ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.028 シェイクスピアと世阿弥の間―能『ロミオとジュリエット』』をアップしましたぁ。12月8日に国立能楽堂で上演された現代能の劇評です。能楽の基本は古典ですが、ラモーナさんは『「現代能」と呼ばれる舞台作品は能演目を拠り所とする現代演劇の一種である。また「現代能」とは別に、能楽の仮面、構えや型の一部の動作、能舞台の構造、「夢幻能」といった枠組み、「死者との対話」という特殊なモチーフなどを自由に取り入れた舞台もある』と書いておられます。
〝ロミオとジュリエット〟形式の欧米作品は数多くあります。シェイクスピア作品は男女の純愛モノですが、現代に舞台を移せばそれなりに生々しい愛欲モノになるでせうね。例えばリリアーナ・カヴァーニ監督の映画『愛の嵐』やトリュフォー監督の『隣の女』などもロミオとジュリエットモノの範疇に入ります。男女間の愛憎にまみれた物語であろうとロミオとジュリエットモノになり得るわけです。
んでこういった純欧米的な演劇を能楽として上演するとどーなるか。ラモーナさんは、『新作能を制作するに当たっては、能が能であるための形式の機能に十分配慮しながら、素材になる物語を解体して能の構造に合わせる作業を行わざるを得ない。新作能『ロミオとジュリエット』もそれは同じだった。しかし今回は『ロミオとジュリエット』をあえて原作に沿って現在能として上演することで、能の様式が果たす機能がより明確になったと思う』と批評しておられます。シェイクスピアは能楽に飲み込まれたんですなぁ。
新作能の制作・上演には高いハードルがあります。シェイクスピアのような洋物を題材にする場合、その内容を能楽に合わせるだけでは不十分だと思います。シェイクスピア戯曲の思想(ヨーロッパ思想)と能楽の思想(日本的思想)の摺り合わせが必要でせうね。男女愛の解釈が自殺と亡霊(幽鬼)に分かれるわけですが、その原理を理解し大胆に原作を再構築しなければ、本当の意味での新しい作品を生み出すことはできなひのではないでせうか。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『No.028 シェイクスピアと世阿弥の間―能『ロミオとジュリエット』』 ■