よく芸術の命は長いと言われる。骨董などを見ていると確かにそうだろう。数百年前、数千年前の遺物が今に至るまで大事に保存されている。しかし細かく見ていくと、芸術の本質的な寿命は意外なほど短いとも言える。ほとんどの芸術は、種子から植物が芽吹き大輪の花を咲かせるように、歴史上のある時期に足早にその頂点へと向かう。その期間は約100年ほどである。人間の寿命で言うと2世代から3世代の間に一つの芸術ジャンルは頂点を極めるのである。また安定した土台ができあがると、すぐに様々な試行錯誤が始まる。百花繚乱の全盛期である。その期間もおおむね100年間ほどだ。この草創期から全盛期を過ぎると、その芸術はゆっくりと衰退に向かう。ジャンル自体が消滅してしまうことは少ないが、草創・全盛期の仕事を「伝統」として踏まえつつ、新たな表現を模索し始めるのである。
デルフト陶にも同様のことが言える。デルフト陶は16世紀初頭に、現在のベルギー・オランダにまたがるフランドル・ネーデルランド地方に、マヨリカ陶の技術を持つイタリア人陶工が移住してきたことから始まった。マヨリカ陶はイスラーム陶器の影響を受けた焼き物で、イタリアでは15世紀初頭から質の高い作品を生産していた。それまでもフランドル・ネーデルランド地方では陶体に鉛釉をかけただけの素朴な焼き物が作られていたが、マヨリカ陶の影響が引き金になって初期の色鮮やかなデルフト陶が焼かれるようになったのである。その後ネーデルランドでは宗主国スペインからの独立を目指す80年戦争(オランダ独立戦争、1568~1648年)が起こり、陶工たちは戦禍を避けてネーデルランド北部のデルフトやハーレム、マッカムに窯場を移していった。80年戦争はカソリックとプロテスタントの宗教戦争でもあったが、ネーデルランド北部では比較的宗教対立意識が薄く、信仰の自由が保障されていたのである。
デルフト緑釉水差し 16世紀末~17世紀初頭 口径9.1、取っ手を含む横幅14×底径11×高さ16.8センチ(著者蔵)
初期のヨーロッパ陶は実用本位のシンプルなものだった。いわゆるストーンウェア(陶土を高温で焼き上げただけの頑丈な焼物で、炻器と呼ばれる)がそれまでのヨーロッパ陶器の基本だったのである。図版の作品はビールジョッキのような形をしているが、元々の用途は水差しだろう。製作地はフランドル・ネーデルランド地方で、時代は16世紀末から17世紀初頭だと思う。水漏れしないように中には透明な錫釉が掛けてあり、外側は緑釉が掛かっている。発注者かお店の屋号かはわからないが、「TN」のイニシャルが彫ってあり、その部分に鉄釉を掛けて黒く発色させている。銅を使う緑釉と鉄釉は、焼物では最も基本的な色付け技法の一つである。中国では7世紀の唐時代から唐三彩などで緑釉が使われ、その技術はイスラーム陶にも伝播していった。
ヨーロッパは銀食器などの金属製品やガラス細工では先進国だったが、焼物の製作技術は遅れていた。デルフトはイタリア経由でイスラーム陶器の絵付け技術を学ぶことで、中央ヨーロッパで初めて華やかな色絵陶器の生産に成功した。初期のデルフト陶は周囲に連続した草花紋を配し、真ん中に風景や南国の果物を描いたものが多い。イスラームは徹底して偶像崇拝を嫌う宗教なので、イスラーム以前のペルシャ陶は別として人物を描かず、その代わりに青海波や唐草紋などの抽象的連続模様を好んで描いた。しかし17世紀になるとデルフト陶は劇的に変化する。ヨーロッパにもたらされた大量の中国磁器がデルフト焼きに大きな影響を与えたのである。
藍絵孔雀紋デルフト皿 17世紀後半 口径23×高さ2.2センチ(著者蔵)
藍絵花籠紋デルフト皿 17世紀後半 口径26.2×高さ2.8センチ(著者蔵)
この2枚は17世紀後半に作られた典型的なシノワズリ(中国趣味)、ジャポニズム(日本趣味)のデルフト皿である。よく知られているように、16世紀になるとヨーロッパ列強諸国による大航海時代が始まった。大航海時代の初期をリードしたのはコロンブスによってアメリカ航路を発見したスペインと、ヴァスコ・ダ・ガマによりインド航路を確立したポルトガルだった。その後にオランダ、イギリスなどの海運国が続いたのである。
