今月号の巻頭には2011年に『苦役列車』で芥川賞を受賞した西村賢太の『棺に跨がる』が掲載されている。25枚ほどの短編私小説である。最も『文學界』に掲載されるにふさわしい作品であり、最も日本的な小説だと思う。もちろん雑誌は「雑」だからどんな作品が掲載されていてもいい。今号には前衛小説ふうの荻世いをらの『東武東上線のポルトガル風スープ』や、鈴木善徳の『河童日誌』なども掲載されている。
しかしこれらの作品で、『文學界』が小説の世界に新機軸を切り拓くのは難しいだろうと思う。徒手空拳の前衛意識が結局は一時のあだ花で終わることを、長い歴史を持つ『文學界』が一番よく知っているだろう。今『文學界』に掲載されている作品で前衛と呼べるのは、高橋源一郎の『ニッポンの小説・第三部』くらいではないだろうか。彼の作品は「日本近・現代文学史」を前提としており、少なくとも文学の世界で何が過去となってしまったのかを意識している。
西村の『棺に跨がる』は古くて新しい作品である。西村の作品は、毎号のように『文學界』に掲載される私小説風の作品とは、わずかだが決定的に違う。それは日本の小説の原点であるという意味で古くかつ新しいのである。どんなに愚かしい試みに映ろうとも、西村作品のように原点を確認することはいつの時代でも重要である。日本の小説の愛読者なら、西村作品を嫌うことはできないのではないかと思う。
「―――まるで、ブタみたいな食べっぷりね」
と、明るい声で揶揄してきたのである。
無論、秋恵にすれば、これは何も貫多に対する嫌悪感や、小馬鹿にした意味合い等で言ったものではなかったのであろう。それは彼女がその際に向けていた、まるで邪気のない、むしろ食べ盛りの子供を見守る母親じみた、包み込む感じの笑顔からも充分に察することができる。
だが、根がどこまでも誇り高く、かつ、極めて瞬間湯沸し器な質にできている貫多は、この冗談以前の一言がひどくカンにさわった。(中略)
彼はスプーンを皿に放ると、それをやにわに台所の壁目がけて力一杯に投げつけ、ついで秋恵の髪を引き掴んで振り廻し、感情任せの足蹴りをその尻と云わず肩口と云わずに、延々と繰りだす仕儀となってしまった。
主人公の貫多はカツカレーを食べている最中に、恋人で同棲中の秋恵が放った一言に激しく逆上し、彼女を袋だたきにしてしまう。秋恵は肋骨が折れたようでひどく痛がっている。我に返った貫多はすぐに自分の行為を後悔し始める。秋恵の身体を心配して、という理由からだけではない。貫多は前科二犯だった。もし秋恵が警察に通報したら、今度こそ傷害事件の犯人として実刑を科されることを恐れたのである。
貫多は絶対に病院には行かないようにと秋恵に言い含めて、石川県の七尾に出かけてゆく。七尾には貫多が敬愛する私小説作家・藤澤清造の墓があった。貫多は寺の住職に頼み込んで清造の墓の横に自分の墓を建てた。その完成祝いの席が七尾で開かれるのだった。前科があること、私小説作家・藤澤清造を敬愛していることは西村の実生活と重なる。『棺に跨がる』が私小説であるゆえんである。しかし私生活を書き、作家の心理を描写していることが優れた私小説の絶対条件ではない。発話主体の視点が問題なのである。
こちらの傷持つ脛を充分察知し、その下手に出てるのにつけ込み居丈高な態度をとることは、これはこの際百歩譲って、彼女なりの報復との解釈で目をつぶってやってもいい。それで気が済み、警察等に黙っていてくれるならば、何んとも安いものである。
が、DVを受けたからとと云って、それで全く己の落ち度は省みず、一から百まで一方的に被害者ヅラをしているその身勝手さと云うか、女特有の無神経な馬鹿さ加減はどうにも慊(あきたりな)い。その自己中心さが、何と云っても慊いが上にも慊い。
そしてまた、そんな馬鹿女の逆上を恐れて、自己保身の為に気褄(きづま)を取り、ひたすら媚びの擬態をとっていた自分自身の姿も、余りに情けなかった。
『棺に跨がる』における作家、というより発話主体は、世界を絶対的に客観描写している。もちろんそれは「わたくし」と呼ばれる実存主体が認識把握できる狭い範囲の世界である。しかしこの狭い世界でわたくしの意識は絶対である。ほとんど暴力的なまでに「わたくし」は世界に君臨しているのである。しかしわたくしが世界と重なる時、奇妙な逆転が起きる。わたくし=世界であれば、もはやわたくしはわたくしを意識する必要がなくなるのである。
私小説は絶対化したわたくしが、絶対であるがゆえに希薄な意識として世界に偏在し、自己と他者の言動・意識を描いてゆく芸術である。従って作家の実体験が書かれているか、作家の心理描写が緻密に書き込まれているかどうかは、私小説にとっては本質的な問題ではない。私小説の内容はすべてがフィクションであって良い。しかし自我意識の絶対化によって自我意識を相対化し、それにより自己を含む他者との関係性を客観化できなければ、私小説という芸術形態は成立しないのである。
が、一方でその片隅には、昼に能登の寺にて目に灼きつけてきた自らの墓碑が、何やら最前より、恰も自身の棺と覚しきものに印象を変え、一刻も早い収容を促しているのが見えてもいるのである。
彼はその誘(いざな)いを、放液と飲酒の快楽によって振り払うべく、駅へ向けた歩みを少し早めた。
『棺に跨がる』は死への誘惑と生への執着の記述で終わる。絶対化した自我意識はヨーロッパなら神の姿を取るだろう。しかし日本ではそうはならない。それは無である。ある禅の高僧は臨終の床で遺偈を求められ、「死にとうない」と答えた。困惑した弟子が再度遺偈を求めると「いや、ほんとうに」と答えたのだという。私小説とはそのようなものである。悟りは崇高ではない。滑稽で猥雑なものである。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■