「角川短歌」八月号では「保存版 大特集 没後五年 河野裕子の魅力 全歌集解説」が組まれています。河野裕子さんは昭和二十一年(一九四六年)生まれで平成二十二年(二〇一〇年)に六十四歳でお亡くなりになりました。夫は歌人の永田和宏さんで長男永田淳、長女永田紅さんも歌人です。没後直後に産経新聞社主催、京都女子大学共催で「河野裕子短歌賞」が設けられています。現代女流歌人で最も愛されている作家だと言っていいでしょうね。河野さんは生前に十五冊の歌集を刊行されたのですが特集では一冊ごとに解説が付けられています。歌集を一冊ずつ解説できること――つまり作品集によって大きな変化があることが河野文学の特徴だと言っていいかと思います。
今さらの説明になりますが戦後には現代短歌という新しい短歌潮流が起こりました。この〝現代○○〟はおおむね二つのベクトルに分けることができます。一つは戦前に文学が全体主義体制に巻き込まれていったことへの反省から生まれた社会批判詩です。もう一つは新たな言語表現を探求する詩です。歌壇では現代短歌と総称されますが俳壇では社会性俳句と現代俳句、自由詩壇では戦後詩と現代詩という区分けになります。もちろん社会批判派と言語派を厳密に分けることはできませんが多くの戦後詩人たちがその影響を受けました。今も「角川短歌」では安保法制などに対する批判歌を数多く読むことができます。また昨今話題の口語短歌は広い意味での言語派の試みだと言っていいかと思います。
〝現代〟短歌・俳句・自由詩の動きは一九五〇年代半ばから始まったので一九四六年生まれの河野さんはその熱気の渦中にはいなかったと思います。ただ遅れて文学界に登場してきた多くの青年・少女が現代文学の巨匠たちの影響を受けました。それは一九八〇年代初頭まで続いたと思います。しかし河野さんはほとんど前衛的現代文学運動の影響を受けていないのです。少なくともその作品から影響を探るのは難しい。河野さんに現代短歌を含む戦後の前衛文学運動を嫌った節はありませんが結果としてそれは作家の強い意志に基づいていたと言えるのではないでしょうか。河野さんは基本的にはひたすらに自己の内面を詠んだ歌人です。その現代性は現代文学運動のそれとは質が違います。
現代に生きる作家は過去の歴史を踏まえて作品で現代を表現してゆく義務を負います。作家は骨董のように過去作品を愛でるのではなく新たな〝現代性〟を吹き込んで生きた文学として作品を不断に更新してゆく義務を負うのです。ただ今は何が最も現代的表現なのかなかなか見えて来ない時代です。社会批判では反対の声がよく通りますがそれが絶対ではないことをわたしたちは知っています。また口語短歌に代表される言語派の試みが今後どうなるのかも不透明です。口語で短歌を詠むことは確かに短歌人口を増やす力になりましたが詠まれている内容の多くは個の孤独です。文語という従来の流れを断ち切ることで個の孤独が際立つようになったわけですがそれは昔ながらのテーマです。内容・形式面で未来につながるような新たな試みは未だ試行錯誤の段階にあります。
乱暴な言い方をすれば河野さんの作品は従来の短歌史では〝後衛〟に分類されるかもしれません。少なくとも斬新さを求める歌人たちの目を奪うような作品は書いていません。しかし多くの歌人が河野さんの短歌に〝なにかある〟と感じているのは面白い現象だと思います。河野文学の評価が高まっているのは歌人たちの嗅覚がそこに何かを嗅ぎつけているからでしょうね。言い換えれば戦後的な〝前衛〟と〝後衛〟の概念が崩れ始めているのかもしれません。歌人たちが河野さんの歌に惹きつけられるのはそこに今までとは違う新しい表現(前衛)の可能性があるからだと思います。
みごもりて宿せる大きかなしみの核のごときを重く撫でゐつ
(第二歌集『ひるがほ』一九七六年)
必ずや吾を喰ひつくす男なり眼をあけしまま喰はれてやらむ
(第三歌集『桜森』一九八〇年)
路地の奥の夕映だまりに影ふみてかつてはわれでありし子遊ぶ
(第四歌集『はやりを』一九八四年)
しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
(第五歌集『紅』一九九一年)
さびしいよ息子が大人になることも こんな青空の日にきつと出て行く
