小説は基本物語に沿って進行しますから、現代詩みたいにチンプンカンプンってことはまずないわね。それにアテクシを含めて大半の読者は善良よ。小説を読むにはそれなりに時間がかかりますし、今の時代になってもそこはかとなくブンカの匂いが漂いますから、一冊本を読み終えると自己満足が得られるの。そりゃあ三分の一くらい読み進んで「しまった」と思うこともなきにしもあらずですけど、たいてい読み通しますわ。あまり面白くなかったとしても、読み終わった時点ではなんとか良かったポイントを見つけ出しているものよ。時間を無駄にしたと思いたくないし、それに忍耐力の鍛錬にはなったわけですからね。
でも中にはわからない小説ってあるわねぇ。必ずしも内容が難しいってことじゃないのよ。前衛的な作風で、作家様の意図が捉えにくいってことでもないの。内容の難しさなんて相対的なものですし、小説は形式的に固い表現ジャンルですから、前衛的って言っても通常の小説オーダーのどこを外しているのか見当がつけば、たいてい底は浅いわよ。アテクシがわからないって思う小説は、作家様の存在格が揺れているようなお作品ね。小説のように形式がきっちり決まっていて、基本、通俗な表現ジャンルでそういった存在の揺れが表現されると、読んでるアテクシまで不安になっちゃうようなところがござーますわ。
二作目と並行して取り組んでいた短篇が完成した。大学時代、北川の忠実で大人しいロバであった自分を思い出し、自嘲したものをまとめたものだった。出来上がったので、気晴らしに友達と飲みに行き、そこで、嗚呼! 実体験がフラッシュバックしてしまった。
二杯目のロングアイランドアイスティーで記憶は途絶えているが、さぞくだを巻いたに違いない。彼女らは皆、当時の北川の崇拝者だった。しらふで分別がついていたら、北川を悪者にして、彼女らまでをも敵に回すような愚かな真似はしなかったはずだ。
もうわたしはなにもかも承知している。わたしを抜きにした茶話会、すなわちその飲み会の反省会が催されるだろう。彼女らはいう。「ミササヨ、大人げないよね、昔の彼氏の悪口いうなんて。北川君だって悪気はなかったのに。え? これがアサイーデトックスハーブティー。ふうん」
(『選ばれし壊れ屋たち』鹿島田真希)
鹿島田真希先生は芥川賞作家でいらっしゃいます。業界三大手のもたれ合いの気配なきにしもあらずですが、純文学の世界では三島由紀夫賞(新潮社主催)、野間文芸賞(講談社主催)、芥川賞(文藝春秋社主催)が権威ある小説新人賞ということになっていて、この三賞を総なめにした作家を新人賞三冠作家と呼んだりします。鹿島田先生は笙野頼子先生以来の三冠作家様よ。通常芥川賞作家様は「文學界」などの純文学系文芸誌を中心に執筆なさり、「芥川・直木賞作家特集」を組む時くらいしか「オール讀物」には登場なさいませんが、鹿島田先生は「オール」様にも旺盛に書いておられます。
だけど鹿島田先生の、特に「オール」様掲載のお作品はよくわからないのよねぇ。『選ばれし壊れ屋たち』の主人公は、新人小説家の見崎沙代子、通称「ミササヨ」です。ミササヨは大学時代に、当時はとても優れた知性と感性の持ち主だと思っていた北川と付き合っていました。今はその影響から脱し、大学時代の「北川の忠実で大人しいロバ」だった自分を「自嘲」した短篇小説を書きました。脱稿とほぼ同時に大学時代の友人と飲みに行き、酔ってよく覚えていませんが、北川を罵倒するようなくだを巻いてしまったのです。
作品冒頭には飲み会で一緒だった友達宛のメールが掲載されていて、「もしかしてわたし、みんなに絡んじゃったりしてない? いや、実に申し訳ないっ。大学時代の友達と会ってると、どうしても昔の恨みつらみが爆発してしまって」とあります。これ自体は普通の謝罪文ですが、署名は「みんなの小さき壊れ屋、見崎沙代子。」になっています。この署名が作品タイトルになっているのですが、「みんなの」は引っかかりますね。ミササヨは北川批判をしたことで、大学時代の友人たちから煙たがられていることを十分自覚しています。友人たちの中では異分子で、孤立した存在なのです。だけどなぜわざわざ「みんなの」と名乗るのでしょうか。
