番が組まれていた。テレビは朝から晩まで第二次世界大戦(太平洋戦争)の総括番組を流していた。それに僕の目は、確かに街角にひっそりと佇む傷痍軍人の姿を捉えていた。腕や足を失った人が旧日本軍の軍服を着て物乞いをしていた。失われた足を見せつけるように投げ出して路上に座ったその姿は、強い印象を残した。
そういった情報は、大人になって様々な戦争関係の本を読み、映画などを見るうちに、徐々に大系化されて一つのイメージにまとまっていった。僕は今では戦争前後の日本社会の状況が手に取るようにわかる。奇妙に思われるかもしれないが、第二次世界大戦の話になると、「あの時の空襲は怖かったねぇ」と言ってしまいそうになる。戦争は僕にとって、ほんの昨日の出来事のように感じられるのである。
このような歴史感覚は、意識すれば100年から200年くらい前の過去にも適用することができる。1868年の明治維新から現在までは約150年だが、そこからさらに50年ほどさかのぼった江戸の文化・文政時代の歴史感覚を身につけるのは、さほど難しいことではない。幕府や藩の公式資料だけでなく、庶民の生活を伝える文書や絵画が驚くほど大量に残されているからである。実際、多くの歴史小説作家は資料を読み込むことで幕末の歴史感覚を養っている。決定的に異なる習俗や価値観もあるが、幕末の人間の心理は本質的には現代人とほとんど変わらない。
ではこのような歴史感覚で、日本の歴史をどこまでさかのぼることができるのだろうか。江戸の初期から中期にあたる元禄時代になると、もう資料が不足してその詳細な実態が曖昧になり始める。それでも桃山、室町時代にはそれなりの資料がある。決定的にわからなくなるのは鎌倉時代あたりからだ。朝廷や幕府の公式資料はあるが、庶民生活を伝える文書は極めて少ない。当時の人々の暮らしを教えてくれる絵画や生活用具もほとんど残っていないのである。
少し乱暴かもしれないが、鎌倉以前は古代なのである。古代にはその後の日本社会にとって、真に根幹となる諸要素が新たに生み出された。文字(漢字と仮名)はもちろん、仏教(密教と顕教)や儒教といった思想、朝廷や貴族、武士などの身分制度もこの時期に初めて日本社会に登場したのである。和歌や物語文学もこの時期に生み出された。飛鳥から鎌倉時代にかけての600年ほどは日本社会(文化)の揺籃期である。だが何かが初めて生み出された現場を正確に知ることは難しい。古代社会で起こった多くの事象は謎のまま残されている。
獣足円面硯残闕 縦9.8×横10.7×厚さ5.2センチ(いずれも最大値、著者蔵)
写真の陶片は、骨董を買い始めた頃だから、もう15年ほど前に入手したものである。『獣足円面硯』(じゅうそくえんめんけん)というとなにやら物々しいが、要するに円形の硯を、鬼面が彫られたたくさんの獣の足で支えている文房具である。写真の陶片はそのほんの一部である。獣足円面硯は日本、韓国、中国で作られたが、古い時代の遺物は少ない。写真の陶片タイプの完品は数点しか現存していないはずである。
この陶片の製作時代は8世紀初頭だとほぼ特定できる。日本では奈良時代初期、朝鮮では統一新羅時代初期である。問題は製作地である。日本か朝鮮製か、今に至るまで特定できないでいる。譲ってくれた骨董屋さんは「日本で作られた須恵器だと思います」と日本説だった。確かに炻器といえるほど高温度で焼き締められておらず、土も須恵器によくある灰色である。土中していたので黒ずんでいるが、洗えばもっと白くなるかもしれない。しかし朝鮮説も捨てきれない。なぜ製作地にこだわるかといえば、日本製ならば当時の朝鮮との文化交流が、明確に証明できるからである。
【参考図版01】唐白磁獣足円面硯 口径8.6×高さ5.4センチ 唐時代 7世紀
【参考図版02】須恵器円面硯 口径27.2×高さ9.2センチ 平城京跡出土 8世紀
【参考図版03】統一新羅獣足円面硯残闕 幅22.5×高さ10.2センチ 雁鴨池出土 8世紀
硯は中国の六朝時代(222~589年)に作られ始め、唐時代には石製、陶製の様々な形の硯が生産された。獣足円面硯もその一つで唐時代に盛んに作られた。それはすぐにお隣の朝鮮に伝わり、朝鮮経由で日本に移入されたのである。僕が入手した陶片は、足の下に円形の帯がないことを除けば、【参考図版03】の統一新羅製品とほぼ同じである。つまりこの陶片は、朝鮮で発掘されて日本にもたらされたか、朝鮮の獣足円面硯を模して日本で作られたことになる。もし日本製なら新羅から陶工が渡ってきた証拠になるだろう。
唐(618~907年)と統一新羅(668~935)王朝はその存続時期がほぼ重なるが、日本では白鳳(645~710年)・奈良(710~794年)時代から平安時代初・中期(794~1185年)にあたる。この時代の東アジア圏の人と物の交流は活発だった。日本では白鳳時代の遣隋使に続いて、奈良時代には遣唐使が盛んに派遣された。広大な中国大陸を統一した唐王朝の繁栄はすさまじく、政治経済面においても、文物生産能力という点でも、東アジアの盟主として圧倒的に君臨していた。ただ政府公式使節団ではあるが、わずかな随員を従えただけの遣唐使によって、中国の先進制度や技術を移入できるはずもない。この時代には半島や大陸から多くの帰化人が日本に渡ってきていた。
