白地多彩草花文タイル スペイン セヴィリア地方 クエンカ技法 十六世紀初頭 縦9×横9センチ(著者蔵)
図版掲載したのはレコンキスタ間もないスペインのセヴィリア地方で盛んに作られたタイルである。クエンカ技法と呼ばれる手法で制作されている。クエンカ技法は型を粘土板に押し当てて凹凸を作り、凹んだ部分に色釉を乗せて焼成する技術である。タイルで建物を装飾するのはイスラーム建築の大きな特徴であり、偶像崇拝を禁じた宗教なので草花文やモザイクなどの抽象文が多い。アラビアではすでに十三世紀頃には浮き彫りレリーフのタイル技法があったので、クエンカ技法のタイルの多くはムスリム系の陶工によって作られたはずである。
ピラトの家 外観(スペイン セビリア県サンタ・クルス地区)
ピラトの家 内観(壁)(同)
ピラトの家は一四九二年にドン・ペドロ・エンリケテス・デ・リベラが着工し、その息子のドン・ファドリケが一五四〇年に完成させた邸宅である。エルサレムにある、イエスに死刑宣告をしたピラト総督の家を模して造られたと言われる。キリスト教徒の家であり礼拝堂もあるが、ゴシック、ルネサンス、イスラーム美術が混淆したムデハル様式建築の傑作である。特に壁の装飾にはイスラームの影響が色濃い。写真掲載したように、クエンカ技法のタイルも無数に使われている。レコンキスタ直後のスペインでは、いかにイスラームの影響が強かったのかを物語る遺構である。
言うまでもなくキリスト教徒の礼拝所は教会であり、イスラーム教徒の礼拝所はモスクと呼ばれる。おおざっぱに言えば、教会の建築様式の特徴は外観に最も良く現れている。天を突くような高い塔になることが多いのである。キリスト教は当初から政教分離であり、人間の魂が救われ安住する場所は、地上ではなく神のいます天であるという教義に沿った建築様式だと言える。しかしイスラームは政教一致で地上も天も神のものである。そのため巨大なモスクも造られたが尖塔の形を取ることはない。どちらかというとずんぐりとした形をしている。偶像崇拝を禁じているのでモスクの中には何もない。内壁を装飾する煌びやかなタイルだけが光り輝く神の世界を象徴している。
イスラームに統治されていた期間のイベリア半島で、中世イスラーム哲学が大発展したことはよく知られている。スペインのコルドバ生まれの哲学者アヴェロエスがその代表で、アリストテレスの注釈をした大著を著した。それがラテン語などに翻訳され、ヨーロッパがギリシャ哲学に触れるきっかけになったのである。またイブヌ=ル=アラビーの学業も名高い。ル=アラビーはムワッヒド朝のアンダルシアで生まれた哲学者である。アラビーの学問はイスラーム神秘主義思想(スーフィズム)と呼ばれる。中世イスラーム哲学をリードしたのはイベリア半島生まれのムスリムだったのである。
礼拝の仕方にも現れているが、キリスト教徒の精神は論理階梯を登って神に近づこうとするようなピラミッド型である。それに対しムスリムの精神は内向的だ。母の胎内のようなモスクの中でムスリムは精神を内向させ、神を身近に感じようとするのである。その極端な現れがル=アラビーから始まるスーフィズム思想だと言える。スーフィズム思想の流れは複雑だが、簡略化すれば人間の精神を極限まで内向させて神の真姿を見出すのである。神人一体の境地と呼ばれるが、それは唯一絶対神を信仰する大多数のムスリムにとっては許し難い多神教の異端であり、スーフィーは激しく弾圧され続けた。
しかしスーフィーはさらに精神を内向させる。預言者ムハンマドにアッラーが顕現したわけだが、スーフィーはそれは神が人間にその存在を明らかにしようと意志したからであり、神の真姿はアッラーとすら呼び得ない完全に絶対不可侵の存在様態であると考えるようになるのである。無から光を放って神が顕現するというスーフィーの直観は、奇妙なまでにビッグバン理論の宇宙論と似ている。また神や仏以前に絶対不可侵で名付けようのないエネルギー総体としての無を見出す思考は、ヒンドゥーや仏教、ユダヤのカバラ思想にも見られる東洋思想の基幹である。
