小説の読者は圧倒的に女性が多いですわね。もちろん女性読者が多いからといって、女が主人公の物語の方が読まれるわけじゃありませんわ。うるさく言えばジェンダー的な差異に過ぎないということになるでしょうけど、小説では男性登場人物がになう役割は社会的な方がしっくりくるのよ。平たく言えば会社人間ね。社会的コードに敏感で、その中で勝ったり負けたりするのが男ってものよ。それに対して女はやっぱり海かしら。母性の意味もあるけど、塩水だから男が信じてる社会的コードの枠組みを、土台から錆びさせて壊しちゃうの。この男女の役割をそっくり逆にすることもできますが、大衆小説ではあまり意味がありませんわね。今のところ現状社会の実態にそぐわないもの。
女性作家様が男性登場人物を描きにくくて、男性作家様が女性登場人物を描きにくいということは当然あるでしょうね。でも作家が同性を描く場合でも、魅力ある登場人物になる場合と、なんとなく嫌な感じがすることがございます。現実の人間に近くなればなるほど、ちょっと嫌な感じがしますわね。もちろんそれも小説のテクニックですが、主に純文学系の作家様がお使いになることが多いですわね。大衆エンタメ小説の主人公は、もうちょっと前向きの考え方を持っていた方が読者受けがいいと思いますわ。主人公の性格を、少しだけ現実の上か下に移すのよ。大きな事件が起こらなくても日常を相対化している主人公は、ヒーロー・ヒロインの資格がございます。
麻由美は、後ずさりしながら向きを変え、もうもうと煙を出して肉を焼き続ける奇妙な一団に向かって、戻って行くしかなかった。肉が皿から滑り落ちた。走ってきた車が速度を落とし、教団施設と麻由美を眺めて去って行った。施設の二階の窓から視線を感じた。麻由美は顔を上げて悠介を探したが、いなかった。
徹夫が腕組みをして立っている。冷たく細長い影に麻由美は緊張した。徹夫は麻由美に寄ってきて耳元で小声で囁いた。
「なにやってんだよ、相変わらずバカだなオマエは」
徹夫の顔を見つめながら、この人が私の夫なのかしら、と麻由美は夢の続きを見ている気分になった。私が結婚したのは誰だっけ、この人だっけ。
「奥さん、中には入れてもらえなかったでしょう?」
山本氏が望遠レンズで信者たちの顔を狙いながら言った。
「妻はいつも無謀でひやひやさせられるんですよ」
営業マン時代のあの笑顔で、徹夫は横にいる麻由美に言った。
「気持ちはわかるけど無茶するなよ」
(『ピクニック』田口ランディ)
田口ランディ先生の『ピクニック』は、一人息子がオウム真理教がモデルとおぼしき新興宗教教団に入信してしまった麻由美と徹夫夫婦のお話ですわ。言うまでもなく田口ランディ先生は女性よ。同じように娘息子を教団に取られてしまった家族が集まって、被害者親族会が結成されます。その中のメンバーの一人が、信者たちが共同生活を送る教団施設の前で、バーベキューパーティを開くことを提案します。強硬手段に訴えても子どもたちを奪還できないのなら、彼らが好きだった肉や魚を焼いて、その匂いで家庭の温かさを思い出させようという作戦です。夫の徹夫はこの作戦に懐疑的ですが、妻の麻由美とともに参加することになります。
「相変わらずバカだなオマエは」とあるように、徹夫はモラハラ傾向のある夫です。恋愛期間中は優しかったのに、結婚した途端、麻由美を馬鹿呼ばわりして邪険に扱うのが日常になっています。夫婦仲はとっくに冷え切っているのですが、息子の悠介のために離婚など考えずに暮らしてきたのでした。悠介は平凡過ぎるくらい平凡な息子でしたが、夫婦は彼が大学を卒業して人並みに就職し、結婚することを期待していたのです。しかし悠介の教団入信で夫婦のバランスが崩れます。
バーベキュー作戦は当然のことながら失敗に終わり、家族会のリーダーは、「また来ましょう。みなさん、諦めずに、根気よく。私たちが諦めたら終わりです」と言います。麻由美は「私に悠介が救えるのかしら。ましてや夫に、悠介が救えるのかしら」と考えます。麻由美はメガホンで教団施設内にいる息子に呼びかけました。焼いた肉を持って施設の門まで行き、門番の青年と押し問答もしたのでした。しかし徹夫は彼女の行動をなじるだけで、何一つしようとはしなかったのです。
「おい、ちゃんと水筒を出しておけよ。喉が渇くだろう。こっちは運転しているんだ。まったく気が利かないな」
麻由美は、真っすぐ前を見たまま言った。
「自分で用意したら? 子どもじゃあるまいし」
徹夫は、驚いて「な、なんだと」と麻由美を見た。
「脇見運転は危ないわよ。どうしたのよ水筒くらいで大騒ぎして・・・・・・」
