長谷川郁夫の「吉田健一」というエッセイというか、回顧録が連載されている。
長谷川郁夫は小沢書店の社主であった人で、つまりは編集者である。最近、この手の回顧録ふうエッセイをよく見かける。書き手はたいてい編集者である。
「吉田健一」は、吉田健一とその周辺の作家たちを含めた人々についての記録だ。この雑誌、新潮を最初から最後までめくってゆくと、この「吉田健一」の辺りが最も“文学的”である。
つまりは我々の抱えている“文学的”なるもののイメージは、すでに過去のもの、ということだ。そしてそれを伝える資格があるのは、その時代に観察者の役割に徹してきた編集者だ、ということらしい。
自由で無頼で、ときに熾烈で歯に衣着せぬ、という「文学者」のイメージは、現代の若い文学者にではなく、引退した編集者にでも受け継がれたのか、と思うときがある。編集者こそが文壇の担い手で、戦後文学の興隆期を知る編集者こそが「生ける文壇」そのものである、とでも言うかのように。
編集者という人種が勘違いしやすいのはしかし、今に始まったことではなかった。彼らの勘違いはしかし、本来の「生ける文壇」である作家たちと対等に付き合っている、という錯覚から生じていた。
大作家も二本足、自分も二本足、どこに違いがあろう、ということだ。原稿は書き起こしてしまえば、しごく簡単に書かれたように見えることもある。傍目八目の読者として、一つ二つ指摘すれば、大慌てでメモを取る作家もいる。世慣れた人であれば、大仰に感謝してみせることもあろう。少しばかり頭の足りない編集者が勘違いし始めるのに、三年とかからない。
しかしながら書き上がった原稿に対し、いくらか気の利いたことを言うのと、一から原稿を書き上げるのは、根本的に異なる。それを思い知らせるのは作家の力だった。一から世界を作り上げることができる者だけが本来的に自由で、無頼で、熾烈であり得るのだ。勘違いしかけた編集者を正気に返らせるのは、いつでもこれら作家たちの「怖さ」だったはずだ。書く力がなければ、「文学」そのものに近づくことはできない。文壇のキーマンごっこなどしていれば、「文学」そのものの担い手である作家たちに、いつか容赦なくどやされる。
その作家たちが口ごもりながら「もらっといてやる」ぐらいで感心されるようだと、もはや誰も怖がりはするまい。自分の体験、見聞きしたことを一冊や二冊にまとめるぐらいは田舎の親爺でもするが、それで作家に伍したつもりになるのは都会の編集者である。それを禁じる組織のタガも緩んでいる。自分たちだって、あわよくば、と思っているんだから、目立ちたがりの同僚を野放しにするわけだ。かくして組織に守られながら無頼を気取るという、キテレツな人種までも生じる。組織が保証する自由の方が、物書き本来の自由より、まだしも力があるように見えているらしい。
彼らの描く「戦後文壇史」はあたかも「戦後文学」そのものの「後書き」のようだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■