レコンキスタ後の中世スペインでは、アビラの聖テレサ(一五一五~八二年)、十字架のヨハネ(一五四二~九一年)といったキリスト教神秘思想家が現れた。それは偶然ではなく、井筒俊彦が論じたように、スーフィズムを中心とした東洋思想がスペインのキリスト教思想家たちに流れ込んでいるのである。それはイエズス会を設立し、日本にまで宣教師を派遣することになるイグナチオ・デ・ロヨラ(一四九一~一五五六年)にも指摘することができる。彼はカスティーリャ王国領バスク地方出身の修道士である。ロヨラの『霊操』にも神秘主義思想の色彩が濃い。日本にまで来航した宣教師たちの精神には、神の声を聞き、それに従うといった神秘主義的思想があったのである。
マドリード王宮 陶磁の間(スペイン マドリード)
スペインの首都・マドリードに現存している王宮は、フェリペ五世時代の一七六四年に完成した。王宮の一角に陶磁の間があるが、使われているのはほとんど磁器である。「第008回 デルフトの衰退とデルフトの誕生」で書いたように、磁器では東洋に後れを取っていたヨーロッパは、ザクセン王アウグスト強王の命を受けた錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによって一七〇八年に磁器制作に成功した。磁器制作が可能になるとヨーロッパの王侯貴族たちは、中国や日本からの輸入磁器ではなく、自分たちの好みが的確に反映された国産品を好むようになる。アウグスト強王はすべて磁器で出来た日本宮殿を構想したが(王の死によって完成されなかった)、マドリード王宮の陶磁の間も当時は非常に高価だった磁器で作られている。ただその装飾様式はヨーロッパ人の好みに沿っている。
アランフェス離宮 陶磁の間(スペイン マドリード)
スペインのマドリードにあるアランフェス離宮の陶磁の間は、カルロス三世(一七三五~八八年)時代に作られた。壁面の磁器パネルは中国や日本の故事を表している。ザクセンでの磁器制作はマイセン窯となってヨーロッパを席巻するが、それは当初は国家機密だった磁器制作技法の急速な流失を招いた。スペインでも国産磁器が作られ始める。アランフェス離宮で使われた磁器はマドリード郊外のブエン・レティロ窯で制作された。この頃になるとスペインを含むヨーロッパの王侯貴顕は、純ヨーロッパ的な装飾とともに、中国や日本といった遠く離れた東洋へのあこがれを強めていく。大航海時代によってもたらされた国力の増大を基盤にして、文化的にも軍事的にも衝突を繰り返したイスラームの影響が急速に消え去ってゆくのである。
鳥草花文手付き壺 スペイン 十七世紀後半~十八世紀初頭 高さ24・7×幅16・7(最大経)×底直径9・4センチ(著者蔵)
写真掲載した鳥草花文手付き壺はスペイン製だが、一見してわかるようにマジョリカ様式である。マジョリカ焼は陶体に錫釉で化粧掛けして、その上から色釉で彩色した焼き物を指す。マジョリカ焼は狭義には十五から十六世紀にイタリアで作られた物であり、同じ様式のスペイン製の陶器はスパニッシュ・マジョリカと呼ばれる。ヨーロッパ陶磁史では、イタリアのマジョリカ焼の陶工たちがヨーロッパ全土に分散し、オランダのデルフト焼などを始めたというのが通説である。イスラーム陶の影響はあまり語られることがないのだが、もちろんそんなことがあるはずはない。
マジョリカ焼は地中海のスペイン領マリョルカ島が語源だと言われるが、マラガのアラビア語名が語源だという説がある。恐らくこちらの方が正しいだろう。マラガはナスル朝の首都グラナダに近く、そこで消費する陶器の一大生産地だった。マラガで作られた陶器がマリョルカ島を経由して世界各地に輸出されていたのである。ヨーロッパのイスラーム恐怖症とでも言うべき心性が、マジョリカヨーロッパ陶器起源説を生み出したのである。