ポルトガルやスペイン商人はそれまでイスラーム商人が独占していた香辛料や生糸を東洋から直接輸入することを航海の目的にしていたが、すぐに中国磁器の商品価値に気づいた。ガラスほど脆くはないが光に透かすとうっすらと向こう側が見え、金属のように滑らかだが熱伝導性が低い磁器は、またたくまにヨーロッパで一大ブームを引き起こした。エキゾチックで優美な絵付けも魅力的だった。王侯貴族が争って高値で買い求めたのである。それまでもヨーロッパに輸入されていなかったわけではないが、割れやすい磁器を陸路で運ぶのには限界があった。しかし船荷となると話は別だった。磁器は腐ったり変色したりしない。まとまればかなりの重さになる。磁器は船を安定させるためにも、湿った船底に詰め込むのに理想的な荷物だった。
17世紀初頭の中国は明朝に当たり、白い磁体にコバルトで模様を描く染付(ブルーアンドホワイト)製品を盛んに生産していた。そのためデルフトでは色鮮やかなマヨリカ系の作品が下火になり、ブルーアンドホワイト製品を生産するようになった。人気の中国磁器の倣製品(コピー商品)を作り、比較的安い値段で売りさばいたのである。この時期のデルフト陶は異文化に初めて触れた際の驚きに満ちており、東洋とそれまでのヨーロッパ様式が混交した不思議な魅力に満ちている。しかしヨーロッパにおけるデルフトの窯業先進地としての位置は、ほぼ17世紀で終わる。デルフトは敏感に東洋磁器の様式を取り入れたが、相変わらず陶器を焼き続けていた。だが18世紀初頭になると、ヨーロッパで磁器の生産が始まったのである。
相互交流という意味では、江戸期以前の日本とヨーロッパとの接点を確認できるのはオランダのデルフト焼きだけである。しかし日本や中国を中心とする東アジアの磁器が与えた影響範囲はもう少し広い。ポルトガルやスペイン、オランダ船が輸入した東洋磁器を最も好んで蒐集したのはフランスのルイ王朝だった。次いでドイツの諸侯らがそれにならった。中でもポーランド・リトアニア共和国国王でザクセン選帝侯のアウグスト2世は熱狂的な東洋磁器のコレクターだった。アウグスト2世は別名アウグスト強王と呼ばれる。素手で蹄鉄を曲げるほどの怪力と、尋常ならざる性的能力がこの異名の由来である。実際、強王は後宮にあまたの美女をはべらせ、ほとんどが庶子だが生涯に300人以上の子供をもうけた。強王は臨終の床で「わが人生は罪の連続だったと」告解して63歳で死去したが、遺体はクラスコに埋葬され心臓だけが金属の箱に入れられてドレスデンの宮廷教会(ホーフ・キルヒエ)の地下に安置された。かわいい女の子が王の心臓のそばを通ると、いまだに鼓動が聞こえるという伝説がある。
アウグスト強王時代のドイツはプロイセン王国を中心としたゆるい連邦国家であり、いくつもの王国、大公国、公国などに分裂して勢力争いを繰り広げていた。小国のザクセン王だったがアウグストは当然のように領土拡大を望み、ポーランド・リトアニア共和国の王権を巡ってスエーデンとの戦争を繰り返した。また強王は芸術の庇護者であり、オペラを好み新たな都市計画を敷いてドレスデンを美しい街並みに変えた。しかし強王の施政には常に中世的な絶対君主の気まぐれが入り混じっていた。王は度重なる戦争でふくれあがる支出や、自らの享楽的な生活に必要な資金を一気に捻出する方法を夢想していた。その一つが鉛などの卑金属を黄金に変える錬金術の発見だった。強王が白羽の矢を立てたのはヨハン・フリードリヒ・ベトガーという19歳の錬金術師だった。
ベトガーはドイツ連邦最大の強国であるプロイセンで錬金術の秘技を披露し、その噂を聞きつけたフリードリヒ1世から召還された。しかしベトガーは応じなかった。フリードリヒ1世は、錬金術師の技が嘘だとわかるとすぐに拷問と死刑を科す冷酷な王だったからである。また鉛を金に変える錬金術がまやかしに過ぎないことを、ベトガー自身が誰よりも良く知っていた。怒ったフリードリヒ1世は報奨金をかけてベトガーの行方を追ったが、プロイセンへの対抗意識もあってそれをアウグストが横取りしたのである。強王もまたベトガーが鉛を黄金に変えたという噂を聞きつけていた。以来、死ぬまでベトガーはザクセン王国の囚人として過ごすこととなった。
