Interview of gold fishes 第16回 馬場あき子『日本文化の底流を流れるもの(前編)』をアップしましたぁ。現代短歌界の巨匠のお一人、馬場あき子さんのインタビューです。以前から文学金魚の詩誌時評などで話題になっていますが、短歌・俳句・自由詩の三つのジャンルから構成される日本の詩の中で、今一番元気があって最も面白い動きが生まれているのは短歌界です。穂村弘さんらに代表される若手口語短歌と、馬場さんらに代表されるベテラン作家がうまく組み合わさり、相互に良い影響を与えながら新しい短歌を模索しています。中でも馬場さんは、現代短歌と古典を行き来できる数少ない作家のお一人です。なおインタビューには文学金魚で演劇批評とエセーを連載しているラモーナ・ツァラヌさんにも加わっていただきました。
インタビュー中で金魚屋から『歌人としても批評家としても馬場さんが面白のは、日本文化の原理から出発されているところです』という発言がありましたが、馬場さんは歌人として一流なのはもちろん、お能批評の大家でもあります。その実践に基づく知見は恐るべきものがあります。今回のインタビューでも短歌文学はもちろん、お能について馬場さんにお聞きしました。インタビューを通読していただければ、お能という文化がどういうものなのか、おぼろげながらご理解いただけるのではないかと思います。
文学金魚を長くお読みの読者の方はおわかりかもしれませんが、文学金魚は馬場さんのような作家が大好きなのであります。文学者を含む創作者がミーイストであるのは当たり前です。強い自我意識がなければ作品を発表できません。誰がなんと言おうと、といった自負も必要です。でもそれだけではダメです。ある意味どうしようもないミーイズムが、どこかで〝公的な側面〟に抜けていなければ本物の作家とは言えません。日本文化、日本的精神に寄与しようとする、個の創作意欲を抜けた公的な姿勢が必要です。わたしたちが過去の大作家に偉さを感じるのは、そのような公的側面です。現代はミーイズムの時代になりつつありますが、そういった文学者の公的な社会的役割を再確認する必要があると思います。
文学不況で苦しい状況にあるのは短歌界も同じです。ただ短歌界が総力をあげてその苦境を打破しようとする動きを見せているのに対して、俳句や自由詩の詩人たちはその逆に、既成の権威や利権にしがみつく姿勢が強いと思います。抜本的な構造改革が必要です。またそのためには意識改革が必要です。俳句や自由詩は俳壇や詩壇のためのものではなく、文学なのだと心の底から認識把握しなければなりません。初歩的レベルの認識ですが、それを我が物とするのは俳人・自由詩の詩人にはとても難しく、抵抗感も強いでしょうね。しかしできるはずです。そういったお考えをお持ちの方は文学金魚はWelcome!ですよぉ~(爆)。
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