色絵花文細水指 スペイン 十七世紀末 高さ15・7×幅10・3(最大経)×底直径8・4センチ(著者蔵)
色絵花文水指 スペイン 十七世紀末 高さ18・2×幅14(最大経)×底直径10・4センチ(著者蔵)
茶道具で使う水指だが、元々はスペインで作られたアルバレロと呼ばれる形の陶器である。アルバレロは薬などを入れるための壺だった。二代将軍徳川秀忠の墓からアルバレロが出土しており、これは薬を入れた壺だったと考えられている。それがじょじょに水指として使用されるようになった。最初の作品は細水指と呼ばれる。水指はお茶席で茶釜に水を足したり、茶碗や茶筅を洗う水を溜めておくための御道具である。握り拳が入るくらいの口径の壺が水指に適していると言われるが、写真のような口径十センチ前後の細い水指も使われた。二つ目の写真の水指は大型で、こちらは握り拳が入る口径がある。
最初の細水指は、昭和六十二年(一九八七年)に根津美術館で開催された『阿蘭陀』展に出品された水指と同じ模様である。日本の茶道界ではヨーロッパから伝来した陶器を産地を問わず阿蘭陀と呼んだ。根津の『阿蘭陀』展では、その中から茶道具として日本に伝世した作品が集められた。写真掲載した作品二点も日本で水指として伝世した作品だと言っていいだろう。十八世紀になってヨーロッパで磁器生産が始まったが、それは当初高価だった。磁器と平行して日常雑器である陶器も綿々と作り続けられたのである。日本人は昔から舶来物が大好きだが、当時の中国や韓国は磁器窯に移行しており、陶器の優品が入手できなくなり始めていた。ヨーロッパではまだ盛んに陶器が作られていることを知ったお茶人たちが、それを買い求めるようになったのである。
図録解説で根津美術館学芸員の西田宏子氏は一六四〇年十二月三十一日付けでバタビア城日誌に残された、オランダ商館長フランソワ・カロンの報告書を紹介しておられる。「加賀殿(堀田加賀守だと推測される)より茶に用いる炻器の鉢十八個を、木製見本二個の通りに作る注文があった。(中略)商館長の書翰に記せる通りの彩色と花文様を付けるように」とある。日本の茶人は中国や朝鮮に対するのと同様、規模は小さかったがオランダ商館を通して木型の見本を現地に送り、自分たちの好みに合った作品を焼かせていたのである。キリスト教を想起させる模様は御法度ということもあり、江戸初期頃までに伝来した阿蘭陀焼(スペイン、フランス、ドイツ製品も含まれる)はイスラーム的な草花文が多くなっている。
世界中どこに行ってもそうだが、焼き物は要するに実用品である。一握りの飾り皿を除いて、王侯貴族から庶民に至るまで実際に使うために買い求めた。そのため産地がわからなくなってしまうことが多い。よほど最先端技術を使った高価な物でない限り、誰もどこで作られたのか気にしていなかったのである。特に十七、十八世紀頃の色絵ヨーロッパ陶器の産地判別は難しい。ヨーロッパ中で似たような作品が作られている。しかし日本で伝世した作品には明らかな特徴がある。
写真掲載した水指は背が高いが、同じ円筒型でもずんぐりとしたアルバレロ型はヨーロッパではほぼ出土例がなく、日本注文だと考えられている。またヨーロッパのアルバレロの大半は背の高い円筒型だが、胴の部分が絞られている物が多い。しかし日本伝世の水指は、胴が直線かむしろ張り出し気味の物が多いのである。微妙な差違だが、やはり日本の茶人による注文品が現在まで数多く残ったのだと言っていいだろう。
イスパノ・モノレスク様式のアルバレロ 十五世紀(バレンシア・ドン・ファン研究所蔵)
イスパノ・モノレスク様式の皿 十五~十六世紀 マニセス窯(バレンシア国立陶芸博物館蔵)
