第2回 辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑(とらま しんかん)さんの連載小説『証拠物件』(第08回)をアップしましたぁ。四章中編です。寅間さんの『証拠物件』はあいかわらず高いアクセス数を誇っています。石川は寅間さんの小説の書き方はオーソドックスだなといふ印象を持っていましたが、この作品で表現されているリアリティのあり方は、現在の小説閉塞状況を突き抜ける力を示唆しているのかもしれません。
「あ、もう一軒行きましょうよ。ここら辺なら店、分かりますんで」
俺の言葉に返事をせず、くるりと背中を向けてサキエさんはまた歩き出す。数歩進んでから振り返り、真顔のまま手招きで俺を呼ぶ。あと一、二時間で朝が来る路地の、冷たいコンクリートに彼女の影が伸びている。真剣な表情のせいか、下心は発生しない。酔っ払ってんのかな、とよく分からないまま近付くと、今にも泣き出しそうな顔で「私、したのよ」と告げられた。え? と聞き返した俺の顔はさぞかしマヌケ面だったにちがいない。そんなマヌケ面のガキにもう一度サキエさんは言った。
「あの日ね、私、キヨミちゃんのお父さんとしたのよ」
(寅間心閑『証拠物件』)
この展開、いいですねぇ。ネット時代になって情報が大量公開されるようになってから、小説の書き方もまたいろんな形で公開されています。まあはっきり言うと、作品で食えない小説家が自己のノウハウを切り売りしたりもしているんです。その結果、それなりに一生懸命学習した作家の小説技術は格段と上がっています。うまいなーと感じる小説が昔より増えています。
ただそれは一方で〝ツクリモノ〟めいた作品を大量に生み出しています。石川はちょいと前に電車の中で、女子高生たちがある流行作家について、『ツカミはOKなんだけど、オチがいっつもイマイチなんだよね』『そうそう』といふ会話をしているのを聞きました。社会全般である事象の〝ウラ〟を探る動きが活発ですが、小説も例外ではないですね。いくら面白くても、ツクリモノの仕組みはいつか分析され、平凡な作為になってしまう。
自由詩の世界では一昔前の現代詩の発想法や書き方が完全に飽和に達して文学好きの読者からすら見向きもされなくなっていますが、それはある程度は小説界にも当てはまるなぁ。純文学・大衆文学双方で、ステレオタイプな発想法と書き方が完成に達して飽和し始めています。
小説は現実社会を描く芸術ですから、リアリティの有り様が生命線になります。このリアリティの発生のさせ方を、なんらかの形で更新しなければならない時期に達しているようです。小説を含む言語芸術を支えるのは技術ですから、それを学ぶのは大切です。しかしそれだけでは足りない。寅間作品のリアリティは学習して表現できるものではないようです。
■ 第04回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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