今月からすばるの時評を始めます。例によってキリのいいところからということで、2021年01月号から。じょじょにペースを上げてゆきます。
おさらいになるが文藝春秋社は純文学小説誌の文學界と大衆小説誌のオール讀物を刊行している。日本を代表する文学新人賞の芥川賞と直木賞は実質的に文藝春秋社主催なので、文學界とオール讀物(それに同社文藝春秋)が賞の発表誌ということになる。この純文学と大衆文学の二本立ては他社にも及んでいて、集英社の純文学誌はすばるで大衆誌は小説すばる、講談社は群像と小説現代、新潮社は新潮と小説新潮になる。日本の純文学小説誌は文學界、新潮、すばる、群像、文藝の五誌でこれを文芸五誌と呼ぶが、純文学誌と大衆誌の二つの小説誌を持っていないのは河出書房新社の文藝のみということになる。
つまり日本の小説の世界は純文学と大衆文学に分かれている。乱暴に言えば純文学小説は読んでもちっとも意味がわからないし面白くもないが、きっと高邁なことが書かれているのだろうと思われている一連の辛気臭い小説である。心理学で学生たちを2グループに分けて単純作業をさせ時給1ドルと100ドルを払った後にアンケートを取ると、時給1ドルの学生の方が「意義ある仕事だった」と回答する確率が高いという結果が出た研究がある。人間は自分が費やした時間をムダだと思いたくないということである。イライラして眠くなるような純文学小説を数日かけて読み通した読者は「よくわかんないけどそれは自分が悪いんだろう、きっと高邁な事が書かれているに違いない」と思いがちだ。感想を聞いても「なんだかよくわかんなかった」という返事が多く、「つまらん」という感想は少ない。
ただそう思わせるためには〝権威〟が必須である。芥川賞が日本で最高の文学賞(実際には文藝春秋社主催の純文学の新人賞だが)と刷り込まれているのはそのためである。でないとたいていの芥川賞受賞作は読むに値しない。じゃあなぜそんな制度があるのかといえば、確かに10年に一度くらい(もっと長いかもしれない)は傑作が生まれることがあるからである。俳句で芭蕉「古池や」といった名句を詠むのは至難の業だが、そのために毎日毎月毎年膨大な駄句を俳人たちが詠み続けているのと同じである。
大衆文学は文字通り大衆のための小説である。エンタメ小説だと言っていい。推理、サスペンス、SFも日本では大衆文学に属することが多いが、文藝春秋、新潮、群像、集英社が出す大衆小説誌ではそこにチャンバラ(時代小説)、イロモノ、風俗モノが加わると言っていいだろう。大衆小説は読みやすく読者をハラハラドキドキさせる小説である。ただ大量に読んでいるとこれはこれで物足りなくなる。純文学作家は体に力が入りすぎで高飛び競技で宙に舞い上がってもバーを落としてしまうことがほとんどだが、大衆小説作家のバーの位置は低すぎる。それがなんとなく目に入ってきて飽き足らなくなってしまうことがあるわけだ。大衆小説の質もそれほど高いわけではない。
ただ漫然とSNSを見ているだけでもわかるが、読書は今や特殊な趣味だ。若者の間で遊びといえばゲームであり、暇つぶしはTikTokやYouTubeが大半である。読書好きで本棚が本で埋まっていること自体が自慢になる。そんな人は少数だからだ。つまり小説の読者人口は急激に減っており、底辺から大きく回復する見込みは今後もないだろう。
もちろん今後も売れる本は出るはずだが読者人口のパイが急激に縮小しているわけだからその確率も低くなる。大衆小説だからといって安穏とはしていられない。純文学と大衆文学という、今のところ絶対的に見える日本の文壇制度は危うい。危ういというのは作家にとって、ということである。出版社は限界まで純文学と大衆文学の二本立てを続けるだろうが、作家がそれを盤石だと思い込み滅私奉公するのは危うい。泥船に乗り続けるようなものだ。