またお作品では主人公と北川の関係が掘り下げられていません。大学時代、北川は彼を中心としたサロンを作っていました。しかし北川がなぜ魅力的だったのか、なぜ主人公がそれに反発したのかは十分に描かれていないのです。「世界経済を蝕むイデオロギー」について得々と語る北川を、ミササヨは「じゃあ、少しはアルバイトでもして、たまにはここの飲み代払いなよ」と批判します。しかし友人らは「賃金とか、対価とか、そもそもそういう難しい話をする場所じゃないんだよね」と言って、極めて真っ当なミササヨの意見の方を批判します。読者はその理由を知りたいわけですが、作品では主人公と北川の不思議な関係は最後まで謎のままです。つまりそれを描くのは、このお作品の目的ではないということです。
完全に打ちのめされた。まさに致命傷。意見の衝突から生まれる、あの正々堂々とした闘争はもはやそこには存在しない。とにかくあなたのやっていることは場違いです、と束になってあざ笑う人々。そこに放り込まれてしまった時に感じる恐ろしいほど強い孤独。場を制した北川が、自分を見下ろすかのような表情をしていた。
(同)
このような箇所に鹿島田先生のお書きになりたい主題があるのだと思います。北川は一つの例、あるいは口実に過ぎないのです。重要なのは「完全に打ちのめされた。まさに致命傷」という感覚、あるいは「束になってあざ笑う人々。そこに放り込まれてしまった時に感じる恐ろしいほど強い孤独」です。それは論理ではありません。鹿島田先生は唐突に人に襲いかかかってくる、理不尽なほど決定的な孤独や疎外感をこそ表現なさりたいのだと思います。
氷川だいあ、金子さんから話を聞いた時、イカれた女だと思った。家はゴミ屋敷なのに、男を見ると自分に惚れてると思い込むナルシスト。一方、サイン会でファンに囲まれても、突然憂鬱になってしまう。自己愛と自己卑下。愛されていると愛されていない。矛盾に引き裂かれながら発表する作品は、作者の自意識を感じさせない。切り貼りのようなタッチ。常に変人扱いされて、マインドクラッシュしていて、自分の存在についてとうとう、わからなくなると、突然、虚しくなって、百円ショップで特に欲しくないものを衝動買い。
この人の中で、どれだけ自尊心がぽきぽき折られてきたことか。どれだけ自暴自棄になりながら、創作、アルバイト、酒、すなわち生という営みにしがみついてきたことか。
(同)
氷川だいあは主人公の担当編集者・金子から紹介された女性漫画家です。ただ漫画一本ではまだ食べていけず、アルバイトをしながら漫画を描いています。氷川はなぜか主人公の行く先々でアルバイトをしていて姿を現すのですが、その謎もまた大した問題ではないです。言うまでもないことだと思いますが、氷川の人物描写はそのまま主人公ミササヨの心理です。フィクショナルな誇張はあると思いますが、その本質は鹿島田先生自身の心理にも重なっているでしょうね。
氷川だいあ、あるいは鹿島田先生の作品が、「自己愛と自己卑下。愛されていると愛されていない。矛盾に引き裂かれながら発表する作品は、作者の自意識を感じさせない。切り貼りのようなタッチ」になっているかどうかは正直なところ疑問です。むしろ異様なまでに肥大化した自意識を感じさせます。彼女らは最初から『壊れ屋』であり、かつどんな形であれ少数の『選ばれし』者たちであることを望んでいます。彼女らは自分の自我意識だけを見つめて壊れ、しかし他者を心から希求している寂しい人たちです。このようにあえて純粋に壊れてゆこうとする心は誰もが少しは持っているものだとは思います。ただ通常の人間社会は主人公や氷川だいあのような自意識過剰な人を嫌います。そのミーイズムが相対化できていないので、彼女らは真っ当な意見を言っても他者から感情的に反発されるのだとも言えます。
鹿島田先生のお作品は、「オール」様用に軽いタッチで書かれてはいますが、大衆エンタメ小説ではなく純文学作品です。このようなお作品が「オール」様に掲載されるのはとても良いことだとは思いますわ。アテクシ、本当のところ、わからないとは思いますが、鹿島田先生の作品を理解したいとは思っておりませんの。こういった心理を抱えて苦しんでいる人は確かにいます。それを描くのも小説の役割よね。
佐藤知恵子
■ 鹿島田真希さんの本 ■
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