ただベトガーはまったくの詐欺師だったわけではない。彼は中世的な魔術と近代的な化学の世界のあわいに存在した人だった。ザクセン王国ではチルンハウスという貴族が宮廷顧問官を勤めていた。彼は国内での鉱物資源の生産事業に当たり、その一方で磁器の製造方法を研究していた。当時ヨーロッパでは磁器の値段が恐ろしいほど高かった。チルンハウスは錬金術には懐疑的だったが、磁器生産に成功すれば黄金を生み出すのと同じくらいの利益を得られるだろうと考えたのである。また彼はアウグストの東洋磁器への執着が、美女への欲望と同じくらい強いことを知っていた。ベトガーはアウグストの囚人になっても錬金術の秘法を編み出せずにいたが、チルンハウスはベトガーと会って話すうちに彼の化学の知識の豊富さに気づいた。チルンハウスはベトガーに磁器生産方法を探究させるようアウグストに進言し、ベトカーは錬金術と平行して磁器製作の秘法に挑むことになったのである。
1708年(和暦では宝永5年)、ザクセン宮廷内での良き理解者であったチルンハウスが死去した年に、ベトカーは磁器の製作に成功した。長い幽閉生活で精神を病み、酒浸りになりながらの大発見だった。磁器製作成功からしばらくして、アウグストは製作秘法を守るために工場をマイセンのアルブレヒト城に移した。アルブレヒト城はエルベ川に面した丘の上に立つ孤城で、容易に人が近づけなかったからである。ベトカーには1711年に褒美として男爵の位を与えた。しかし高い地位を得たにも関わらず、ベトカーはあいかわらずアウグストの囚人だった。磁器製作に成功しても、強王はベトカーに錬金術の秘法を編み出すことを求めてやまなかった。
アウグストとベトカーの関係は、現代ではもはやあり得ない封建社会の主従のそれだった。ベトカーは失敗すれば死を科しかねないアウグストを恐れ、逃亡を試み、連れ戻され、幽閉生活で精神を病んで酒浸りになりながらも磁器生産方法を発見した。ベトカーは1719年に37歳の若さで死去するが、死の直前まで錬金術の研究を続けていたことが知られている。それはベトカーの同僚チルンハウスや、ベトカーの後を継いだ陶工たちも同じだった。彼らはアウグストの気まぐれに振り回され、陰謀と汚職にまみれた複雑な宮廷政治の世界を必死に生き抜きながら、結局は王の「御意」に沿うように仕事をし続けたのである。
【参考図版01】ベトカー炻器(赤色炻器) 18世紀初頭
【参考図版02】ヘロルトによる色絵磁器 18世紀中頃
【参考図版03】ケンドラーの磁器彫刻 18世紀中頃
ベトカーが見出した磁器はまだ草創期の段階にあるものだった。それを完成させたのがヨハン・グレゴリウス・ヘロルトだった。ヘロルトはほぼ完璧な白磁を作り上げ、それを色絵で飾る技法を編み出した。アウグストが日本の柿右衛門様式の色絵磁器を好んだので、ヘロルトは本歌に勝るとも劣らない柿右衛門様式の磁器を大量に作った。ヘロルトに次いで現れた天才的陶工がヨハン・ヨアヒム・ケンドラーだった。アウグストは一つの宮殿の内部を全て磁器で飾りたいという欲望を抱いていた。この「日本宮殿」(アウグストは日本と中国の違いをあまり意識していなかった)のプロジェクトは強王の死によって中断されるが、ケンドラーは宮殿内を飾る磁器の彫刻を作るために雇われた彫刻家だった。
ヘロルトとケンドラーは犬猿の仲だったが、この2人によってマイセン磁器は一気にその技術・美術両面での頂点へと駆け上がった。ヘロルトは1696年、ケンドラーは1706年生まれだが、両者とも1775年に死去している。ベトカーによる1708年の磁器製法発見から1世紀も経たないうちに、マイセン窯はヨーロッパ最大かつ最良の磁器生産地になったのである。作品を見れば一目瞭然だが、ベトカー、ヘロルト、ケンドラーが作り出した磁器は、デルフト製品とは比べものにならないほど繊細かつ優美なものだった。またベトカーとヘロルトは主に中国や日本の磁器の倣製品を作ったが、ケンドラーは違っていた。彼が生み出したのはヨーロッパ人独自の美意識に基づく作品だった。ケンドラー以降のマイセン窯は、微かに東洋磁器の記憶を残しながらも、ヨーロッパ人好みの作品を製作してゆくようになる。
