「角川短歌」六月号では特集「若山牧水生誕130年 今こそ牧水――「あくがれ」の心を求めて」が組まれています。近代短歌で一般読者に人気なのは与謝野晶子、石川啄木、若山牧水、北原白秋らの「明星」ロマン派の歌でしょうね。正岡子規、伊藤左千夫の根岸短歌会から始まる斎藤茂吉、土屋文明、島木赤彦らの万葉写生派はプロの歌人に人気があるようです。その理由は現在でも短歌界に茂吉「アララギ」の流れを汲む結社が多いからですがかといって歌人たちが党派的に明星派を毛嫌いしている気配はありません。明星ロマン派は明星ロマン派で魅力があるのですが彼らの文学を現代文学の風土にそのまま持ち込むのはなかなか難しいようです。
故郷と故郷外を愛するという、一見矛盾するかに見える心をそのまま持ち続けたのが若山牧水という人だった。二面性である。それも豊かな。
秋かぜの信濃に居りてあを海の鷗をおもふ寂しきかやな 『路上』
妻や子をかなしむ心われと身をかなしむこころ二つながら燃ゆ 『秋風の歌』
山を求めて山に行きながら、そこで海にあくがれている。家族を愛しながら、家族をおいて突然旅にあくがれ出かける。そして、今度は海に行けば山が恋しくなり、旅先では家族がむやみに恋しくなるのである。悩みは深いが、そんな二面性をもつ自分に牧水は決して否定的でなかった。いわば二人ぶんの自分を生きようとした。
(「こころの鉦を――あくがれ、親和力、原恩主義」伊藤一彦)
牧水の歌ですぐに思い出されるのは「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」「けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く」などでしょう。確かに伊藤さんが指摘しておられるような相反する指向が歌の中に表現されているのですがそれが矛盾しているかというとそうは思えないところが牧水の魅力です。牧水は現実生活では沼津の自然に惹かれ妻子をともなって移住して当地の千本松原伐採計画の反対運動もしています。ただどうも牧水の「あこがれ」は現実には存在しない非在のイデアに向けたものだったような気配があります。
牧水は水で、白秋は光だと思う。
二人は同年の明治十八(一八八五)年生まれ。同じく九州(牧水は宮崎県坪谷、白秋は福岡県柳川)出身で、ともに富裕な家庭で家族の愛情に恵まれて育った。(中略)早稲田大学文学科高等予科の教室で二人は出会う。(中略)その後二人は、二度まで同じ下宿に住むほどに親しくなっている。(中略)
芸術至上主義的なデカダンを内に抱えながら、一方で限りなく自然児に近い純粋さをもつ点で二人は共通し、また、歌ひとすじの牧水と多面的な活躍をした白秋とは正反対にあったとも言える。このプラス・マイナスのバランスが、二人の友情を長続きさせたのかもしれない。
(「牧水は水、白秋は光」小島ゆかり)
牧水が北原白秋と早稲田大学時代の親友で石川啄木とはその臨終に立ち会うほど親しい仲だったことはよく知られています。牧水、白秋、啄木は文学史上に名前が残るビッグネームですから交友関係が気になるのは当然ですが彼らはほぼ同い年です(牧水、白秋は明治十八年[一八八五年]生、啄木は十九年[八六年]生)。この世代には木下杢太郎(十八年生)や吉井勇(十九年生)も含まれます。表現のジャンルは短歌と自由詩(文語体自由詩)に分かれましたが彼ら明治十八、十九年生まれの詩人たちが相反する資質を持っていたとはちょっと思えません。むしろ共通した傾向があるようです。その源泉を辿ってゆくとやはり与謝野鉄幹・晶子の「明星」に行き着くでしょうね。ただ「明星」の文学的総括は簡単ではないです。