(第七歌集『体力』一九九七年)
コスモスの花が明るく咲きめぐり私が居らねば誰も居ぬ家
(第八歌集『家』一九九七年)
左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵大なり
(第十歌集『日付のある歌』二〇〇二年)
誰か居てわたしは怖い 母が死ぬ真水の底のやうなこの部屋
(第十三歌集『母系』二〇〇八年)
何年もかかりて死ぬのがきつといいあなたのご飯と歌だけ作つて
(第十四歌集『葦舟』二〇〇九年)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
(第十五歌集『蟬声』二〇一一年)
こうやって句集順に短歌を読み進めると河野さんの人生が鮮やかに浮かび上がってくるのがわかります。結婚し妊娠して子供を産みやがて夫婦の中年の危機が訪れます。それを乗り越え子育てに励み子どもたちが大きくなって賑やかだった家が以前よりも静かに感じられる。河野さんは乳癌がみつかりそれが元でお亡くなりになったわけですが第十歌集『日付のある歌』からは闘病と孤独を詠んだ歌が増えてきます。河野文学の句集ごとの変化は実生活の変化に即していると言っていいでしょうね。
江戸時代までの作家と違い現代作家はやろうと思えば若書きから晩年の作品まで全てを渉猟することができます。現代作家の寿命は長くなっていますから書き続けていれば膨大な作品が残るわけです。しかし技法やテーマによって作品集にはっきりとした変化を付けるのは限界があります。実生活での変化を作品に織り込だ方が変化は付けやすいのです。またそれは多くの読者も経験した生活上の変化であり共感を呼びやすい。河野さんの短歌のポピュラリティはまずこのような実感短歌によって生じています。
ただ河野さんは実生活を詠もうと思って詠んでいるわけではないと思います。強く意図して実生活を主題にしているわけではない。少し奇妙な言い方になりますが河野さんの歌には表現者としての野心がほとんど感じられません。同時代に存在した斬新な技法や主題はすべて頭の上を素通りし彼女にとって大事なものだけを最初から最後まで見つめ続けている気配があります。誤解を恐れずに言えばそれは社会性を含めた彼女の〝女性性〟です。
この河野さんの女性性は原則として男性性――つまり権威などを含む男性社会にはちっともはみ出してゆかない。もちろん河野さんは表現者であり自分の作品を評価されたいという気持ちをお持ちだったでしょうが比喩的に言えば平安女流歌人と同じように男社会の論理をばっさり切り捨てているかのようです。男女平等は揺るぎない社会的権利ですがそれを文学の世界にまで援用する必要はありません。河野さんの構えは基本的に非常に狭い。しかしその狭い女性性から河野文学は広大で茫漠とした表現地平に抜けてゆくのです。
火の如きわれにはつひにあらざりきひざ抱きて夜の湯に瞑りをり
死ぬことのあるゆゑながき一瞬をめがねやのめがねにわが映りゐる
(第一歌集『森のやうに獣のやうに』一九七二年)
鬱がちの家系の尖に咲きゆるび茗荷のはなのごときわれかも
(第四歌集『はやりを』一九八四年)
死は生身死なば死もまた死ぬるなりまみづの色の月のぼり来ぬ
(第六歌集『歳月』一九九一年)
もういいかい、五、六度言ふ間に陽を負ひて最晩年が鵙のやうに来る
(第七歌集『体力』一九九七年)
今死ねば今が晩年 あごの無き鵙のよこがほ西日に並ぶ
(第八歌集『家』一九九七年)
気を抜けばがらんどうになるゆゑにあを空のした影締め歩く
一寸ごとに夕闇濃くなる九月末、寂しさは今始まつたことぢやない
(第十二歌集『庭』二〇〇二年)
むかしとは麦藁のやうな時のこと暗がりの中にやはらかく匂ふ
(第十三歌集『母系』二〇〇八年)
深く疲れよ 土か心か分からぬがそこより聞こゆ 深く疲れよ
(第十五歌集『蟬声』二〇一一年)