古代における帰化人の渡来は、大きく3期あったと考えられている。第一期は中国の漢王朝によって朝鮮北部に設置されていた、楽浪郡の崩壊期(313年)である。日本では古墳時代だが、彼らは渡来して大和王朝に仕えた。日本には弥生時代後期から細々と漢字が移入されていたが、彼らが本格的な文字の使用法を日本人に教えたと考えられている。『古事記』は応神天皇(270~310年)の時代に、百済の学者・王仁(わに)が『論語』と『千文字』を献上したと伝えるが、彼はこの時期の人である。『古事記』の記述は簡単だが、王仁に代表される知識人がもたらした『論語』と『千文字』は、その後の日本文化に決定的な影響を与えた。
第二期は第一期から約300年後の、統一新羅による百済(663年)、高句麗滅亡(668年)前後の時期である。この時期に渡来した帰化人は大化の改新に関与し、日本語の発音を漢字で表記する、いわゆる万葉仮名を編み出したと考えられている。第三期は第二期から約100年後の、8世紀前半に渡来した帰化人である。彼らは唐王朝の最新文化をもたらした。『日本書紀』(720年成立)の編纂に寄与し、万葉仮名をさらに洗練させた。この時期以降、大量の帰化人の渡来は確認されていない。そのため日本語の漢字の発音は、第二期の帰化人がもたらした呉音(六朝期の発音)と、第三期の帰化人がもたらした漢音(当時の長安の発音)が基本になっている。いずれも現代中国では既に忘れ去られた古代の発音である。
古代の帰化人は中国大陸や朝鮮半島での政争に敗れ、またその混乱を嫌って渡来した人々である。そのためリーダーは貴族や僧侶、学者などの知識人だった。大和朝廷は彼らを召し抱え、姓(かばね)と官位を与えて優遇している。彼らはまた、配下の大工や織工、陶工ら大量の職能人を引き連れて渡来したと考えられている。
【参考図版04】羊型硯 長さ27×高さ15センチ 京都左京区四条出土 8世紀
【参考図版04】は京都で出土した羊型の硯だが、このような角を持つ羊は日本に生息しておらず、帰化人陶工が製作したと考えられる。実際、平城京跡から出土する須恵器は半島風の厳しい造形の物が多い。それが平安時代に近づくにつれ、だらしない形に崩れていく。和様化したのである。そこから推測しても、奈良時代初期は帰化人陶工が須恵器製作をリードしていたと考えられるのである。
また奈良時代の遺物には大型の硯が多い。平安時代以降になると小型の個人用硯が行き渡り、大型硯は儀式や観賞用になってゆくが、奈良朝のそれは実用品だった。昭和63年(1988年)に長屋王邸宅址から発見された木簡からもわかるように、奈良時代には文章による行政・物品管理システムが既に徹底されていた。しかし筆、墨、硯、紙のすべてがまだ不足していた。紙は公式文書や写経用などにしか使うことができず、日々の事務文章は木簡に書かれていた。その木簡も、再利用できる物は表面を削って二度、三度と使っていた。硯も貴重で、役人たちは大型の円面硯で墨を擦って共同で使用していたのである。平城京跡からは、陶器の平皿を硯がわりにした物も発掘されている。
僕が小さな獣足陶片の製作地にこだわるのは、それが文房具だからかもしれない。日本人は文字を知ることで、初めての社会統治システムである律令制度を確立した。また自らの民族の歴史である『古事記』や『日本書紀』を完成させた。書物を通して仏教や儒教などの外来思想に触れたが、その反動として最初の国風文化である『万葉集』が成立している。これらの出来事は、飛鳥から奈良時代にかけての古代社会で起こったのである。新しい知識や技術を持った人が渡来しただけでは文明は進化しない。文字を読み書きすることを覚え、それを使いこなすことが、高度な文明を築き上げてゆくための必須要件なのである。
文字情報をともなわない骨董の製作時代や産地を特定することは難しい。ただ長いあいだ見つめていると、物自身がその出自を囁いてくれるような気がすることはある。僕が入手した陶片は、なんとなく奈良朝の日本製のような気がする。獣足の上に刻まれた雲紋は新羅土器にはなく、和様化した模様のように感じる。もちろん確証はない。新たな傍証を見つけるまでは、日本かな、朝鮮かなと思いながら、陶片を眺め暮らすほかないようである。
石製獣足鼎型香炉残闕 胴径22.9×高さ13.8センチ(いずれも最大値、著者蔵)
* ナゾモノついでにもう1点。写真は怪獣の形の取っ手が付いた、三本足(鼎型)の石製香炉残闕である。日本や中国ではあまり行われなかったが、朝鮮では石をくり抜いて香炉や刻みタバコ入れ、鍋や臼などを盛んに作った。香炉の足は失われているが付け根に鬼面が彫られている。古代の青銅器を写したような雰囲気だがそれほど時代はなく、高麗から李朝時代初期(14世紀頃)に作られたのではないかと思う。しかし正確なところはわからない。面白いのは獣足円面硯とは異なり、鬼面が上下逆に彫られていることである。鬼面は鬼瓦に多く、魔除けの意味があった。獣足円面硯では鬼面は単なる模様(様式)になっているように思うが、宗教祭祀などに使われる香炉では本来の呪術的な意味が付加されていたのかもしれない。ただどんな呪術的意味だったのかは、これもまたわからない。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■