「新潮」と間違えそうな表紙の今月号は、対談と評論・ルポルタージュ特集といった構成だ。『芥川賞受賞記念対談』として黒井千次と田中慎弥、島田雅彦と円城塔が対談している。特集は『震災以後の国家、言葉、アート』で、玄侑宗久と佐藤優、高橋源一郎と開沼博が対談し、椹木野衣が美術評論を書いている。この他にも佐藤亜紀と松本徹が評論・評伝を掲載していて書き下ろし小説作品は少ない。年に一度くらいはこういう号があってもいいということだろう。
ただもう誰もが感じていることだから繰り返さないが、3.11を巡る文学者の言葉に重みはない。今、人々が争って読みたがっているのは現場の声であり、信頼できる専門家の言葉である。この「人々」の中には文学好きの読者や、今月号の特集で発言している文学者も含まれる。東日本大震災は、関東大震災と同様に、必ず一つの時代の転換点になると思う。ただその「転換点」の質が明らかになるのはもう少し先のことだ。
専門家であるかどうかは別として、批評家としての役割を担った人間は結論を急ぐ。現状を分析すれば一定の結論が必ず見えてくるからである。批評家はその結論によって現在を理解し、近未来を予測できると考える。しかしそれは錯覚だ。批評家が分析対象とする「現状」は限定されたものにならざるを得ないからである。現状の一側面の分析によって得られた予想はたいていの場合外れる。論理的整合性がある評論や対談は確かにスマートだ。だが大きな陥穽がある。無矛盾であっても真理に届いているとは限らない。
リアルタイムで発せられる文学者の言葉が無駄だとは思わない。しかしそれは途中経過報告のようなものだ。今に始まったことではないが、文学者の役割は現状を分析することにはない。現代的事象を引き起こす人間心理や時代動向の本質を明らかにすることにある。それはいつの時代も複雑怪奇な姿をしている。そのような現代を表現するためには、矛盾や混乱を含む小説や詩といった創作作品が必要である。対談の後に始まる作家の作品が常に一番重要なのである。
性暴力を振るう父への子の抗いを描く高卒の田中氏の受賞作「共喰い」には、同じ高卒で、戦後生まれ初の芥川賞作家、中上健次作品になぞらえる意見も出たようだが、果たしてそうか。(中略)「共喰い」では(中略)中上が芥川賞作「岬」や「枯木灘」などで描く、主人公秋幸と父との激しい血と汗の相克とは比べるべくもない図式的展開で、悪の向こうに光明もなかった。(中略)むしろ今回の受賞作では(中略)円城塔さんの受賞作「道化師の蝶」の方が(中略)挑発的だった。
(『鳥の眼・虫の眼(第八十五回)-「挑発と乱闘の歴史」』相馬悠々)
『文學界』には編集後記がなく、最後の1ページには相馬悠々の『鳥の眼・虫の眼』が掲載されている。目次上は連載コラムだが、編集後記だという印象を与える。少なくとも多くの読者がそう誤解しているだろう。文学インサイダーの文章だからである。今月号にはご祝儀企画である田中慎弥と円城塔の『芥川賞受賞記念対談』が掲載されているが、相馬は田中の作品は表面的に似てはいるが中上健次作品より劣る、また芥川賞を同時受賞した円城の方が作家としての力量が上だと冷や水を浴びせかけている。最後の最後で今月号の企画意図をひっくり返すような内容である。
相馬悠々が誰のペンネームなのかは知らない。よほど学歴コンプレックスが強いのか、必ずといっていいほど作家の学歴を言挙げし、学歴が低いなら低いで、高いなら高いで無用な嫌みを言いたがる。文学に学歴など関係ないはずだ。編集部の企画意図を踏みにじる原稿がすんなり掲載されているところをみると、純粋な外部ライターだとは思えない。可能性があるのは現編集長が頭が上がらない、悠々自適の生活を送る退職した重役編集者くらいか。田中慎弥が中上健次より劣るのか、円城塔より力量が下なのかには異論があるはずだ。相馬悠々の『鳥の眼・虫の眼』は不快だ。文学への愛が感じられない。作家はみな自分の発言に責任を負っている。ここまで無益で独善的な批判をするなら執筆者の名前を明らかにすべきだろう。
わたしたちはそれが正しいかどうかは別として、現状を分析し、他者の作品を批判することで、現代における自己の位置状況をできるだけ正確に把握するために批評を使う。時には厳しい批判を行うが、そこには文学全体をより良い方向に導きたいという大前提がある。読者には顔の見えない文芸誌の編集部も、基本的には同じ考えを抱いているはずである。しかし金魚屋の時評者たちがしばしば指摘しているように、純文学系の文芸誌は特定のカルチャーに固着しつつある。毎号のように相馬悠々は文学者たちに無責任な放言を浴びせかけているが、それに対して作家たちが、なにも反論できない、黙って耐えなければならないような土壌が既にできあがっているのなら、そんなものは即刻唾棄すべきである。
齋藤都氏は「「文壇」とは文學界のことだともいえる」と書いていたが、その勘違いを真に受けているのは『文學界』自身なのではないか。相馬悠々の編集後記モドキの文章はそのような誤解を与えかねない。「純文学など雑誌や賞に支えられた制度に過ぎず、作家よりも裏方の方が偉いのだ」とでも言いたげだ。しかし所詮は匿名ライターではないか。厳しい批評をしてもわたしは常に作家たちの味方だ。相馬悠々の批評はその内容も、なぜこんな批評を『文學界』編集部がすんなり掲載するのかも理解不能なのであえて批判した。今後は作品だけを読んでいくことにする。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■