「オマエは、誰にむかってものを言っているかわかってるのか」
わかっている。もちろん、わかっているわよ、アナタ。
徹夫はギャアギャアと、麻由美をなじり続けた。
麻由美は、ずっと、遠くなる富士山を見ていた。
(同)
読み切り短編小説という枚数制限のせいか、ちょっと唐突に感じられますが、とにもかくにも麻由美は結婚以来、初めて夫にあらがいます。その意味で『ピクニック』は専業主婦のビルドゥングスロマンですわね。今までの日常がちょっとだけ相対化されたのよ。ただ家族という日常を最初に相対化したのは息子の悠介です。彼は家を出て教団施設に入る前に、父の徹夫に、「父さんは、いったいなんのために生きているのですか?」と問いかけ、母の麻由美に「この家は、毒に満ちている」と言ったのでした。その意味では悠介と麻由美の〝覚醒〟は、方向は違うけど現状からの脱出のためのものです。
「父っちゃは、兄ちゃんどらに漁師継がなくていいって言ったんだってよ?」
勢いをつけて母っちゃを振り返る。驚くかと思ったのに、「そうね」と目を伏せた。
でもたぶん私は分かってた。そんなことくらい、母っちゃは承知の上だって。(中略)
「なして私、女に生まれでまったかなぁ」
なにげなく呟いてみて、はじめて気づいた。父っちゃが語る男のロマンとやらの、ものの数に私は最初から入っていない。いくら漁師を継がなくていいと言ったって、兄ちゃんたちには少しくらい期待しただろう。でも私には、はじめからそれがない。(中略)
「あんたね、私がなんで気張って七人も産んだと思ってらの。あんたが男だったら、八人目にトライさせられでらじゃ」(中略)
「そこまで頑張らなくても」
「だって、しょうがねっきゃ。父っちゃたら、『大人になったらパパと結婚する』って娘に言われでみたいんだって、泣いて頼んでくるんだして」
「そんたな理由で、七人も?」
「そうよ。愛でしょ」と、母っちゃはなぜか得意げに胸を張った。
「馬鹿みで」
言葉とは裏腹に、頬にじわりと笑みが広がる。そんな父っちゃは私に「マグロ漁師さなる!」と言われて、さぞ面食らったことだろう。
(『HERO』坂井希久子)
坂井希久子先生の『HERO』の主人公は、青森に住む高校二年生で十七歳の奈美です。七人兄妹の末っ子で、兄たちと同じように剣道部に所属しています。明るい女の子なのですが、高校を出たらどうしようという将来の夢などは持っていません。奈美は「このままだらだらと、十七歳が続けばいい。キツいとぼやきながら朝練に出て、一時間目は疲れて爆睡。(中略)そういう退屈な日常が、永遠に引き延ばされてくれないだろうか。だって高校を卒業したら、もっと退屈に違いないから」と考えるばかりです。
明るく活発な剣道女子なのに、翳のある奈美の心の内は、小説後半で解き明かされます。マグロ漁を男のロマンだと言う漁師の父親と、漁師町のやんちゃな六人の兄たちに囲まれた奈美は、子どもの頃から父や兄たちに憧れてきたのでした。兄たちが剣道部だから自分も剣道部に入り、知らず知らずのうちに彼らの仲間になろうとあがいてきたのです。奈美は父親と同じマグロ漁師になりたいと思っていたのでした。
「なして私、女に生まれでまったかなぁ」という奈美の言葉は甘酸っぱいですね。これもジェンダーだと言いたければそう言えばいいのですが、たいていの女の子が一度は感じる感覚ではないかと思います。でもそれを通過儀礼として、女の子は女の子独自の道を歩んでゆくのよ。たいていの男の読者はなんの感慨もなく読み飛ばし、女性読者の心には引っかかる箇所よね。
もちろん小説ですから奈美の心理描写はフィクションです。十七歳の高校二年生の時に、奈美のような純粋な感覚を持てる女の子は現実には存在しないでしょうね。理屈で言えばそれは、後から振り返った濾過された感情です。でも十七歳の時にそういう感情を持っていなかったわけではありません。小説はそれを鮮やかに抽象化して表現してみせるのです。
奈美ちゃんよりもう数倍は生きていますけど、こういった感情はアテクシも思い当たるわぁ。十七歳頃の男の子はまだじゃれ合っている子どもですけど、女の子は大人よ。十七歳くらいでもう完全に大人の人格ができあがっていると言ってもいいかもしれませんわね。つまりすべての女は十七歳の女の子なのよ。無敵のオバサンを自認するアテクシの中にも、十七歳の女の子がいるってことですわぁ。永遠の十七歳って素敵っ!。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■