「明星」は晶子を中心にして論じられることが多いですがそのベースを作ったのは鉄幹です。鉄幹的なロマン主義が晶子を始めとする「明星」派の歌人や詩人たちを生んだのだと言っていいと思います。しかしこのあたりの経緯がまとめにくいのです。よく知られているように白秋は高等学校時代から「明星」を愛読しており上京後同人になります。そこで才能を見出され未来の「明星」を担う新人と見なされるようになりますが「明星」入会からわずか二年後の明治四十一年に吉井勇ら七人とともに脱会してしまいます。鉄幹文学は白秋ら若い詩人たちから見切られたのだと言っていいでしょう。またこの頃から文学者としての鉄幹の活動は翳りを見せ以降は壮士的政治家や教育者として活動してゆくことになります。孫の与謝野馨さんが政治家になるだけの背景があるわけです。
では鉄幹が「明星」初期に若い詩人たちを惹きつけた思想的なものとはなんだったのでしょうか。それは文字通り茫漠としていると思います。鉄幹の処女作品集は『東西南北』で歌集ということになっていますが新体詩(自由詩の祖型)も含まれます。内容も統一性がありませんが文字通り東西南北に広がるような気宇壮大な思想(のようなもの)が表現されています。この極めて向日的かつ楽天的な文学の可能性(の示唆)が「明星」ロマン主義の原点になったと思います。白秋らは短期間で鉄幹的ロマンの底の浅さを見抜き当時最新のヨーロッパ象徴主義に惹かれてゆきます。しかし鉄幹的な茫漠としたあるいは希薄で抽象的なロマン(への憧れ)は白秋らの世代にいつまでも残ったと思います。
詩人としての白秋が歌人として完結してゆく過程の中に、最もエネルギッシュに試みられたものは韻律の試みであったといえる。詩から短歌へ、さらに歌謡から童謡へと、ごく自然に作詞の幅を広げていった流動性に富んだ活動の源は、すべて敏感にして柔軟な韻律感覚にあるといえる。白秋が詩の世界に追尋したあえかな感覚の、捉えがたいものの捉えは、その感覚性の微細な交響に特色をみせただけでなく、それがつねに韻律の試みとともになされたところある。白秋にとって、韻律とはまさに思想そのものに値する発見であったにちがいない。
(「思想としての韻律」馬場あき子)
馬場あき子さんは実にすぐれた北原白秋論を書いておられます。その中で馬場さんは白秋文学の核心は「柔軟な韻律感覚」にあり「白秋にとって、韻律とはまさに思想そのものに値する発見であったにちがいない」と述べておられます。白秋は象徴主義詩人ということになっていますがそれは本家マラルメらのサンボリズムとはほとんど関係ありません。彼の処女詩集は『邪宗門』で江戸時代は禁教だったキリスト教を題材としていますが思想表現は皆無です。ただひたすら異国趣味のアトモスフィアが表現されています。
この韻律を思想として捉える文学の在り方は白秋ばかりでなく若き日に鉄幹「明星」の薫陶を受けた啄木や勇、杢太郎にも確認することができると思います。杢太郎は白秋の作品を批判して「中身がない」と言いましたがその文章を読むとまるで杢太郎による木下杢太郎論のようなところがあります。また啄木は「時代閉塞の現状」を書き社会主義などに強い興味を示しましたが彼の最良の作品が韻律の魅力で成立しているのは確かなように思われます。
この韻律を思想として捉える文学――言い換えると茫漠とした「あこがれ」(非在のイデア)に沿って言葉を滑らかに心地良く配置してゆく方法が現代ではなかなかに難しくなっているのは当然だと思います。邪宗門であれ社会主義であれ未知のものに仮であれ美しいイデアを見出すことは現代ではほぼ不可能です。ただそれを為し得た(信じ得た)のは「明星」の系譜では男の子ばかりです。女性で「明星」を代表する与謝野晶子になるとロマンといっても実に地に足がついた作品になっているのは面白いところです。
このような傾向はもしかすると口語短歌にも指摘することができるかもしれません。男の子の口語短歌には抽象的作風が多くちょっと子どもっぽいような記憶や体験を拠り所に作品を仕上げている場合もしばしばです。それに対して女の子の口語短歌には生活の手触りがあります。別に喧嘩や論争をけしかけているわけではないですが女の子の口語短歌歌人たちは一度男の子に「子どもっぽくてバッカみたい」と言ってみても面白いかもしれません。男の子たちは案外嬉しそうな顔をするかもしれませんよ。
高嶋秋穂