誰が見たって今後は、作家がそうとうに頑張らなければ少数だろうと読者を惹きつけておくのが難しい時代になる。これも単純に言えば面白くてそれプラスの純文学的要素がなければ純文学も大衆文学も生き残りにくい時代になるということである。
近況報告とも言えないような言葉を、しばらく交わす。それだけの会話でも初子には久しぶりのことだった。はじめはわくわくするようだったが、すぐに気分は苛立ちに変わった。ミソノさんとは教室でとくに親しかったわけでもなかった。そういう相手と当たり障りのない会話をしたところで、なにがどうなるものでもない。
「今日お電話したのはね、おうかがいしたいことがあったからなの」
初子の気持ちが伝わったかのように、ミソノさんはそう言った。
「乙事百合子の出身地。初子さん、わからない?」
井上荒野「乙事百合子の出身地」
井上荒野さんは直木賞作家だが純文学作家と呼んでいい小説家の一人である。小説の世界では一昔前までは純文学でデビューしても、じょじょに大衆文学にシフトしてゆくのが普通だった。三島由紀夫や遠藤周作らもそういった道をたどった。純文学一辺倒では読者を惹きつけるのが難しく、物語のあるエンタメ小説で、なおかつ純文学的要素のある作品を書こうと作家たちは努力してきた。三島の『金閣寺』や遠藤の『沈黙』などはその白眉である。純文学と大衆文学の中間にある小説は文字通り中間小説と呼ばれていた。古典小説を読めば明らかだが、読んでもつまらない小説に傑作はない。たいていの小説の傑作は中間小説である。
井上さんは大衆文学から純文学にシフトしていった作家ではない。最初から彼女の小説にはエンタメ要素があり、純文学要素があった。日本の文壇は男たちが仕切っているので女性作家の純文学性に鈍いところがある。特に女性作家の場合、面白くて売れる小説ならたいていことごとく直木賞大衆作家にカテゴライズしてしまう。最初から大衆作家であり純文学作家でもある小説家には江國香織さんもいる。江國さんも直木賞作家だ。
「乙事百合子の出身地」の主人公は老境に差しかかった初子である。コロナ禍の生活の中で外には出ず、食品なども宅配で済ませている念のいりようだ。つまり時事ネタを取り入れた作品である。また家から出ない老境の初子という設定はある意味完全なフィクションである。井上さんは若い女性を主人公にしても生き生きとした小説を書くことができる。村上春樹さんは今年で七十二歳で高齢と言っていいが、彼が二十代の若者を描いても誰も作家の年齢を気にしない。作家とは本来そういうものだ。作家の実年齢と作品の老いが重なるのは純文学的な低次元のクリシェに過ぎない。
初子の家に以前英会話スクールでいっしょだったミソノから電話がかかってくる。刺激のない生活を送っている初子は少し浮き足立つ。しかしすぐにそれは苛立ちに変わる。ミソノは今は老人ホームに入居しているのだと言い、「乙事百合子の出身地。初子さん、わからない?」と唐突な質問を投げかけた。乙事百合子はそれなりに読まれた作家だが、出身地を非公開にしていた。ミソノはホームで一緒になった人が、自分は乙事百合子の同級生だったと言うのを聞いたのだった。しかしその人はウソつきなので信用できない、そこで初子に電話してきて乙事百合子の出身地を知らないかと聞いたのだった。初子が知るはずもない。
莉里は拍子抜けした――というより、正直なところぎょっとなった。
いきなり中に入れるとは思っていなかったのだ。この仕事に転職して三ヶ月あまりで、まずまずの営業成績を上げているのだが、初手から家に上がりこむのははじめてだった。
この辺では大きなほうの、年季が入った家だった。そういう家を選んで呼び鈴を押すのだ。ドアの鍵が内側から開けられる音がして、「どうぞ」という声が聞こえた。自分で開けろということだとわかるので、そうすると、三和土から一メートルあまり離れたところに、小柄な老婆がつくねんと立っていた。(中略)マスクをつけているせいでわかりづらいが、莉里の母親よりは年上、祖母よりは下ということだろう。
