今月号には石原慎太郎、筒井康隆、村田喜代子、長嶋有、磯崎憲一郎、ロジャー・パルバースの読み切り小説が掲載され、高橋源一郎、上野千鶴子、種村弘の新連載が始まっている。対談や評論も面白いが『文學界』は小説雑誌である。新連載を含め小説がたくさん掲載されていると、いよいよ新学期が始まったなという感じがして好感が持てる。
ただ今月号の読み切り小説で最も秀作だと感じたのは、『九州芸術祭文学賞』を受賞した小山内恵美子の『おっぱい貝』だった。小山内氏は1975年神奈川県生まれで、毎日新聞社記者を経て現在はフリーライターをされている。新人はどの媒体から現れてもいいわけだが、『おっぱい貝』は『文學界』好みの私小説である。余計なお世話だが、『文學界』時評者としては、こういう作家が『文學界』新人賞ではなく『九州芸術祭文学賞』から出たことにちょっと口惜しい思いを抱いた。
私小説だからネタバレを心配するほどのストーリーはないので書いてしまうと、『おっぱい貝』は不倫で妊娠した臨月間近の女性が、女一人で子供を出産するまでの心の揺れを描いた60枚くらいの短編作品である。「おっぱい貝」とは行きつけの魚屋においしくて滋養があるからとすすめられた、その汁が母乳の味がする珍しい貝のことである。
わたしはあのひとが愛したわたしでなくなり、まっさらになろうとしている、あるいは母というまったく別の生きものに。もうすぐわたしはまっさらな胸に赤ん坊を抱いて、乳首を吸わせるのだ。この一年、いろんな感情にのたうちまわり、母になるのがなにより怖く、けれどきっとすべてはこの日のためにあったのにちがいない。いまならあのひととのあんなこともこんなことも許せそうな気がして、菜穂はうれしさで叫びだしたいくらいになって、あのひとにざまあ見ろと言ってみたくなった。あなたはこんな喜び、一生知らないで死ぬんでしょう? わが子が生まれ出る瞬間に立ち会うこともできなければ、抱きあげることも一生できないでしょう?
(小山内恵美子『おっぱい貝』)
『おっぱい貝』は死と再生の物語である。主人公の菜穂は子供を産むことで生まれ変わろうとしている。母と子の新生は多くの死によって成し遂げられる。菜穂は食べることで胎内の赤ん坊を育ててゆく。死んだ有機物を身体に取り込み栄養に変えることで、男との思い出を死に追いやってゆく。「死骸でぱんぱんにふくれたわたしの身体。魚の目玉やそのまわりのぐにゅぐにゅしたところ、鰯の小骨、(中略)死んでしまったものがあたり一面に散らばった平原の中心におおきな池があり、赤ちゃんが浮かんでいる」とある。
母乳の味がする「おっぱい貝」は死と生のあわいにある食物である。それを食べることで主人公は赤ん坊に母乳を与える存在に変わってゆく。またおっぱい貝は孤独な妊婦・菜穂を-魚屋夫婦との淡い交流を通して-社会と繋ぐ、曖昧で得体の知れない、だが確かにそこにある有機体である。
作品では主人公が苦悩、逡巡、混乱しながら救いを求める心情が、粘着質で息の長い文体で表現されている。だが温かい繭のように母子の世界は閉じており、人間関係が生み出すどんな矛盾も対立も、もはや母子を傷つけることはない。風景も他者も、全ては主人公のフィルターを通した心象描写なのである。それを選者の秋山駿は「この作品は、読む人の心を温めようとして書かれている」と評している。しかしいま一人の選者、五木寛之が言うように「夢からさめたようにまばたきをして読み返してみると、どうということのない小説だ。(中略)この作品には、逆らいがたい小説の力というものがあるような気がする。それが作者の地力か、それとも偶然かはわからない」のも確かである。
乱暴に言えば、『おっぱい貝』は出産を主題にしているために私小説の秀作になっている。しかし観念としては緩いところがある。作品の舞台は長崎だが、主人公の死と再生の主題は長崎原爆の記憶と入り混じる。また出産によって主人公が抱える問題が解決したわけではない。作品の末尾は「終わってしまえばあまりにあっけない幕切れで、(中略)赤ちゃんは目に涙をためこんで、菜穂をじっと離れない。黒々とぬれた目にたしかに見覚えがあった」である。母子を包み込んでいた繭は破れ、新生は日常へと戻る。赤ん坊の目は父親の面影を宿しているのである。この作品は出産という事件主題に限っても、スタートであってゴールではない。
もし作家が『おっぱい貝』の成功体験を忘れられずに死と再生の主題を延命させようとすれば、底の浅い社会派作品を乱造することになるだろう。長崎原爆、あるいは3.11だろうと死と再生の主題はどこにでも見出すことができるからである。また赤ん坊の目の中にある光から目を逸らせば、作品はぬるいヒューマニズムに終始することになるはずである。
主人公は確かに死からの再生を経験した。しかしそこから再びザラザラとした日常が始まる。妊娠から出産に至る時間は特権的なものである。この期間、問題は棚上げされているに過ぎない。妊婦だけではない。周囲の人間すべてが問題を棚上げすることに同意している。しかし終われば改めて問題に対峙しなければならない。その残酷を描き切れるかどうかによって、『おっぱい貝』が「作者の地力」による秀作なのか、「偶然」によって生み出されただけの秀作なのかが明らかになるだろう。
作家としてデビューするためには大変な努力が必要である。しかし2000年紀の文学では、むしろデビュー後の方が問題だ。新人作家が処女作からほんの数作でそれまで抱えていた主題や方法論を出し尽くしてしまい、数年後には素人作家よりもレベルの低い作品を書いている光景は決して珍しくない。今号で言えば、村田喜代子やロジャー・パルバースの小説をプロの作品と呼ぶ勇気はわたしにはない。申し訳ないが純文学どころか小説の体を為していないと思う。かつて文芸誌は我慢して作家に作品を書かせ続ければ、いずれは金脈を見つけ出すだろうと期待できた。しかし現在はそんな気配を感じない。確かに「当たる」作品はあるが、作家が意図して当てたとは思えない。市場の気まぐれとメディアの力がたいていのヒット作を生んでいる。
作家の数も増えているが、有名無名を問わなければ発表誌の数も増大している。だから少しでも名前があがれば作家は書く媒体には苦労しない。しかし書きながら次々に作品主題を見つけ出せるほど現在の社会は安定していない。作品を発表する機会はいくらでもあるようで、実際は限られているのである。駄作だとわかっていても作家は自分の作品に縛られる。次の作品が最後だと思い極めなければ、現在のような時代では活路を見いだせないだろう。もちろんわたしたちは、小山内氏の次の作品を、大きな期待を抱きながら待ち望んでいる。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■