イスラーム王朝時代にイベリア半島で焼かれた陶器をイスパノ・モノレスク様式と総称する。それを見るとタイルなどは煌びやかなのだが、壺や皿は色を使っていても落ち着いた地味な印象である。これはイベリア半島のイスラーム王朝がスンニ派だったことが影響しているのかもしれない。わたしたちがすぐに思い出す中東の焼き物のほとんどはペルシャ(現イラン地方)産である。ペルシャはシーア派であり華やかな装飾を好む。スンニ派ではモスクは神への祈りの場だからタイルを貼って絢爛豪華にするが、日常雑器は質素なものを好む傾向があったようだ。
スペインではイスラーム時代に作られた陶器作品が、ほとんど先史時代の遺物のように扱われている。その大半をキリスト教徒ではなくムスリムが作り、レコンキスタが現在のスペイン人のアイデンティティそのものだからである。いわゆるスペインは、プラド美術館所蔵のゴヤなどから始まると言っていい。スペイン以前の遺物としてイスラーム建築や陶器が冷遇されているのは当然だが、ヨーロッパ陶器がイスラーム陶器を母胎として発展していったのは確実である。ヨーロッパ人たちはその上に自分たちの好みの装飾を付け加え、今日わたしたちがヨーロッパ陶と考える作品を作り出したのである。
室町時代末から江戸時代初期(十六世紀後半から十七世紀初頭)にかけて日本にもたらされたいわゆる阿蘭陀焼は、ヨーロッパ人が好みの陶器を作り始めた時期に当たる。しかしそこには長い間続いたイスラーム陶器の影響がまだ微かに残っている。池に大きな石を投げて広がる波紋のように、日本にスペイン、ポルトガル、オランダ船が来航したのは、そもそもレコンキスタを中心とするヨーロッパ人とイスラームとの戦いの結果なのである。通信や交通手段が未熟だった時代でも世界はつながっていた。日本に残された陶器が当時輸入された物のほんの一部だということを考えれば、わたしたちが想像しているよりも遙かに活発な交流があったはずである。
現代は情報化時代であり、一部の機密情報を除いて以前とは比較にならないほどの膨大な情報が公開されている。誰もが情報の洪水にさらされているわけだが、そこで起こっているのは開かれた知の発展ではなく、むしろ保守化である。多くの人々は情報洪水から精神を守るかのように自分にとって都合の良い情報を集め、それに頷き、一定の方向に精神を固着させたがる傾向が見られる。情報自体は等価だと言われるが、そんなことは絶対にないのである。情報には必ず価値判断が付いてまわる。ある〝事件〟が起こり、それが人間の精神を通して文字化され、広く伝達される際に、情報の方向付け=価値判断が生じるのである。
社会的事件そもののが、そもそも情報=価値判断の集合体である。簡単な言葉で言えば事件は多面的であり、立場が違えば情報の質もまた変わる。現在の情報化社会は開かれた世界の幻想を見せながら、個々の人間レベルでは保守化をもたらしているが、それもまた変わってゆくだろう。情報が価値判断を含む思想だということを理解すれば、事件は多面的なものとして認識されるようになる。それが情報化時代の開かれた人間の知の基盤を形作ってゆくはずである。骨董などという古めかしい趣味のジャンルにもその影響は及ぶだろう。
趣味で楽しむ分には許されるだろうが、骨董エセーなどで「この姿がたまらない」、「景色が素晴らしい」といった印象批評はじょじょに消えてゆくと思う。情報化社会ではその程度の情報(美意識であれ)は骨董好きのほぼ全員が共有している。骨董の世界に限らない。小説などでもその書き方のノウハウが大量に流出している。情報化時代ではどのジャンルでも入り口の門をくぐるのは簡単だが、プロの要件を満たすためのハードルは以前とは比べものにならないほど高くなる。情報化時代ではまず一定の方向付けをされた情報を等価に扱い、ある事件の全貌を球体のように把握する全体的知性が求められるだろう。
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■