ラモーナ・ツァラヌさんの連載エセー『交差する物語』『No.017 神様の居場所』をアップしましたぁ。イースター(復活祭)についてのエセーです。日本ではバレンタインディやクリスマスが完全に国民行事として定着してしまひましたが、キリスト教徒ではないのにキリスト教のお祭りを祝うのは日本くらひかもしれまへん。それに対してはいくらでも批判できるわけですが、日本はどーしてこうルーズなのかを明らかにする方が、日本文化の本質に迫るテーマかもしれせんね(爆)。
ラモーナさんは、「中世にオスマン帝国がヨーロッパを侵略しようとした時、ドナウ川の北にあった現ルーマニアの基になった国々の激しい抵抗にあった。・・・しかし、政治的にも軍事的にも抵抗できなくなった15世紀頃、全国が破滅されないように、国中の村がオスマン帝国に貢ぎ物を納め始めた。貢ぎ物を定期的に送っていた村はオスマン帝国の庇護を受けていた。つまり、キリスト教徒は自分たちの信仰を保つことができたのである。その印しとして、村の中心にある教会の塔の十字架にオスマン帝国のシンボルだった半月が付いた」と書いておられます。
こりはオスマントルコでは一般的な統治方法で、貢ぎ物(税金)によってイスラーム以外の民族と宗教の生存権を保証する方法です。アラブ人は古来有能な商人でもあり、イスラーム化した後も、意外と合理的な政治・経済システムを保持してきたのですね。でも最近話題のイスラーム国は非妥協的です。ラモーナさんが「信仰がまたも政治的な手段のために利用されて、大勢の命が失われている。人間の存在そのものが大切にされることさえない所に、神様がいるわけがない」と書いておられる通りだと思います。
イスラームが一神教だといふのは、地上も天上(天国と地獄)も神の物だといふことです。そのためイスラームは政教一致です。ですから現政権もイスラーム、反体制勢力もイスラームになります。で、反体制勢力は現政権に対抗するために、自分たちの方が〝よりイスラームなのだ〟と主張しそれを実行したりするわけです。いわゆる〝イスラーム原理主義〟ですね。でも『クルアーン』は7世紀に成立した聖書であり、それを現代に当てはめるのには無理がある。しかしイスラーム教徒である限り、〝クルアーンに忠実であれ〟と言われてしまふと、漠然と資本主義的生活を送っているイスラーム教徒はギクッとしてしまふところがあるのです。イスラーム問題はなかなか複雑でありまふ。
■ ラモーナ・ツァラヌ 連載エセー 『交差する物語』『No.017 神様の居場所』 ■