第七歌集『体力』は河野さん五十六歳の時の歌集ですがこの年齢で「もういいかい、五、六度言ふ間に陽を負ひて最晩年が鵙のやうに来る」という認識はいささか早いと思います。しかし河野さんの短歌には初期から死の影が濃いのです。もちろんそれは自殺願望といったものではありません。鬱がちの方だったようですがその暗さはむしろ作家の実存に即した諦念から生じています。第一歌集には「火の如きわれにはつひにあらざりきひざ抱きて夜の湯に瞑りをり」という歌が収録されています。河野さんはほとんど欠落と言っていいような空虚を抱えて浴槽に蹲っていますがそれは生来のものでしょう。その作家自身にとっても如何ともしがたい空白が河野短歌に特徴的な「寂しさ」を生んでいます。
河野さんは生活実感のある歌を数多く詠んだわけですがそこに技法的あざとさや主題選択的意図が感じられないのは本質的位相から彼女を脅かす空虚を日常的平穏によってなだめていたからではないかと思います。「気を抜けばがらんどうになるゆゑにあを空のした影締め歩く」という歌は病気で弱くなった心を詠んだ短歌では必ずしもないと思います。河野さんには最初から「がらんどう」の気配があります。この空虚に生活と歌が雪崩れ込んで来て満たしてくれる。生の初源から「深く疲れ」ていた人だったのかもしれません。河野さんの生活短歌が時に不気味なほどの強さを発揮するのはその底に空虚が横たわっているからでしょうね。
甕の水わが顔吸ひてとつぷりと納屋の暗がりに光りてゐたる
(第一歌集『森のやうに獣のやうに』一九七二年)
君が今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり
(第二歌集『ひるがほ』一九七六年)
たんぽぽのぽぽのあたりをそつて撫で入り日は小さきひかりを収ふ
一粒づつぞくりぞくりと歯にあたり泣きながらひとり昼飯を食ふ
(第六歌集『歳月』一九九一年)
光源はどこなのだらう壁づたひに踏み外さぬやうに歩いてゐるが
(第十二歌集『庭』二〇〇二年)
枕もとにふくろふが蹲りお嬢さんだつたのにねと言ふ
(第十三歌集『母系』二〇〇八年)
雨の日の藪の匂ひの中に煮る青魚の目の白くなるまで
(第十四歌集『葦舟』二〇〇九年)
のちの日をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで
(第十五歌集『蟬声』二〇一一年)
河野さんには「たんぽぽのぽぽのあたりをそつて撫で入り日は小さきひかりを収ふ」といった微細な言葉の表現と物の関係を捉えた歌があり「枕もとにふくろふが蹲りお嬢さんだつたのにねと言ふ」という幻視的な作品もあります。ただこれらの歌も技法優先で生み出されたわけではないと思います。自己の内面深く沈静してゆく意識がその底の空虚においてそれ以上解体できない小さな存在や現実にはいない幻視的存在に出会うのです。「のちの日をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで」の歌も家族宛の遺言歌というだけではないでしょうね。親などの近親者を見送った河野さんは「さびしさがさびしさを消しくる」ようにその生を重ねていたのだと思います。
技法も内容もオーソドックスな河野さんの歌には彼女特有と言える空虚が認められます。そのブラックホールのような空虚が彼女の生活短歌を華やかにし一方で不穏なものにしています。河野文学についてはしばしばオノマトペや重層表現や特徴的な格助詞の使い方が論じられます。しかし技法は技法に過ぎません。河野文学の技法を学ぶことは本質的な意味で短歌の新し味には寄与しないのです。
河野さんの短歌の断念に満ちた間口の狭さと一点突破的な文学的広がりは作家の資質と技法・主題の関係の大切さを示唆しています。どんな作家でも自らの資質に合った技法や主題を把握しなければ優れた表現を生みせません。また河野さんの等身大の自我意識を基盤した表現が魅力的なのはそれが短歌文学の基盤と通底しているからではないでしょうか。
乱暴な言い方になりますが短歌に限らずどの文学ジャンルも万能の表現ではありません。世界は多面的でありある文学ジャンルで表現するのにふさわしい主題と技法があります。河野さんの野心を感じさせない表現が新しさを感じさせるのはそれが短歌文学の本質と重なっているあるいは届いているからでしょうね。短歌の手にあまる大きな主題をそこに詰め込むのではなく小さな間口から大きな主題に到達するのです。河野さんの空虚もまた短歌全般の認識として敷衍することができますがそれについてはまた機会を改めて論じたいと思います。
高嶋秋穂