文芸誌の状況が厳しいのは、必ずしも売り上げの問題ばかりではないんだろう。人はパンのみにて生きるわけではないから。本当に辛いのは、ヴィジョンを失うことだ。
群像という雑誌は、このところ本当に辛そうな感じがする。純文学五誌のうち、戦後に創刊された文藝とすばるを除いた三誌、文學界、新潮、群像の中では群像が一番後発である。このポジショニングがかなり厳しいところに来ているようだ。
すばると文藝は「文壇」の一角を担う、みたいなプライドはもはやかなぐり捨てて、若向き、また作家志望の読者にターゲットを絞っている。が、戦前創刊の三誌はそういうわけにいかない。
ガラパゴス化した日本の文壇であっても、まだせいぜい一、二誌ならば足の踏み場があるというか、存続できる余地は残されている感じだ。だけど、三誌となるとどうか。
じりじりとパイが狭まり、いや、パイなんて最初からないに等しいのだが、温暖化で海面上昇して、ガラパゴス島そのものが小さくなっていっている。はみ出して岩場から滑り落ちかけているのは、最後にこの島に流れついて、そもそも海抜低いところに住み着いていた雑誌、群像だ。これまで続いてきたのは、本体が大出版であるおかげだが、資本の大きさはヴィジョンまでは保証しない。
で、8月号。この辛さがもろに出ている気がする。今号のコンセプトが見えないだけでなく、群像という雑誌のコンセプト喪失が露わな感じ。なまじ大出版なのでできるのだろうが、チューブだらけの延命措置が痛々しい。
詩人ですらない著者が恣意的に混ざった「個人的な詩集」という、わけのわからない特集は、編集部が詩について、これまでもこれからも何の関心もないことが伝わるだけだ。
目次で妙なのは、「中編二本立て」よりも「短編」の方が活字が大きいことだ。「二本立て」とか呼ばれちゃった時点で終わってるのかもしれないが。で、その短編ってのが、古井由吉先生かっていうと、これが綿矢りさなんだから、なおわからない。
金原ひとみといつもセットで語られるのが気の毒だが、金原ひとみが生れながらの図太い女性性、動物的な勘プラス日本の純文学性を備えているのに対し、綿矢りさはそういった「天性」へのアンチテーゼとして存在させられるしかなくなっている。
その苦しさはどこか、群像という雑誌の現在の苦しさとも重なり合う。それだから目次の活字が大きいわけでもないだろうが、その短編「人生ゲーム」は表題通り、若い登場人物が若いというか未熟な感覚のまま、苦渋を噛みしめるわけでも、さりとて達観できるわけもなく、人生をゲームとして捉えました、というだけのものだ。大の大人が読むものでも、さりとて若者が読んで面白くもない。
目次でこの短編の活字が大きいのは、作者が大江健三郎賞を取った直後だからだろう。どんな思惑か、順番なのか知らないし、興味もないが、思えば大江健三郎という作家も、賞のいかんにかかわらず、こういった苦しさを感じさせる人だった。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■