明末清初様式藍絵草花紋デルフト皿 17世紀末~18世紀中頃 口径23.6×高さ2.2センチ(著者蔵)
明末清初様式縁なぶり藍絵草花紋デルフト皿 17世紀末~18世紀中頃 口径15.9×高さ1.2センチ(著者蔵)
色絵中国人(清人)釣図デルフト皿 17世紀末~18世紀中頃 口径31.6×高さ4.2センチ(著者蔵)
最初の2点は明王朝が倒れ、清王朝が樹立される期間に中国で作られた染付をデルフトで写した作品である。最後の1点は弁髪の中国人が釣りをしている図なので、清王朝が成立した後に作られた作品だと推定される。大きく2つに割れたものを裏側から鎹(かすがい)で留めてある。割れた陶磁器を鎹で補修する方法は古くから中国で行われているが、これは日本で修復されたものだと思われる。中国人はデルフトのように稚拙な陶器を好まないからである。また鎹は錆びている。遅くとも幕末くらいまでに日本に輸入されたものが破損して、日本の職人が鎹を打ったのではないかと想像されるのである。3点ともに、製作時期は早くて17世紀末、遅ければ18世紀の中頃だろう。
ヨーロッパ人好みの作品も作っていたが、マイセン窯が着々と磁器生産への道を歩んでいる間も、デルフトでは中国や日本の磁器をお手本にした陶器を作り続けていた。マイセンの磁器生産が軌道に乗ると、約100年間続いたヨーロッパでの窯業の中心の座はデルフトからマイセンに移った。しかしそれは、フランドル・ネーデルランド地方で作られていた陶器がデルフト焼きとして明確に認知され、確立された瞬間でもあった。マイセンではベトカーが苦心の末に発見した磁器製作の秘法を守り通そうとしたが、それはヘロルトやケンドラーの存命中から外部に洩れ出し、18世紀末頃にはヨーロッパ全土に知れ渡ってしまった。デルフトでも磁器の生産が始まったが、原初的アイデンティティとでもいうべき窯業の根本姿勢は残った。デルフトでは現在でも陶器のタイルを作り、全盛期のシノワズリやジャポニズムの特徴を残した陶磁器を生産している。
ある対象を好きになると、人間はそれを中心に思考を組み立ててしまう傾向がある。例えば夏目漱石と正岡子規は親友だったが、漱石研究者は「漱石が子規に与えた影響」を、子規研究者は「子規が漱石に与えた影響」を書きたがるといった具合である。それは焼物の世界でも変わらない。伊万里や唐津、デルフト焼きを愛好するようになると、陶工と物からその時代の精神を語ってしまうという倒錯が生じることがある。しかしそれは誤りだ。同時代において陶磁器は実用品であり、絶対的に発注者と市場原理に支配されている。発注者が存在せず、売ることも考えずに作られたファインアートのような陶磁器は存在しない。
陶磁器の世界標準の美は、器形にも絵付けにもほとんど一分の隙もない中国陶やマイセンなどの作品が基準になっている。それらに比べればデルフト焼きは稚拙だ。中国やマイセンの最上品は皇帝や王のためのものであり、それらを焼く窯は官窯として位置づけられていた。しかしデルフトはあくまで民窯だったという違いがそこにはある。ただオランダ人を除けば、日本人は世界中で最もデルフト焼きを愛し続けてきた民族である。幕末の茶道具番付には驚くほど詳細な和蘭陀陶器の考証が記載されている。茶道具への美意識に一貫して表れているように、脆く不完全な道具を好む心性がデルフト陶を愛させるのである。このような日本人の美意識はどこか偏っている。だが美意識などというものは、自らの心性に内在する「偏愛」のありかを探し当てなければ、意味のないものだとも思うのである。
輪花藍絵草花鳥紋デルフト皿 17世紀末~18世紀初頭 口径20.8×高さ3.6センチ(著者蔵)
白磁デルフトスプーン 17世紀中頃 幅5.1×長さ6.4センチ(いずれも最大値、著者蔵)
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■