北村匡平さんの映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.013 若者の「狂気」が俳優に映像化されるとき―アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』』をアップしましたぁ。アッバス・キアロスタミ監督はイラン人の巨匠で、『桜桃の味』でカンヌのパルム・ドールを、『風が吹くまま』でヴェネツィア国際映画祭審査員特別大賞を受賞しています。『ライク・サムワン・イン・ラブ』は2012年の作品で日本国内で撮影されました。奥野匡、高梨臨、加瀬亮さんらが出演しておられます。撮影監督は柳島克己さんです。
北村さんは『ライク・サムワン・イン・ラブ』の加瀬亮さんの演技を元に、まず日本映画で表現されている男性イメージについて考察しておられます。「この映画の加瀬亮演じるノリアキが現代日本の若者像の一側面を極めて克明にとらえていることはここに強調しておきたい。そのイメージは、1990年~2000年代の俳優、例えば萩原聖人、いしだ壱成、窪塚洋介、オダギリジョー等が体現してきた新しい男性イメージの延長線上にありながら2010年代的な新しさを提示しているように思われる」と論じておられます。この分析はすんげぇ面白いです。
また加瀬亮さん演じる若者について、「その「恐ろしさ」とは、自らを相対化できない眼差しであり、自分を絶対的に評価する根拠ない自信を持ち合わせているところにある。1990年代~2000年代のポストモダン的な俳優たちに、シニカルに社会的文脈を脱政治化することによってかえって政治的なポジションを提示してしまう逆説があったとすれば、そういった浮遊感とは異なり、本作の加瀬亮のキャラクターは右(左)傾化する若者像に親和性があるように思われる。しかしながら、ここには徹頭徹尾「社会」なるものが不在である。1990年代以降、主人公たちの世界が「社会」を感じさせる物語は徐々に縮減していくが、本作におけるその不在は、加瀬亮の演じるノリアキの極端な「視野の狭さ」、あるいは、小さな自分の世界やそこに生きる自分を全面的に肯定する姿から感じられる」と北村さんは批評しておられます。
こりは見事な読解だなぁ。的確な映画批評であり現代批評だと思います。全編じっくり読んでお楽しみください。
■ 北村匡平 映画批評 『創造的映画のポイエティーク』『No.013 若者の「狂気」が俳優に映像化されるとき―アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』』 ■