同
小説は途中から主人公が若い莉里に変わる。莉里は浄水器の訪問販売をしている。詐欺ではないが高い値段で売りつける詐欺まがいの商売だ。莉里は体調が優れない。仕事終わりに同僚四人と飲んで、そのうちの一人でかすかに好意を寄せている政則と公衆トイレでセックスした時に妊娠したのではないかと心配している。それだけではない。熱っぽくもある。もしかするとコロナに罹ったのかもしれない。政則は莉里が妊娠したかもしれないことを知らない。電話すると同僚の太田がコロナに罹ったのだと言う。しかしそれを隠して営業の仕事を続けている。「いや、だから、しばらく太田には近づかないようにしようぜ」と政則は言った。莉里も政則も井上さん好みの人物造形である。何も考えずに危ういところに踏み込んでゆく。そして痛い目に遭い静かに蹲る。
「乙事百合子の出身地を知っていますか?」
莉里は男に向かって言った。男は、ポストが口を利いたとでもいうように目を剥いた。
「乙事百合子の出身地を知りたいんです、私たち」
男は莉里から老婆の方へ視線を移し、老婆は莉里の顔を見た。莉里はある種の期待を込めて見返した。すると老婆はすうっと莉里から目を逸らして、男のほうを向いた。
「何でもないのよ。この人は浄水器を売りたいだけなの」
老婆は言った。落ち着いた、なめらかな口調だった。それからあらためて莉里の方を見た。
「悪いけど、もう帰ってくれる? 詐欺まがいの商品でしょう。わかってるのよ、何の役にも立たない浄水器だって。だまされないわ。そんなものにだまされるほどの年寄りじゃないのよ」
老婆は自分の言葉に煽られたように、次々に言葉を繰り出した。
娘はものも言わずに玄関へ歩いていった。
同
訪問販売では玄関先で追い返されるのが普通なのに、初子は莉里を家に上げた。その目的はすぐに明らかになる。初子は「あなた、乙事百合子の出身地をご存知?」「もし教えてくださったら、契約してもいいですよ」と言ったのだった。もちろん莉里にわかるはずもない。そうこうしているうちに二階から老人が降りて来て「何でセールスなんか家に入れてるんだ? 何考えてるんだ? 昼飯はどうなってるんだ?」と怒鳴った。
初子は狼狽した様子を一切見せない。夫の怒鳴り声と横暴には慣れているのだ。莉里は初子を一種の共犯者にして、夫に「乙事百合子の出身地を知りたいんです、私たち」と言う。しかし莉里の期待は肩すかしを食らう。初子は「何でもないのよ。この人は浄水器を売りたいだけなの」と莉里を突き放した。
本質的には何もすることがない、なんの目的も持っていない二人の女性の姿が描き出される。初子はミソノの電話で退屈だが平穏な生活を乱された。気まぐれに莉里を家に上げて、ミソノが自分に発したように解けない謎を莉里に投げかけた。初子はミソノがヒマを持て余して電話してきたことも、もしかすると痴呆が進んでいるかもしれないこともわかっている。莉里は初子の暇つぶしに付き合わされたわけだが、彼女の心を占めるのは仕事ではない。初子は夫といっしょだが孤独で静かな生活に戻り、莉里は生きるための仕事と男に翻弄されながら、同じく孤独に外に放り出される。
35枚ほどの短編小説だが、井上さんが得意としておられる生の残酷とその底に横たわる諦念が描き出されている。小説には落差が必要だ。老人が老人らしい生活をしていたのでは不十分だ。若者が若さを恃んでいただけでは限界がある。長編小説としても展開できる設定が凝縮されているのが優れた短編小説である。
大篠夏彦
■ 井上荒野さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■