谷輪洋一さんの金魚エセー『No.005 第28回 三島賞発表記者会見 ニコニコ動画』をアップしましたぁ。三島由紀夫賞は新潮社主催(正確には財団法人新潮文芸振興会)で、岡田利規さんの『現在地』、滝口悠生さんの『愛と人生』、高橋弘希さんの『指の骨』、又吉直樹さんの『火花』、上田岳弘さんの『私の恋人』の五作が候補作になり、上田さんの『私の恋人』が受賞されました。選考委員は川上弘美、高村薫、辻原登、平野啓一郎、町田康の五氏です。選考委員長の辻原登さんが発表記者会見をされ、それがニコニコ動画で生中継されました。谷輪さんはこの記者会見の動画を取り上げておられます。
谷輪さんは、「このニコニコ動画の記者会見動画を取り上げるのは、それが話題になったからでも、金魚屋に縁のある辻原登氏の会見だからでもない。・・・ここでは純文学のインサイダーとして、ピース又吉氏の作品と受賞作品とを文学的見地から細部にわたって評価し、公平であることを前提として、決まった受賞作をそれなりに諾う(たぶん)というのが「正しい」のだろう。しかし、なんでだ? この記者会見を見て、しかし取り上げるに値すると感じるのは、そういった「正しさ」への疑念とか、賞というものの意味とかについて、ちらっと思いをよぎらせるものであったからだ。それはただ、異議申し立てといったような大仰なものではなくて、だからこそ本質に近い」と書いておられます。
10代20代のピュアな作家は、文学メディアや賞は絶対的に公正明大だとお考えになっているかもしれません。しかし人文学の世界はスポーツのやうなわけにはいきません。まーいろんな要素が複雑に絡み合います。ある程度キャリアのある作家たちの作品は、一定レベルを超えています。ダントツに優れている作品があれば別ですが(それでも選考委員の満場一致になることは稀です)、たいてい票(好み)は割れます。そうなると候補作家が持っているポテンシャル全てがそこはかとなく検討材料に入ってくるわけですが、そりを言い出すときりがありません。それにポテンシャルの評価も相対的です。
候補者が選考委員のどなたかと懇意だとか、賞の版元から本が出ているとか、若いとか、特殊な職業についているとかが受賞に有利に働いたりします。ある人たちから見れば、それってどーよっていふことになりますが、さういふそこはかとない機微は、小学校で学級委員を選ぶ時にだってありますよね。就職だってさうかな。大人の事情が絡む場合、できるだけ公正にといふのが精一杯で、たいていの賞はそれぞれの事情を抱えながら、可能な限り公正であらうとしているわけです。もちそーぢゃないだろうといふ賞もありますが、三島賞を含む小説界の賞はかなり公正度が高ひと思います。
三島賞は1人受賞といふことで上田さんの『私の恋人』に決まったわけですが、最後まで又吉直樹さんの『火花』と受賞を争ったやうです。谷輪さんは「辻原登氏は最初、二人受賞でいいではないか、と主張したという。・・・場合によっては二人受賞でもいいし、白熱した議論の上、このように受賞者が決まったこともよかった、ということである。その経緯にも心境にも嘘はなくて、まあ、そんなものだろうと万人を納得させる。すなわち賞というものも何かの方便であり、何の方便なのかは個々の価値観に属するということだろうし、それこそがコモンセンスである」と書いておられます。まあその通りですね。
最近の芥川賞・直木賞は2人受賞が通例になっています。こりはけっこういいやり方だなぁ。要は一定レベルを超えている作品なのだから、2人受賞でもいい。それに2人受賞は〝保険〟をかけやすい。当たり前ですが賞は対外的なもので、賞を出す側も受賞する側も世間で話題になることを期待します。話題になって本が売れれば出版社も作家も仕事がしやすくなりますからね。2人受賞なら話題作と実力作を組み合わせたり、また自社以外の版元から出ている本に受賞させることで、文壇の公器として振る舞うこともできるわけです。不肖・石川の見るところ、文藝春秋さんは文学賞のプロ中のプロです(爆)。当面、小説文学賞の世界は芥川賞・直木賞の独断場だらうなぁ。
ただま、「もらっといてやる」、「わたしが受賞して当然」といった言葉は、かなり文壇に首まで漬かってる感じがしますねぇ。あんまり書くと怒られちゃいますが、石川、そういふ発言が出る背景がよーくわかりますし、ほとんど涙するくらい苦労されていると同感します。でも文壇を社会と同一視するのは危なひです。又吉直樹さんの『火花』は売れました。読者がいます。いろんな見方はあるでせうが、読者がついている作家が一番強いのでありますぅ。
■ 谷輪洋一 金魚エセー 『No.005 第28回 三島賞発表記者会見 ニコニコ動画』 ■