確かに文学は変容した、と目次を見て思った。端的に言って、“ 滅びた ”というかたちでの変容だが、いっそよいかもしれない、とも思う。変わり果てた、なとど嘆く必要はない。そもそも近年のあり様は、持続させるに価するかどうか甚だ怪しかったのだから。
一番はっきりしているのは、「又吉直樹さん芥川賞受賞記念 緊急レポート」という見出しだ。お客さんでもないかぎり受賞した作家に「さん」はいらないし、お客さんだとしても芸人に「さん」はいらない。何かトラブルでもあって、新聞に載ったときみたいな異和感がある。
実際、「緊急」とは想定外のトラブルの様相を呈しているが、芥川賞の発表は年二回の恒例行事だ。受賞者は例によってもう一人いるのだし、ならば受賞者本人がそれを「記念」するならともかく編集部が一方の受賞者の受賞のみを「記念」する、どんな理由があるだろう。さらに編集部という業界インサイダーにとって、又吉直樹の受賞が想定外の「緊急」事態であったはずもない。
しかし文芸誌の仕様そのものは、とりたてて変わってないとも言える。インサイダーがしゃしゃり出てきたり、その都合を前面に押し出して恬として恥じなかったり、というのは何も文芸誌にかぎったことではない。その程度がひどくなったのも時代のなせる業であって、文芸誌は他のメディア同様、時代を映しているだけだ。文学そのものがそこにはもう見当たらない、ということも含めて。
ここでの文学そのものとは何かと言えば、単純に精神である。作家それぞれが執筆に向かうとき、精神が完全に失われている、というわけではない。器の大小はあれ、作家はそれなりの精神を有している。それを受けとめたい読者もまた大勢いるからこそ、芥川賞受賞作が200万部も売れたりする。
それでも文学が、少なくとも文学を担う中枢の一部が失われたと感じるのは、そのような作家の精神を最初に受けとめる最良の読者としての編集部の機能が働かなくなっているからである。編集部が最良の読者であるために必要なものをもはや保持しようとしないのには、理由があるだろうが。
信頼に足る読者=編集部には、判断の基準があった。それは「分をわきまえる」といった社会性である。それによって作家たちは安定した評価と立ち位置を与えられ、不満はあっても結果的に物書き生命を延ばすことになった。それだけの社会的責任を負っている編集者自身もまた分をわきまえ、作家に対してずけずけ言っても、自分たちの存在を優先させることは、少なくとも表向きはなかった。
「貧すれば鈍する」という言葉がある。誰にもそれは責められない、と思われると同時に、そんな普通の人が書いたものなど誰も読みたがらない、これもまた当然である。どれだけ貧しても決して鈍しない精神もあるし、それが文学、文学者というものであった。ならば責められるべきは売上げ低迷に苦しむ普通の組織の編集部ではなく、やはり書き手の方だ、ということだろう。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■